北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

小学校英語必修化 雑感

2011-05-23 | 教育
 今春から小学校5、6年生で英語が必修となった。
 スタートしたからには必修化の是非より、どう対応するかということに議論は移っていく。今晩のクローズアップ現代「小学校・英語必修化で波紋が」も、そういう流れの中での編集だったようだ。

 コミュニケーション重視と言っても伝えたいことがない、あるいは必要に迫られていない子どもらを前にどのように授業を進めるのか、現場の先生は確かに大変だと思う。本屋の教育コーナーでは、小学校英語に先生はどう対応するかという本もたくさん並んでいる。

 早いうちから英語に慣れ親しんでいたら、今頃はペラペラ英語が話せたのになぁ~というのは、私も含め50代、あるいは40代以上のオジサン、オバサンのほぼ共通認識ではないだろうか。英語教育に限らず教育をめぐる議論の多くは、自分の教育体験、あるいは子育て体験から発せられる意見が多い。
 
 そんな中、次に紹介する鳥飼玖美子さんのインタビュー記事は、なるほど~~~と思わせる内容だった。
(※私は中学時代、たまたま本屋さんで見つけた鳥飼久美子さんの本を読んで以来、鳥飼さんの記事には反応してしまう)

2010年10月20日朝日新聞朝刊の15面オピニオン インタビュー 
「これからの英語」
(朝日新聞のWebにはないのでこちらから引用

 英語はいまや国際共通語。これは多くの人が疑わないだろう。では、それはどのような英語なのか。そして日本の英語教育は。同時通訳者として活躍し、テレビやラジオの語学講師としても知られる鳥飼玖美子・立教大教授は「発想の大転換が必要」という。(聞き手/編集委員・刀祢館正明)

-かつて「英語教育は実用主義か教養主義か」という大論争がありました。近年は学校で「コミュニケーション重視」の教育が進む一方、以前からの文法・読解を重視する立場からは見直し論が出ています。なぜ、英語教育のあり方は常に論争になるのでしょうか

(鳥飼)「大論争とは平泉・渡部論争ですね。元外交官で参院議員の平泉渉さんが1974年に試案を出し、実用のための英語を教えるべきだと訴え、大変話題になりました。敢然と立ち向かったのが渡部昇一・上智大教授で、彼は『教養のための英語で何が悪い』と言い切りました」

「結論は出ませんでしたが、論争はいまも脈々と続いています。私流に言えば『使える英語』か『使えない英語』かです。バブル崩壊後、自社の英語研修や社費留学にお金をかけられなくなった経済界から英語教育へのプレッシャーが高まりました。読み書きばかりで話せないのは困る、大学卒業までに使える英語を身につけさせるべきだという圧力です。英語教育は大きく変わりました。学習指導要領は90年代にコミュニケーション重視に踏み切りました。実利の要求と英語教育の議論、文部科学省の政策はリンクしています」

「今は文法・訳読を重視する人たちから、振り子を戻せという主張が出ているほどです。コミュニケーション重視というが、効果が出ていない。それどころか基礎学力そのものが低下しているというのが彼らの懸念です」

-ですが多くの人は今も「学校英語イコール文法・訳読」だと思っているようです。

(鳥飼)「疑問なのは、どうして英語教育の現状が一般の人に認知されないのかということです。自分の子どもが通う学校の英語教育を知らないのでしょうか、教科書を見ないのでしょうか、不思議でなりません。政府の審議会でも、経済界の偉い人たちが『学校英語はだめですなぁ』『読み書きばっかりやって、会話が出来なければしょうがない』とおっしゃる。私が『この10年20年、様変わりしました。いまは会話中心になっているのが問題で、読み書きは出来るというのは昔話です』と言うと不機嫌な顔をされてしまいます。」

-なぜ実態が知られないのでしょう。

(鳥飼)なぜでしょうね。40代以上の人たちは中学高校時代にさんざん読み書き文法をやらされたという記憶が強く残っているんですね。なのに英語が話せない。いまの企業は厳しいですよ。話せないとだめだ、みたいな。じゃああの英語の授業は何だったんだ、と。それが怨念になっているようです」

-怨念ですか。

(鳥飼)「ちゃんと学校で英会話を教えてくれたら自分だって出来たはずだ。話せないのは学校英語のせいだ、というわけです。ニューヨークに出張して思い切って英語でしゃべったのに『は?』という顔をされた。だめだ、通じないじゃないか。これは日本の学校英語に責任がある…。その悔しさが子供の世代に向かうんです。『おまえはちゃんとやれよ』『読み書きなんかいいんだ、しゃべれないとだめだ』。でも私に言わせれば、これまで企業人が外国に放り出されて何とか英語でやってこられたのは、読み書きの基礎力があったからなんです。」

-コミュニケーション重視か文法・訳読重視か。鳥飼さんはどちらの立場ですか。

(鳥飼)「どちらも正しいんです。『コミュニケーションが大事』というのも『読み書きを重視しないとだめ』というのもその通りです。ですがいまの子どもたちはどちらもできなくなっている。もう論争はやめて、両方出来るような、しかも日本人の特性に合った、最大限の効果を出すような教育方法をみなさんで考えませんか、と言いたいですね。ある程度の基礎力を身につけたら学校教育としては使命を果たしたと思っていいのでは。あとは本人の努力です。」

-グローバル化と言われる時代、我々が学ぶべき英語はどういうものでしょう。英語に対するパラダイムシフト(考え方の大転換)が必要だと主張していますね。

(鳥飼)みなさん、『世界はグローバル化した。グローバル化時代は英語が国際語だ』とおっしゃいますが、本当にその意味をりかいしていらっしゃるのでしょうか。英語はもはや米英人など母語話者だけの言葉ではありません。彼らは4億人程度ですが、インドやシンガポールのように英語が公用語の国の人たちと英語を外国語として使う人たちを合わせると十数億人。みなさんが英語を使う相手は後者の確率がはるかに高い。英語は米英人の基準に合わせる必要はない時代に入りました。私がパラダイムシフトと呼ぶのはそういう意味です」

-どういうことですか。

(鳥飼)「例えばノーベル賞は英語ではthe Nobel Prizeですが。日本人をはじめ英語が母語ではない人たちはtheを忘れがちです。母語話者は『theがないと違和感がある』と言う。それは彼らの勝手で、それ以外の人はなくても気にしません。意味が通じるなら、それでいいじゃないですか。これが国際共通語としての英語です」

-それでは英語が英語でなくなりませんか。

(鳥飼)「たしかに世界中の人が好き勝手に使っていいとなると、共通語として機能しなくなってしまう。発音でも文法でも、どこを守ったら英語といえるのか。そのコア(核)を探す研究がヨーロッパを中心に取り組まれています。コアを特定できたら、そこを重点的に教えればいい・発音だって米英人をまるでモデルのようにしてまねをする必要はなくなります」

-rとlの違いもたいした問題ではなくなりますか。

(鳥飼)「全く問題ないです。様々な国の英語が母語でない人に聞かせて、理解できるかどうか調べると、rとlの違いなんて文脈でわかるんですよ」

-ライス(rice)を頼んだつもりでもシラミ(lice)と受け取られる、だからちゃんと練習しろと教わりました。

(鳥飼)「でもレストランでシラミを注文する人はいないですね。theだって『ザ』でわかる。そのかわり日本人はもう少し丁寧に子音の連結や強弱のリズムをマスターしたほうが理解されやすくなるでしょう。大事なのは米英人のような発音やイディオムではなく、わかりやすさです。文法も、共通語として機能するための基本を教え、使うときには細かいことを気にせず使えばいいのです」

-ここまでは英語だけれど、ここからは英語じゃないという判断は米英人がするのですか。

(鳥飼)「いいえ。ヨーロッパで行われているのは、母語話者ではない様々な国の人たちの多様な英語を集めて、わかるかわからないかを調べる研究です。誰に聞かせてもわからないという結論が出ると、これは問題。ここはちゃんと教えましょう、というわけです」

「英語か英語でないかを母語話者が選ぶなんて、そんな時代は過ぎました。自分たちをスタンダードにしろなんて言ったらそれは少数派の身勝手です。英語は申し訳ないけれど、米英人たちの固有財産ではなくなったんです、彼らにとっては変な英語がまかり通って不快でしょう。けれど、私たちだって苦労して勉強しているんです。彼らにも歩み寄ってもらわなければ。共通語なんですから」

-英語学習者には米英で使われている英語、「生きた英語」を学びたい人も少なくありません。

(鳥飼)「私もアメリカにあこがれて英語を学びました。ですからその気持ちはよくわかります。教師としてもアメリカではこういう言い方をする、こういう面白い表現があると教えたくなるんですよ。でもあえて教えません。だってアメリカ人しかわからないものを学んでどうすんですか。そんな言葉は国際共通語じゃない。余力のある人、米英の文化や言語を専門にする人が学べばいい。少なくとも義務教育、公教育で教える英語は国際共通語に絞るべきです」

-国際共通語としての英語と地域語としてのアメリカ語やイギリス語を分けてとらえよ、と。

(鳥飼)「そうです。英語が国際共通語として定着したいま、ほかの言語と同列に扱うことはできません」

-国際共通語としての英語は英語から固有の文化を切り離して考えるということですか。外国語を学ぶには、その言語が話されている国の文化を学ぶ必要があるといわれます。

(鳥飼)英語には米英の文化や生活、歴史が埋め込まれています。これを全部切り離すことは現実には無理です。それが一番苦しいところですが、教える側の意識の問題だと考えています。少なくともコミュニケーションのための英語というのなら、無自覚に英米の文化を教えようとはしないほうがいい。これは相当批判を浴びるでしょうね。でも、これしか『英語支配』を乗り越えるすべはありません」

「国際共通語としての英語にはもう一つ重要な要素があります。それは自分らしさを出したり、自分の文化を引きずったりしてもいい、ということです。『アメリカ人はそうは言わない』と言われたら『アメリカでは言わないでしょうが、日本では言うんですよ』。それでいいんです」

-それはすごい。

(鳥飼)「お互いに英語が外国語で、下手な英語を話す人同士が『本当はあなたの母語が話せたらいいんだけど、ごめんなさいね』『いやいや私こそ、日本語を話せないのでごめんなさい。しょうがないから英語で話しましょう』というわけですから。日本人は日本人らしい英語を話し、中国人は中国人らしい英語を話し、でも基本を守っているから英語として通じる、コミュニケーションが出来る。これがあるべき国際共通語としての英語です」

(引用終わり)


 私はここ10年ほどは海外に行っていないが、県議時代、アジア各国やヨーロッパなどへ海外視察に行かせてもらった。海外から帰国するたびによ~し、今度海外に行く前には英会話をしっかりマスターするぞ!と何度決意を固めたことか。
 視察ではないが、NNAF(No Nukes Asia Foraum)というアジア各国の反原発団体が集まっての会議で韓国や台湾に行ったこともあるが、そこでも共通語は英語である。韓国や台湾で活躍する反原発運動の活動家の多くは英語がペラペラ。ひぇ~~~という感じであった。

 だけど、その一方でこんな発言に驚いたこともある。

 確か1992年だったと思うが、ベルリンで開かれた国際南北会議というNGO主催の会議に参加したときのことである(議会の視察ではない)。
 会議は英語、そして開催地のドイツ語を中心に運営されていった。私は通訳を通じてかろうじて会議の雰囲気を味わうだけであり、英語を学ぶ必要性を痛感した場であったが、その会議の最終日、ほぼ全日程を終了した段階で一人のフランス人が発言を求めた。

「今回の会議は英語圏とドイツ語圏の参加者を前提として運営された。けしからん!」
 
 ひたすら英語ができない自分が悪いと思い込んでいた私にとって衝撃的な発言であった。



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