飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

マシュー君の記事連載で書きたかったこと・・・

2013-11-17 19:44:18 | マシュー君

前回ノーコメントで転載したので、
今回書いておこう・・・。
折りしも、
キャロライン・ケネディー大使が着任した!
米国民と新たな関係が結ばれることを、
誰しも期待したことであろう・・・。

 

 米国民と政府、それを手繰るイルミナティー組織は別物であると言うことであることである。イルミナティーという言葉が、違和感を持つのであれば、陰の政府、戦争屋、偽ユダヤ人犯罪組織と呼び替えてもも同じである。

 

 ジョン・F・ケネディー大統領は暗殺された。そして、その弟、ロバート・ケネディーも凶弾で倒れた。さらに、ケネディージュニアーも、飛行機事故(暗殺)で亡くなったのである。

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 これは確かに尋常な話ではない。誰がどう考えても、何か大きな力が働いているとするのが、普通の感覚であろう。一人のケネディーファンであった私が、その事をもって、アメリカ社会の病巣を感づいたのは偶然ではない。

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 それが、この度、キャロライン・ケネディー大使が誕生したことは、一つの因縁を感じるのも自然であろう。その縁となったのは、言うまでもなく、オバマ大統領であることは否定することは出来ない。

 

 そのオバマを大統領にするべく、初めて、選挙に関与したのが、キャロライン・ケネディー大使であることは、夙に知られている。この度の大使着任が、その関連で行われたことも衆目の一致するところである。

 

 オバマを単純に陰の勢力の繰り人形をする説に、頑強に与(くみ)してこなかったことも上記の流れがあったからである。マシュー君も、一貫して、それを否定してきた。それを心強く思ったことは、一度や三度ではない。今は、確信である。

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 判断するに、2つの方法がある。一つは、帰納法的判断である。もう一つは、演繹的判断である。

 

 この場合は、演繹的判断で踏襲している。

 

 始めに直感があるわけである。これは妄想という人もいるかも知れないが、歴とした科学的判断の一つである。あらゆる可能性の内、先に結論を見出す方法だ。間違いかも知れないが、感性と直感を頼りに、先ず、あり得べき結論を前提として検証していく方法論だ。

 

 妄想とそうでない区別は、検証を推し進めていくことが有りか無しかである。

 

 勿論、検証の段階で、多くの矛盾点が発見されれば、容赦なく前提結論を破棄する勇気と決断が必要とされるのも重要なポイントであることは、言うまでもない。

 

 この様な判断が、どちらかというと早く、そして、正確な場合が多い。

 

 帰納法的判断は、正確に見えて、確認出来ないものは否定されるわけであるから、本質的な結論を導くことが少ないのである。結局は、分からない、という結論に落ち着く場合が多い。

 

 分からなくては、間に合わないのである。

 

 例えば、神の存在など、結局は、分からないことで落ち着くのは、この帰納法的判断を用いることによる。見えないもの、確認出来ないものは、何時までも分からないままである。

 

 神の存在証明など、帰納法的判断では不可能である。愛の存在証明なども同じだ。そして、ETV(UFO)の存在証明なども、今の時点では、不可能である。しかし、存在する、とするのは、演繹的判断があるからだ。

Index



 

 これを馬鹿にするのは、愚かである。馬鹿にするその人自身は、そこに存在するにもかかわらず、自らの存在証明に悩み、墓穴を掘る場合もあるのである。帰納法的判断は、限られた世界にのみ通用する判断手段である思っている。

 

 こうした帰納法にのみ頼る人士は、反対の演繹法を用いる人々を、馬鹿にするのは忖度出来る。忖度出来るが、相手にするつもりはないのである。

 

 何故か?

 

 時間の無駄であるからだ。議論ばかりして、生きるには人生は短い。人それぞれであるからだ。自分の人生は、自分で選択しなければならない。そして、一定の確信を得て、生きるのが人生である。

 間違っていても、仕方ないのであるが、地歩を進めなければならないのである。間違っていることを分かれば、その時に、修正すれば良いだけだ。この事に躊躇しないし、誰彼に遠慮は要らない。

 議論して、勝つ必要はないのである。勝っても大して意味はないし、説得する必要などさらさらにないのである。

 マシュー君のメッセージが、本物か、偽物かの議論もあるだろう。それは承知しているし、その論拠も承知している。その論拠にについても、私なりに調べた。納得出来るものではなかった。で、自分の判断を覆させるには至っていない。

 もう一つ、真実性を考えるに当たって、留意する点がある。それは主張の一貫性についてである。

 ウソは、簡単に見破ることが出来る。一貫性がないからだ。

 「ウソ八百」と言う言葉があるが、ウソはどうにでも言えるのである。だから、ウソには一貫性がない。「ああ言えば、上裕・・・」ではないが、如何に弁論術に長けていても、それは露呈する。簡単に露呈しない場合もあるが、永遠に露呈しないことはあり得ない。

 リンカーンは言っている。

 

エイブラハム・リンカーン


 『少数の人をずっと欺き続けることはできる。 多数の人を少しの間欺くことはできる。 しかし、多数の人をずっと欺き続けることはできない。』のである。ずっとと言っても、永遠ではない。

 真実は、顕れるのである。

 あの世はあるかないか? こんなことは、簡単だ。人間は必ず死ぬのであるから、早晩、決着がつく。そして、魂の存在証明なども、それと同じで簡単である。

 いずれにしても、早晩分かることである。

 ETV(UFO)の存在証明も、実は簡単なのである。無いとの証明は存在しないのである。それならば、あるかも知れないとの認識に勝る認識も存在しない。あるかも知れないというのは、正しい認識であって、妄想でないことは明白である。

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 妄想であるとする見解が、如何に幼稚であることは、論理的に正しい。認識が存在する以上、それは実在する。それは、人間の意識がどこから来るかと言うことに帰結するが、意識が認識することは実在する証明だ。

 この世の中に存在するものは、全て、人間が意識したものばかりである。意識しないものは存在しない。自動車にせよ、航空機にせよ、何でもそうであるが、TVでも身の回りの全ては、人間が意識し、創造した。

 その事に例外はない。

 そのことを考えれば、演繹的思考しないまでも、帰納的に引き出せる帰結であろうと考えられるが、目で見えないものは否定するという、愚かな思考形態を持つ者は多い。自分の体験を第一に考えて、謙虚であるとするのは認められるが、それを持って、その他を否定するのは愚かである。

 大愚とは、自分に対して用いる言葉であって、大愚は大賢に通ずという、ソクラテスの言葉を含蓄すべきだ。ソクラテスは、この世ばかりでなく、次元を超えて認識していたが故に、そう表現したものであろうと推察している。

 最後に、私も無知な人間であるから、大層なことを言うつもりはないが、同じく、期限をもって生きている存在であるから、確信に生きると言うことは捨てるつもりはない。間違っていれば、何時でも修正することにやぶさかではないが、それまでは確信を大切に、そして、検証を怠らないように生きると言うことである。

 因みに、確信とは、確として信ずると言うことである。

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