飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

ヴェネツィア(ベネチア、ヴェニスとも言う)!!

2009-01-24 19:42:57 | 日本

ベニスの休日、ベニスの商人、
ベネチア共和国、一体ヴェネツィアとは何者か?!
観光地としてしか知られていないが、
金融資本の原点が
ヴェネツィアにある!!


 今は、その本拠地を、ロンドンか、あるいはスイスかはたまた、ニューヨークか詳しいことは知らない。ひょっとして、シンガポールか香港か、いずれにしても銀行の総元締めが発祥した地であることは、夙(つと)に有名である。


 ヴェネツィア寡頭(かとう)貴族(少数の権力もった貴族=oligarchyオリガーキー(寡頭制)に依る支配体制)が、現代の国際金融資本の原点であると言われている。その本体は、ユダヤ人で構成されており、アシュケナジーもスファラディーも含む。ユダヤ人と言ってもごく少数(寡頭(かとう)貴族)である。


 シェイクスピアの『ベニスの商人』は、あながち物語上だけの話ではない。それが高利貸しを商い、やがて、銀行制度へと発展していったことは間違いがない。その源流は、シュメール文明に遡ると言われているが、そんなところだろう。


 彼らが、歴史上の王侯貴族に取り入り、浸食し、あるいは高利貸しを通じて権力を実質的に簒奪(さんだつ=奪う)していったことは間違いなかろう。それは中世において、一度の高揚期を迎え、紆余曲折を経ながら現代に繋がっている。世界支配という構想もその当時から備わっていたものと思う。中世では、ヨーロッパが世界みたいなものであるから、金融的に寡頭支配を目論んでいたことは見て取れる。


 しかしながら、ルネッサンスを経て、国民国家(ネイションステイツ)が勃興し、民族あるいは国民貴族が台頭して、対立を繰り返し、挙げ句の果てにはその力を挫くためにペストをバラマキ、暗黒の中世を現出したとされるが、あながちウソとは思えない。同時に、国家間の対立を演出し、その両方に金融的に関与し、戦争を通じて巨額の利益を掠め取ったとされる。その流れは、現在に至っている。


 所詮は寡頭(少数)勢力であるので、寄生をその手段とし、従って、姿を見せないことをスタイルとしている。影に隠れた支配勢力である。その戦略は、『利益欲望の精神』を基本理念に、世論を誘導する。現代の文明の原点は、彼らの指導理念に依るところが大きい。


 ある時には、封建制を王侯貴族の国家体制の基盤と見れば、『自由・平等・博愛』というスローガンで大衆を扇動し、共和制という新体制で破壊したり、資本主義という資本経済体制を吹聴したかと思うと、方や、共産主義経済を吹聴し、対立を煽ったりするが、所詮は『利益欲望の精神』の変形に他ならない。


 『利益欲望の精神』は、金銭崇拝に他ならない。


 自由と平等は完全に矛盾する。博愛は、『愛』の詭弁的解釈であり、友愛とも言うが、所詮はgive and takeであって、無所得の『愛』を表現していない。


 その矛盾が、破綻の瀬戸際にある。


 彼らの本体が、現在、何処に姿を隠しているのか判然とはしないが、諸々の諸国の影に隠れ、その中枢に巣くい寄生し、諸国民が安寧(あんねい=世の中が平穏無事なこと)を願う傍ら、不穏の種を蒔き続けていることは想像するに難くない。


 それは、常に連中が支配者であるとする妄想から、寡頭(少数)支配を維持したいがためである。それは、妄想故の精神的偏執性を帯びてきているから、人口抑制や人口削減という身勝手な発想も成り立つのである。


 世界は、これから、その偏執的世界観と純粋素朴な自然的世界観との対立が予想される。それは、中世以降のヴェネツィアに原点があるとする説は説得力がある。


ヴェネツィア(/ve?n??ja/(IPA)、イタリア語Comune di Venezia)は、イタリアの北東部に位置するコムーネで、ヴェネト州州都ヴェネツィア県県庁所在地である。中世にはヴェネツィア共和国首都として盛えた都市で、「アドリア海女王」「水の都」「アドリア海の真珠」など、数々の名声を我が物にしてきた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』》

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【現代のベネツィア転載】http://hisitnews.exblog.jp/tags/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2/ 

ヴェネツィアの華やかなイメージとは少々対照的な地区です。

「ゲットー(Ghetto)」とは、その昔キリスト教徒がユダヤ教徒を迫害していた時代に、唯一ユダヤ人が住むことを許可されていた隔離された地区のことをいいます。ヴェネツィアのそれは16世紀初頭に確立したものでヨーロッパ最古とされています。

中世のキリスト教徒間では宗教上の理由から、金銭を扱う(貸与して利子で儲ける)商売を罪悪だとしていたため、ユダヤ人が金融業の全般を担うようになります。
十 字軍の遠征後、イタリア商人、いわゆるキリスト教徒の資本家が力をつけてくると、貿易・商売に関する商人の世界からユダヤ人は締め出しをくらう形となり、 それまでは商業全般に携わっていたユダヤ人たちも、暗黙の了解で許されていた闇の金融業に走らざるを得なくなりました。しかし、それはいわゆる消費者金融 まがいの商売であったことから、ユダヤ人の金に対する「悪徳」イメージが固定化。それによりカトリック教会からは街からの強制退去を強いられ、この地区に 押し込まれるようにして生活せざるを得なくなったとされています。

ゲットー内には「シナゴーク(ユダヤ教会堂)」や学校なども設置され、その地区内での生活・文化が孤立する形となりました。しかし、その教育水準はかなりの高さに保たれていたようです。

ここヴェネツィアで誕生したゲットーは、瞬く間にヨーロッパ中に広まり、その後約300年間、第2次世界大戦後まで存続しました。

ゲットーでは他地区と隔離するための高い塀で囲まれていることが特徴で、壁外とを結ぶ出入り口となる門は2つ以上設けることが禁止され、その鍵はキリスト教徒の門衛が保管していたそうです。

ヴェネツィアのゲットーの門もただひとつしかなく、夜は門に鍵がかけられていたようです。もちろん現在は鍵をかけられることもなく、誰でも通行可能。ここに足を踏み入れたからといって行き止まりにあたることもありません。

今でも当時の面影を残し、広場に面した住居は、狭い空間にできるだけ多くが住めるように工夫されているのがわかります。人口が増えると必然的に上へ上へと建て増しされ、天井が通常よりも低い造りとなっているのが、外から見える窓の階層の多さで見てとることができます。

また、ユダヤ教のシンボル「ダビデの星」を目にしたり、ユダヤ人迫害に関するモニュメントがあったり・・・。異文化を感じます。


今は建物の一部がユダヤ人博物館として開放され、この地区内の観光ツアーも開催されています。ユダヤ人特有の黒い帽子をかぶり髭を生やした黒ずくめの格好をした人が観光客の対応をして観光用にも公開されています。

また、この区内にカフェ、レストラン、パン屋さんなどもあるので、ひと味違ったヴェネツィアの楽しみ方もできます。

写真のお菓子はこの地区のパン屋さんなどで見かけるもの。
「インパーデ」というアーモンドの粉と小麦粉を混ぜた焼き菓子です。食べ応えのあるずっしりとした素朴な味わい。

大通りから少しはずれ、街の中心からもずれた場所に位置するその一角は、他地区とは少々一線を画したひっそりとした雰囲気を今もなお残しており、足を踏み入れると少し違う空気の流れと歴史を感じることができます。

場所は鉄道駅「サンタ・ルチア駅」を出て左側にのびる大通り「スペイン通り」を道なりに歩き、初めの大きな橋を渡ったたもとの道(運河沿い)をすぐに左に折れます。
そこから間もなくの細い通りを入るとこのゾーンに入ります。【転載終了】