北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

ケーキ作り

2010-12-24 | 雑感
 珠洲もホワイトクリスマスになった。

 クリスマスイブに家にいるのは何年ぶりか記憶にないが、連れ合いはAコープでケーキの販売も担当しているため、朝は何時に出て行ったのか、私が爆睡中の早朝出勤で、帰りも何時になることか。

 ところで私は昔、このクリスマスケーキを何百、何千と作った(作るのにかかわった)ことがある。1987年の11月から12月にかけて、ちょうど鳥越村を出て、珠洲に来る前の年のことである。もちろんケーキ職人ではない。愛知県の敷島パンの工場(犬山工場だったか)での短期の出稼ぎ労働でクリスマスケーキ作りに参加せてもらったのである。
 
 その頃、旧内浦町から毎年何人もの人が敷島パンへの出稼ぎに行っており、冬場のいい収入になるからと世話役の知人から声をかけてもらった。男女合わせて20人くらいだっただろうか、工場の寮に入り、それぞれ昼と夜間の勤務に分かれて作業にあたった。

 私の担当は出来上がった生クリームを大きなステンレスの容器入れて、ケーキのスポンジが流れてくるラインに運び、スポンジの表面にクリームを塗る機械の上部にある容器に柄杓を使って移し替える作業である。確か3人ほどで担当していたように思う。

 スポンジが次から次へと流れてきて、機械が上手にクリームを塗っていく。そしてイチゴやチョコレート、ツリーの飾りなどを乗せていく人たちが待つ場所に流れていく。これは手作業で、一緒に行った女性陣が担当している。
 
 クリームが切れると、クリームを塗りそこなったスポンジにデコレーションを乗せられないのでラインがストップしてしまう。

 もたもたしていると、正社員の班長さんから叱られる。

 生クリーム運びは力仕事であり、しかも手早くやらなければならないので、なかなかの重労働だった。休憩時間が待ち遠しい。当初は右腕の筋肉痛、終盤はひじの腱鞘炎直前だった。

 目の前に一個だけあるケーキはなんともおいしそうだが、毎日毎日何百個も流れていくケーキを前にしては、つまみ食い(もちろんできないが)する気さえがおきなかった。
 
 約一ヶ月でいくらの収入だったか覚えていないが、それでも低収入の身にはありがたい金額だったような記憶は残っている。
 
 
 


コメントを投稿