飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

私は死なない! 人間は死ねないんだ・・・!

2014-09-25 13:24:32 | エッセイ風

生命は生き通しであるからだ!

と言うと、

決まって細君は、

『縁起でもないこと言わないで!』

と叱ってくる!

だって、私や〇〇り(娘の名)と、今こうして面と向かうことも、

なくなるんだよ! それでもいいの?

 

女の現実論には、グーの音も出ないから、黙ってしまうのである。

確かに、それも一理ある。

せっかくの出会いは、そんなに多くはないのだろうから、

そう簡単に、姿を消すわけにはいかない。


 


再会は間違いないとは言え、

しばしの別れには違いがない。

又、

今という時は、二度と来ないのである。

 

そんな私にも、

年老いた母が居る。

老介護の一助の日々であるが、

『人は、誰でも必ず死を迎えるからね。

でも、

やっぱり、それでも命は続くから、安心して、逝くんだよ!』

とは、面と向かっては言えない。


 


『長生きするんだよ。』

としか言えない。

やっぱり、誰でも今生きているこの世界が、

中心なのである。

 

昨日というわけではないが、

母の同級生あたりは、

一人欠け、二人欠けしている。

気丈ではあるが、

その度に、

しばらくは落ち込んでいる・・・。

 

理屈では、

分かっていても、

元気を取り戻すには、

少なくともひと月は掛かる勘定である。

 

諸行無常、

諸法無我、

涅槃寂静とは言うものの、

しばしの別れは辛いものがある。

それが人情というものである。


 


田舎住まいの母の友が、

又一人、急逝した。

私の友人の母でもある。

当然、

野辺送りには、私は出席したが、

母は、辞退した。

身に堪えるという理由からである。

それから、

心なし元気がしばしの間、消えた。

 

時には、ケンカもした間柄でも、

身近な死は、やっぱり、相当堪える様子だった。

 

それでも

彼岸での帰省では、

存外元気になっていた。

この世界では、

時は、薬である。

 

 


いずれ遠からず、

しばしの別れが訪れることは確実なのだが、

口には出来ないし、

考えないようにしている。

 

今を生きるしかないのである。

 

又、

そう考えると、

今という時が、愛おしくなる。

過去、

確かに母であったが、

今は、一人の老母であって、

母というより、〇〇 〇子という少女に接するような気持ちで居る。

 

その母の父(母は養女であった)の代わりに、

恙(つつが)無い、安らいだ心境を慮る・・・。

親孝行という概念では、

ほとんどない。

同悲同苦の同伴者である。


 


きっと、

母の父(つまり、祖父)が私に憑依しているのではないかと、

体感している。

祖父の目で、母を観ているのである。

 

話は変わって・・・

細君と出会って、

まさか結婚するとは思っては居なかったが、

『ずっと、傍にいるからね。』

と言い残して、

遠くの町に仕事で出かけた。

 

当時は、

やるべきことがあり、

追っかけていたのである。

 

それが、

突如結婚したのは、

『傍に居なければ、ないのと同じ・・・』

と言う細君の現実論に負けたのだ。

そして、

運命の歯車が、

奇跡のごとく転回した。


 


かくて、

あれから、

幾星霜が過ぎた。

 

共白髪に近づいてきたが、

何が人間を結び合わすかは、

本当のところ知れない。

多分、

出会いは恣意的に当人同士が作れるものではなく、

偶然か、必然かだろう。

 

必然であろうと思っている。

出会いは神(上=ハイヤーセルフ)しか作れない。

そう思って、

素直に、又、愚直に生きる方が得策である。

 

そして、

何処にいても、思いがあれば、

傍にいるごとく・・・

との思いは変わらないが、

現実論は違うのである。

 

四六時中、

顔を突き合わせて生きるのも、

掛け替えのない人生である腹を括ることが大事である。


 


細君の現実論には、

敢えて、敗北した形ではあるが、

それも由と納得する私である。

 

それも、

いつかは終わる時が来るであろう。

それが諸行無常の理であるから、

抗えない。

 

諸法は無我にして、

個我の意思に関わりなく巡り廻る。

 

そして、

何かが始まり、

又、愛する者同士は必ず再会する。

それが魂の法則であると確信している。

 

それを現実の世界で力説しても、

詮無いことでもある。

現実論には抗えない。

そこのところは、出会いと運命に身を委す日々である。

とはいえ、

やりたいことは、結構、遠慮なくやっているから、

自由である。

 

やがて、

涅槃寂静の暁には、

誰もが圧倒的な真実に見(まみ)えるだろう。

驚愕するか、

歓喜するか、

其の人自身のあり方に因る。

 

楽しみである。