2008年に導入されたふるさと納税制度。
当初から税制のあり方として賛否両論渦巻いていたが、ここにきて様相が激変。
豪華特典で寄付金を集める自治体間競争の場となってきたのだ。
この制度は本来、自分の住んでいる自治体に納めるべき税金の一部を、自分のふるさとや応援したい自治体に寄付の形で自らの判断で納税できる制度としてスタートした。
都会で活躍する人がふるさとに恩返しをする、あるいは田舎に年老いた親を残しているのでせめてもの感謝の気持ちを寄付で表す、といったケースなどが考えられた。
寄付金から2千円を引いた金額が所得税還付や住民税減額で戻ってくる。
例えば、家族構成や住宅ローンの有る無しなどで違ってくるが、年収500万円の夫婦のみの場合、全額控除される目安が3万円なので、3万円寄付すれば2万8千円がバックしてくることになる。
寄付者が住む都会の自治体は税収が若干減るので不満はあり、税理論としても批判はあったが、「ふるさと」という言葉に惑わされ、納税者の自己決定権も魅力で、なんとなく受け入れられてきた制度だった。
ところが自治体財政きびしい折、寄付金集め策を考えた自治体側は、例えば3万円寄付してくれた人にうちの村の特産和牛5千円相当を特典として送ります!といったアイデアを考え出した。
村は5千円の特典を付けても3万円の寄付が入れば2万5千円が歳入に残る。
寄付する人は、実質2千円の負担で5千円の肉がもらえるから、全国から殺到する。
寄付が増えれば自治体財政も潤うし、地元の生産者も大喜びだ。
県内では、たとえば穴水町はこんな特典で一気に寄付金を増やした。
かほく市は10万円以上の寄付で特典はなんとルビーロマン!
輪島市も負けてはおれないと来年度からの豪華特典に踏み出した。
北國新聞(8月26日)
全国各地、特典競争である。
ネットで「ふるさと納税」を検索すれば「人気ランキング」が登場する(たとえばこちら)。
もはや「ふるさと」は関係ない。
特典による寄付金集め競争でる。
寄付者は特をする。
受ける自治体も得をする。
地元業者も得をする。
損をするのはとりあえず国庫と寄付者の住む自治体。
歳入の歪みが出てくるが、しかし問題はこれだけでは済まない。
ふるさと納税は都市住民が田舎に寄付することを想定していたが、制度自体は田舎から都市でもいいし、田舎から田舎でもいい。
例えば、珠洲市民が珠洲市に納付するはずの税金を輪島市に寄付してもいい。輪島市民が穴水町に寄付してもいいのである。
穴水町民が宮崎県綾町の和牛がほしいからと綾町に寄付してもいいのである。
家計だけを考えればその方が得をするのがこの制度だ。
全国各地でふるさと納税の奪い合いである。
3万円で1万円の特典を付けても、当該自治体は損をしない。
いやうちは1万5千円だ!とやってもその自治体は損をしない。
ふるさと納税の奪い合いになりかねない。いやすでに始まっている。
(ちなみに珠洲市はこの特典競争には参加していない)
こんな問題もある。
高額納税者は特典付きの自治体に分散して寄付してもいい。
和牛やカニ、有機米、ブリなどなど、高額納税者ほど文字通りおいしい目にあえるのがこの制度である。
片山善博元総務大臣は、これらの問題に加え、さらにとばっちりを受ける団体があると指摘する。
自治体への寄付がことのほか優遇されるために、福祉法人やNPO法人、学校法人などの寄付が相対的に集まりにくくなるという。
特典を付け、歳入増目指して突き進む個々の自治体を批判するつもりはない。
制度自体が欠陥なのだ。
こんなとんでもない制度を安倍政権はさらに拡充する方針だという。
朝日新聞(7月24日)
ここで安倍首相は「ふるさと納税と特産品を合わせるのはすばらしいやり方だ」と特典争いを絶賛し、さらに煽ろうとしている。
この制度の提唱者である福井県の西川知事は過熱する特典競争を巡って「節度ある対応を」と呼びかけ、「政策を競い合う方向へ」と提案し、自ら政策で寄付金を集める方向で知恵を絞っている。
一見、正論のようだが、ふるさと納税を巡って政策を競い合うというやり方も果たして妥当かどうか・・・
辺野古の米軍基地建設問題で揺れる名護市を巡って「米軍再編交付金と「ふるさと納税」制度」という一文を以前書いたことがある。
政策とふるさと納税の関係を考えるにあたって、こちらもご笑覧いただければと思う。
いずれにしても自治体を混乱させ、正直者がバカを見るようなこのような制度は一刻も早くリセットするしかない。
統一自治体選挙前の人気取りで、ローカルアベノミクスとか言ってさらに制度拡充などとんでもないと言わざるをえない。
当初から税制のあり方として賛否両論渦巻いていたが、ここにきて様相が激変。
豪華特典で寄付金を集める自治体間競争の場となってきたのだ。
この制度は本来、自分の住んでいる自治体に納めるべき税金の一部を、自分のふるさとや応援したい自治体に寄付の形で自らの判断で納税できる制度としてスタートした。
都会で活躍する人がふるさとに恩返しをする、あるいは田舎に年老いた親を残しているのでせめてもの感謝の気持ちを寄付で表す、といったケースなどが考えられた。
寄付金から2千円を引いた金額が所得税還付や住民税減額で戻ってくる。
例えば、家族構成や住宅ローンの有る無しなどで違ってくるが、年収500万円の夫婦のみの場合、全額控除される目安が3万円なので、3万円寄付すれば2万8千円がバックしてくることになる。
寄付者が住む都会の自治体は税収が若干減るので不満はあり、税理論としても批判はあったが、「ふるさと」という言葉に惑わされ、納税者の自己決定権も魅力で、なんとなく受け入れられてきた制度だった。
ところが自治体財政きびしい折、寄付金集め策を考えた自治体側は、例えば3万円寄付してくれた人にうちの村の特産和牛5千円相当を特典として送ります!といったアイデアを考え出した。
村は5千円の特典を付けても3万円の寄付が入れば2万5千円が歳入に残る。
寄付する人は、実質2千円の負担で5千円の肉がもらえるから、全国から殺到する。
寄付が増えれば自治体財政も潤うし、地元の生産者も大喜びだ。
県内では、たとえば穴水町はこんな特典で一気に寄付金を増やした。
かほく市は10万円以上の寄付で特典はなんとルビーロマン!
輪島市も負けてはおれないと来年度からの豪華特典に踏み出した。
北國新聞(8月26日)
全国各地、特典競争である。
ネットで「ふるさと納税」を検索すれば「人気ランキング」が登場する(たとえばこちら)。
もはや「ふるさと」は関係ない。
特典による寄付金集め競争でる。
寄付者は特をする。
受ける自治体も得をする。
地元業者も得をする。
損をするのはとりあえず国庫と寄付者の住む自治体。
歳入の歪みが出てくるが、しかし問題はこれだけでは済まない。
ふるさと納税は都市住民が田舎に寄付することを想定していたが、制度自体は田舎から都市でもいいし、田舎から田舎でもいい。
例えば、珠洲市民が珠洲市に納付するはずの税金を輪島市に寄付してもいい。輪島市民が穴水町に寄付してもいいのである。
穴水町民が宮崎県綾町の和牛がほしいからと綾町に寄付してもいいのである。
家計だけを考えればその方が得をするのがこの制度だ。
全国各地でふるさと納税の奪い合いである。
3万円で1万円の特典を付けても、当該自治体は損をしない。
いやうちは1万5千円だ!とやってもその自治体は損をしない。
ふるさと納税の奪い合いになりかねない。いやすでに始まっている。
(ちなみに珠洲市はこの特典競争には参加していない)
こんな問題もある。
高額納税者は特典付きの自治体に分散して寄付してもいい。
和牛やカニ、有機米、ブリなどなど、高額納税者ほど文字通りおいしい目にあえるのがこの制度である。
片山善博元総務大臣は、これらの問題に加え、さらにとばっちりを受ける団体があると指摘する。
自治体への寄付がことのほか優遇されるために、福祉法人やNPO法人、学校法人などの寄付が相対的に集まりにくくなるという。
特典を付け、歳入増目指して突き進む個々の自治体を批判するつもりはない。
制度自体が欠陥なのだ。
こんなとんでもない制度を安倍政権はさらに拡充する方針だという。
朝日新聞(7月24日)
ここで安倍首相は「ふるさと納税と特産品を合わせるのはすばらしいやり方だ」と特典争いを絶賛し、さらに煽ろうとしている。
この制度の提唱者である福井県の西川知事は過熱する特典競争を巡って「節度ある対応を」と呼びかけ、「政策を競い合う方向へ」と提案し、自ら政策で寄付金を集める方向で知恵を絞っている。
一見、正論のようだが、ふるさと納税を巡って政策を競い合うというやり方も果たして妥当かどうか・・・
辺野古の米軍基地建設問題で揺れる名護市を巡って「米軍再編交付金と「ふるさと納税」制度」という一文を以前書いたことがある。
政策とふるさと納税の関係を考えるにあたって、こちらもご笑覧いただければと思う。
いずれにしても自治体を混乱させ、正直者がバカを見るようなこのような制度は一刻も早くリセットするしかない。
統一自治体選挙前の人気取りで、ローカルアベノミクスとか言ってさらに制度拡充などとんでもないと言わざるをえない。
一部の真っ当な市町村は使途を明確にして返礼品を送らないというやり方に変え始めていますが、納税額トップの某市に至っては市長の開き直りが見苦しい。
ゆるキャラグランプリでも不正を働く自治体ですので推して知るべしですが…と、それは余談ですが。
ふるさと納税ともっともな名はついていますが、本来自分の市町村のサービスに使われるべき税金で、何らかの商品を得ているのですよ。
この時点でお住まいの市町村の税の使われ方を批判する資格(道義的なもの)はないと思います。
地域の活性化だの何だのと問題のすり替えが行われていますが、
既に散々指摘されているように、特産品のない自治体はジリ貧ですよ。
仮に国がキチンと補填しているとしてもです。
全国で本来の自治体サービスに使われるべき税金がどれほど消費に回ってしまったのでしょう?
その総額が示された時、国民はどう思うのでしょうね。
カタログギフトが自治体のやるべきサービスでしょうか。
どれだけお得と言われようが、私は今の制度では絶対にふるさと納税などやりませんよ。
「商品がまだ届かないのですが」という問い合わせが自治体に入る時点で住民の意識などその程度ということです。
神野さんが税と言っているというのは出典はどこでしょうか?制度導入前の段階で住民税の分割方式を批判した神野さんの主張はありますし、導入後は地方税制度を歪めるといった趣旨の発言はあると思いますがが、導入後もどこかで「税」方式を念頭に発言されてますか???
「本読み」様は私よりもはるかに税制について勉強されているとは思いますが、「ふるさと納税」制度の理念や制度をおかしいと指摘している税制の専門家は多くおられます。私が指摘するまでもなく「本読み」様も当然ご存じだろうと思います。
なぜ「一方の考えを鵜呑み」という表現が出てくるのか不思議です。
先日の受益者負担の議論も同様ですが、「本読み」様の主張には一般的に論じられている議論と違う論理構成が随所にあるように思います。
実名で効果的な場所でも議論されてるとのことですので、その記録や動画などありましたら是非紹介いただきたいと思います。
財政学と農業経済学と分野は違いますが、神野先生も小田切先生もビッグネームです。
ふるさと納税に関して、その二人の間ですら、神野先生は「税」と言っており、小田切先生は「寄附」と言っています。
「税だから受益者負担の原則に反する」(神野先生)
「寄附だから善意に見返りがあるのはおかしい」(小田切先生)
詳しくない人からすると、二人とも反対しているじゃないか、となりますけれども、その性質を分析している立場からみると全く様子が違います。
寄附なら受益者負担の原則などありません
税なら善意と見返りは関係ありません
つまり、適用される原則は税と寄附では違います。原則論でふるさと納税に反対するにしても、それがどういう原則に従うお金なのか、判明していないと意味がありません。にもかかわらず、ふるさと納税はまだどういう原則に従うお金か著名な学者間ですら一致を見ていません。ふるさと納税については、まだそういう状態なのです。
なぜ私がこんなにも北野様に拘るのかというと、こういうことです。
私は一般企業で譬えれば、ヒラの研究員です。一方、北野様は市議会議員でいらっしゃいますので社長や専務でないでしょうが営業部長クラスの人です。新しい商品(ふるさと納税)の継続/廃止の決定に関して、北野様の一存で決まらないにしろ、ヒラの考えより余程大きな影響を持ちます。まだ良く分かっていないのに、一方の考えを鵜呑みにされて営業部長が活動されようとすれば、研究員としてはなんとか説得に向かうでしょう?
ふるさと納税は、できて間もない制度のため、性質がよく良く分かっていません。私はもちろん肯定的立場ですが、研究の深まりにより、否定されるべき制度かもしれません。しかし、いくら神野氏が日本の財政学の泰斗であるからといって、神野氏の主張をもって「ふるさと納税制度は民主主義に反するものである」と議員の立場にある人が考えているということに、「まだまだ結論はでていないし、肯定的な立場の人間もいる」ということでコメントさせていただきました。
若干のコメントを。
[4]については理論の是非はともかく寄付者の実態と離れ過ぎではないでしょうか。
その後の「受益者負担の原則」に関わるご高説は、一般的に言われてきた受益者負担の原則の議論とは異なる「本読み」様の独自の見解のように思います。ふるさと納税を切り口に新しい地方税の理論を展開されること自体は否定しませんが、私の能力では「本読み」様の議論の相手が務まるとも思えません。また、私のブログのコメント欄での記載では読者数、読者層も限られ、もったいないとも思います。
匿名ではなく実名で、より効果的な論争の場で自説を展開されることをお薦めします。
財政は、市場に任せてもうまくいかない部分を担っています。そして財政の機能の主なものは、資源配分機能、所得再分配機能、景気安定化機能の3つです。
財政が行う貧富の差の軽減などを所得再分配機能といいます。これに関しては厚生経済学が頑張っていますが決定的なうまい方法がまだ定まっていません。大きな格差は社会にとって良くないらしいというのは経済学でもジニ係数などを利用して分かってはいるのですが、どこら辺がいいのかという話になると決定的には分かっていません。そこで正義論や政治思想から、所得再分配機能の正当性を示してもらっているのです。平たく言うと、なぜ富裕者から金銭を強制的に徴収して生活困窮者に生活保護費を給付して良いのか、経済学ではまだ説明がつかないのです。ですから、経済学と同じく社会を良くするための学問である正義論や政治思想に、その説明や理由付けをお願いしています。「税に反対給付があってはおかしい」や「租税の公平性」という原則は、概ね財政の所得再分配機能に関わる話です(富裕者から貧困者への富の移転は、当然ながら反対給付など無いのですから、明確だと思います)。
■ふるさと納税は財政の資源配分機能に関わるものと思います。
一方、警察・消防などの行政サービス、公園・生活道路の設置、環境保全や文化財保護、上下水道の提供などは、財政の資源配分機能と呼びます。これらは、非排除性や非競合性を持つ財・サービス――これらの性質を持つ財を経済学では公共財という――や自然独占が生じてしまう費用逓減産業であるために、政府が提供しています。警察・消防・公園・道路・環境・文化財などが公共財で、上下水道が費用逓減産業です。お金との関わりでみると、対価を払わなくても利用できてしまう(あるいは利用できなくしてしまうと問題が出てしまう)のが公共財で、民間企業に任せると暴利を貪られてしまうから政府が提供しているのが費用逓減産業です。費用逓減産業は財とその対価の関係でみると、適切な価格で払った分だけ利用できる(例えば水道料金)とすれば良いだけなので、さほど難しい話はありません。難しいのは公共財とお金の関係なのです。
公共財は前述のように対価が支払われなくても利用できてしまいますし、また個々の場面での対価の支払い無しでないと問題が生じることも多々あります(たとえば犯罪被害者が捜査費用を負担しなければならないとなれば、泣き寝入りする被害者が増えて犯罪者天国になってしまいます)。とはいえ、トータルでみたとき集団の全員がお金を払わないとなれば公共財は提供できなくなってしまいます。逆に言えば、集団がトータルで払っている分だけの公共財が提供されています。そしてその公共財で個々の人が利益を受けているのです。ではなぜ強制的に徴収される税金で公共財の提供がなされているのかといえば、すっとぼけて支払いしない人間を作らないためです。つまり、メリットは受けているけれども支払いはしない人間を出さないためです。これがいわゆる「受益者負担の原則」です。
おわかりでしょうか。「受益者負担の原則」は、支払った税金の反対給付として公共財の利益があることを前提にした原則なのです。それが、私的財のような直接的なものでなくとも、です。受益者負担の原則云々を言いつつ「税金に反対給付があるのはおかしい」と主張するのは首尾一貫していません。
また、税の公平性に関してですが、公共財との関係でみると経済学においてリンダール均衡・サムエルソンルールという考えがあり、それらに従って公共財が提供されることでパレート効率的になることが分かっています。リンダール均衡においては個々の人間の負担割合は通常異なります。サムエルソンルールにおいては個々人の公共財への相異なる評価水準が想定されています。つまり、効率的な公共財の提供には、みんなが同じ金額を払うとか同じ割合で支払うという必要は全くありません。むしろ、同じ金額や割合で支払うことは非効率を意味します。
ではなぜこれまで公共財に関して個々人が異なる負担をしなかったのかといえば、うまい方法が無かったためです。支払いをすっとぼけてもメリットを受けられるために、適正に支払ってもらうことが困難であったからに他なりません。ふるさと納税制度は、すべての公共財への対価の支払いに適切に使えるとこはないでしょう(警察・消防・外交・防衛などには難しいでしょう)が、一部の公共財の対価の支払いのシステムとしては非常に有効だと私は感じています。
私は「受益者負担の原則」を言いつつ「税に反対給付があるのはおかしい」と主張する考えこそが、おかしいと思っています。格差是正に関する議論で税が取り上げられた際に反対給付の話が出るなら分からなくもありませんが、受益と負担をリンクさせる議論は「反対給付」があることを前提とした話であるとしか私には思えません。
制度が定着するまでの移行期間においては、混乱が生じるとは思います。しかし、ふるさと納税制度が定着してしまえば、ふるさと納税制度により他の自治体にふるさと納税される分を織り込んで、地方公共団体の予算は組まれるはずです。
納税者からみると言ってみれば、所得からの税収に関して、国に行く分(所得税)・県に行く分(住民税の4割)・市に行く分(住民税の6割)となっている現状から、国に行く分・県に行く分・市に行く分・他の地方公共団体に行く分に変わるだけです。
また、地方公共団体の(ふるさと納税からの資金ではない)個人住民税の税収の減額分が、地方行政に無視しえない影響を与えるのであれば、所得税の一部を住民税に移管(たとえば、所得税を5%引き下げて住民税を5%引き上げるなど、担税者からは中立の方策)を採用したり、地方交付税交付金の増額で問題は解消しましょう。地方財政計画にもふるさと納税制度による財政上の影響は反映されることになりましょう。
政治力学的にそんな対応が取れるのか、移行期における苦境はどうするのかといった問題は、それはそれとして重要ですがふるさと納税制度そのものの問題ではないでしょう。言ってみれば、新たな制度導入共通してに伴う産みの苦しみのようなものではないでしょうか。
返礼品関連で生じている現在の問題は私も是正すべきであると思っています。総務省がふるさと納税額に対する返礼率について規制したのは、制度が正しく運用されるために必要不可欠な行動であったと考えます。それというのも返礼率を規制しなければ、最終的に返礼品購入費・発送費・事務経費でふるさと納税額すべてを使い切ってしまい、ふるさと納税で選択される政策に回せるお金が無くなってしまう結果となってしまう、と考えるからです。
とはいえ、ふるさと納税において返礼品をつけること自体すべてを私は否定しません。返礼品を送ることが産業振興政策・地域経済への景気対策になるといった面を考慮に入れないとしても、返礼品の存在は、ふるさと納税制度に対する納税者の参加へのインセンティブになると捉えられるからです。北野様も(国民は投票日には寝ていてくれればいいなどの妄言を吐くことのない、民主主義を重要視するまっとうな)議員でいらっしゃるので痛感しておられると思いますが、日本の国民の政治参加への意欲の低さが、ふるさと納税制度に返礼品を要する理由です。私も理想を言えば、政治参加することそのものにある程度の喜びを持ち、積極的に政治に国民が参加できていることを望みます。しかし、残念ながら通常では政治参加への意欲は(なにもなければ)具体的行動を起こすほと高くありません。このことは、ハンガリーのパーセント法を模倣した、納税者が住民税の1%分で支援するNPOを選択できるとした千葉県市川市の1%支援条例も、結局のところ利用者が少なく廃止されてしまったということからも窺えます。「プライベートな時間を費やして地方公共団体のことを調べて手続きをすること」を無償で行うのは、ごく一部の人間だけということです。私は、環境保全活動や文化財保護活動などが、ふるさと納税制度(=中央政府に陳情することではなく直接国民に保護を訴えて資金を得る制度)で、現状より高い水準かつ国民の選択の結果で行われることを望みます。そのために「プライベートな時間を費やして地方公共団体のことを調べて手続きをすること」に見合うインセンティブ――返礼品――を提供するのは、制度を広範に実効的に運用するための仕方のないコストと考えています。
■神野氏の考えについて
さて、依然の私のコメントでは触れませんでしたが、神野氏の(北野様が強調したものではない)ふるさと納税制度の反対の中心的な根拠は以下のようなものです。
課税等により集めた皆の資金がある。この使途を決めるのは、民主的に選ばれた議員――財産や性別による差別などない集団全員の平等な立場からの投票で選ばれた代表――が決めるべきである。しかし、ふるさと納税制度は、住民税の一部を納税者が使途を決定する。したがって、高額納税者ほど使途が決定できる金額が大きいのだから、皆で集めた資金の使途の決定に関して財産・収入によって差別があり、平等かつ民主的とは言えない。
というものです。もっとシンプルにいえば神野氏の主張は
「民主主義とは、みんなが決めた人が決めた事をみんなが守る」はずなのに、「ふるさと納税制度は、各自が決めた政策が実行されている」ので、民主主義に反する。だから、おかしい。
という考えに尽きるのではないかと思います。
■私が考えるふるさと納税の性質
私は、神野氏がふるさと納税制度を従来からのお金の使われ方の枠組みにおいて把握して非難している、と感じます。私はふるさと納税制度を、従来のお金の使われ方とは異なるもっと革新的なお金の使われ方である、と考えています。すなわち、ふるさと納税制度は以下で示す[4]の類型のお金の使われ方なのだ、と理解しています。
[1]各自の私的な資金について、各自が私的な目的に沿って使途を決定する
[2]各自の私的な資金について、各自が公的な目的に沿って使途を決定する。
[3]各自から強制的に提供された公的な資金について、代表が公的な目的に沿って使途を決定する
[4]各自から強制的に提供された公的な資金について、各自が公的な目的に沿って使途を決定する
以上の上のお金の使われ方について、[1]は通常の私的な経済行為、[2]は寄付行為、[3]は従来の課税と歳出、[4]はふるさと納税やハンガリーのパーセント法に基づく支出、と私は考えます。そして、[4]のようなお金の使われ方が社会的に許されないとは私は思いません。むしろ[4]のようなお金の使われ方が無かったことこそが問題であったのではないか、と感じています。
神野氏は「ふるさと納税とは[3]の類型のお金の使われ方である」としていたからこそ、その原則に反すると非難していたのではないかと思います。また、北野様は挙げておられませんが、ふるさと納税制度に関わった小田切徳美氏も、ふるさと納税に関して「善意に見返りがあるのはおかしい」として非難していますが、それはふるさと納税を[2]の類型のお金の使われ方と考えていらっしゃるからでしょう。ふるさと納税の性質の革新性に対する無理解が、そういった非難の原因ではないかと私は感じています。
まず「米軍再編交付金と「ふるさと納税」制度」を書いた当時と考えが変わったのではとの指摘、ある意味ではその通りです。「ある意味では」というのは、当時は現在のような返礼品競争の時代ではなく、議論の前提が変わっているという意味です。ここでは政治運動、社会運動とふるさと納税の関係について、慎重にあるべきとの意見を書きました。制度自体は廃止せよとは言ってません。
珠洲市で言うなら、珠洲市にゆかりのある方々から年間400万円前後の寄付があり、寄付のお礼には広報すずや奥能登絶景街道のカレンダーを送っていた時代です。寄付への感謝の気持ちを、寄付者の実質的負担額2000円に収まる程度で表していたわけです。制度の本質的な問題はあるにせよ、制度自体ケシカランと批判するほどでもないと思っていました。
現在は制度の欠陥が露わになっており、おかしい!と言わざるを得ないと思ってます。
神野氏の見解に対するコメントですが、ちょっとかみ合ってないかなと感じます。
危惧しているのは寄付者側の自治体、コミュニティの問題です。
さて、北野様のふるさと納税制度に関するお考えは、やや変わってきたようにも見受けられます。以前のブログ記事「米軍再編交付金と「ふるさと納税」制度」においてはこう書かれていいます(以下引用)
「ふるさと納税」制度は、単に税制面から都市住民にふるさと支援策を提示しただけではない。政府が富の再配分を独占してきた中で、わずかとはいえ納税者が自ら再配分先を選択できる道を開いたという意味で画期的制度でもある。せっかくの制度であり、大切に慎重に育てることも考えていいのではないだろうか。
しかし、このブログ記事では、以下のように書かれています。
一見、正論のようだが、ふるさと納税を巡って政策を競い合うというやり方も果たして妥当かどうか・・・
見比べてみると、各地方公共団体が提示する政策に賛同する納税者が当該地方公共団体にふるさと納税する、すなわち「納税者が自ら再配分先を選択できる道」の妥当性に疑義を現在では感じておられると受け取れます。ただ、各自治体が「ふるさと納税を巡って政策を競い合う」ということに関する北野様の認識が薄いのではないかと、私は感じます。市議会議員というお立場上、自らの市という視点を離れて考えることが難しいとは思うのですが、この認識の薄さが意見の変化の理由ではないかと推測します。というのも、ブログ記事「米軍再編交付金と「ふるさと納税」制度」においても、以下のように書かれています。
たとえば珠洲市はふるさと納税募集のホームページで「珠洲市ではこの制度を活用し、「美しい里山里海の自然環境の保全」と「子供からお年寄りまでが元気に暮らせる住みよいまちづくり」を応援していただけるサポーターを大募集いたします!」と掲載しているが、ここで里山里海の保全を語りながら、同時に原発立地を推進していたら同じように納税するだろうか。やはり納税手続きの前に「はて?ふるさとを応援したいのはヤマヤマだがどうしたものか・・・」と考えるのではないだろうか。
ふるさと納税を受ける側ではなく、する側に立てば、日本全国で1000を超える地方公共団体があるのです。原発立地を推進せず里山里海を保全しようとする地方公共団体などいくらでもあるのです。例で挙げられた(北野様が議員をしている)珠洲市が、原発立地を推進し、かつ里山里海保全をする政策を提示したところで、原発と里山里海保全は両立すると考える人は珠洲市にふるさと納税するでしょうし、両立はしないと考える人であれば珠洲市にはふるさと納税しないでしょう。ふるさと納税者の選択肢はいくらでもあるのです。だからこそ、各地方公共団体は政策に知恵を絞らねばならないのです。政策担当者は「原発立地を推進したら里山里海保全に賛同してふるさと納税した納税者が減るかもしれない、それでも推進すべきだろうか?ふるさと納税額が減っても原発は推進すべきなのか」など真剣に検討するようになるでしょう。すなわち、地方であったとしても日本全国からの視線を感じて政策を立案・推進していくようにさせる働きが、ふるさと納税制度にはあるのです。このふるさと納税制度の働きを認識していれば、「一見、正論のようだが、ふるさと納税を巡って政策を競い合うというやり方も果たして妥当かどうか・・・」などという言葉は出ないのではないでしょうか。
また、ふるさと納税の問題点の中心は、以下のものであるとコメントへの返信で述べられておられます。
さて、この問題の「森」は、議会でも触れましたが財政学の神野直彦氏が指摘する「財政民主主義が揺らぐ、受益者負担の原則に反する、地域コミュニティーの崩壊を助長する、歳入の見通しが不透明になる」といった問題、突き詰めれば民主主義をどう捉えるかという問題だと思っています。
ふるさと納税制度は民主主義に対する挑戦であるとお考えである、上の記述からうかがえます。しかし、ふるさと納税制度はそのようなものでしょうか。私は神野直彦氏の意見も検討しましたが、そうは思えませんでした(もちろん神野氏より私のほうが賢いとか傲慢に思っているわけではありません)。このことを明らかにするために、論拠として挙げられたものを一つづつ反論していきましょう。
まず、「受益者負担の原則に反する」です。ふるさと納税の対象額は住民税の全額ではありません。全額であれば受益者負担の原則に反するといえるでしょうが現状程度の割合であれば、むしろ受益者負担の原則に適っています。なぜそう言えるかといえば、地域に存在する公共的な資源であるが(ふるさと納税制度がない状態であれば)地域がその保全に対する費用を負担しているという地方公共財というものがあるからです。地方公共財の例として、貴重な生物であるカブトガニや歴史的建造物である城郭、渡り鳥が飛来する湖沼、水源保全のための森林、美しい海岸などが挙げられます。カブトガニや渡り鳥の飛来する湖沼が典型ですが、カブトガニの生存や渡り鳥が飛来していても地域住民にとってメリットは殆ど感じられません。生物多様性からのメリットは万人が受けているにもかかわらず、海岸や湖沼の保全は地域住民が担っており、ふるさと納税制度が無ければ地域外に居住する人間は負担せず、メリットのただ乗りをしているのです。こういうものが存在しているとき、受益に対して費用負担が過少である(地域外のひとが負担しないから過少になる)ため、保全の水準が低くなってしまいます。ですから、地域に存在する地方公共財に対する受益者負担を実現するための制度として、ふるさと納税制度は機能しています。このことは、ふるさと納税制度の使途指定において、地域住民にのみメリットのある使途への金額は小さく、地域外へのメリットが大きい「環境」「教育」などに関する使途の金額が大きいことからも窺えます。
次に、地域コミュニティの崩壊を助長するとありますが、ふるさと納税制度は「地域の魅力の見直しとその発信」への努力を求めます。そうしなければふるさと納税を集めることができないからです。この行為は地域間でのコミュニケーションを促進こそすれ、崩壊を助長するとは考えられません。
さらに、ふるさと納税によって歳入の見通しが不透明になるとのことですが、ふるさと納税によって歳入が不透明になったとしても、地域住民に直接的なメリットを提供する行政サービス(ごみ収集や公民館の運営、市道の整備等)の水準が不透明になるならば、それは地方公共団体の行政が間違っているのです。ふるさと納税の歳入を地域住民の直接的な行政サービスに充てることこそが間違っています。ふるさと納税は地域住民から集めたお金ではないのですから、地域住民のために使うのは間違っています。地域が実施するけれども地域外の人へのメリットが大きな政策に対して用いるべき歳入だからです。基金制度を利用すればある程度計画も立てることができますし、民間企業の設備投資計画と同様の運営をすれば、ふるさと納税制度の歳入の不確実性は問題にならないはずです。
ふるさと納税制度は、かつての財産による制限選挙と同様の害がある、という主張がなされることもあります。しかし、現状の選挙制度度が選挙区ごとに選挙される選挙制度である以上、地方公共財への支出が票にならないという欠点を持っています。税収全額がふるさと納税と同じように運営されるというようにならない限り、現状の選挙制度の欠点を補完するのみにとどまり、民主主義を崩壊させる制度にならない、と私は考えます。
自治体も同じではダメですか?アイデアを出して納税者が喜ぶ返礼品を考え、コストが高ければ低くなるよう各自、努力すれば良いと思います。
返礼品のコストが高過ぎて困るのは、当該自治体です。第三者がとやかく言うことではないのでは?
それに全額ではなく、2割のうち所得税引いた分の税金ですよ?
私は新宿区に住んでいますが、雑誌読んでる暇そうな区職員等の人件費や歌舞伎町の清掃よりも、能登の保育園に税金を使ってもらいたくて納税しました。美味しいお魚も貰えて、満足です。
これからも、この制度を使い続けたいです。
この制度自体は欠陥があるので、続けるにしても何にしても、制度自体を作り替えないと名目もおかしくなるし、各自治体の8割くらいは悲惨な事になるんじゃないかしら。もっともこの制度自体がかなりの悪意をもって作られたのですが。
そもそも、同じ事するのでも、住民税に充てる必要ないのですから。地方分権したくない頭のいいクソ野郎がいます。
これが資本主義の新しい住民税の一部の考えかたでなにが悪いのか?
今は地方にお金が流れてるんだから良いのでは?
都会に流れると主張するなら都会には一定の制限をかければ良いじゃないか?
制度を活用させるのは至難の技、今は初めて都会の有権者が地域にメリットを感じたばかり。
ふるさと納税の代案が地方交付税の増額とは今までの変わらない地方経済を更に悪化させれるだけの旧体系の考えの政治家の方と判断しました。
地方交付税を上げるなんて地方に何の知恵もつかないでしょうね。
あなたでは残念ながら批判だけする更に国家財政を悪化させる政治家でありなにも変わらない気がしました。
これが資本主義の新しい住民税の一部の考えかたでなにが悪いのか?
今は地方にお金が流れてるんだから良いのでは?
都会に流れると主張するなら都会には一定の制限をかければ良いじゃないか?
制度を活用させるのは至難の技、今は初めて都会の有権者が地域にメリットを感じたばかり。
代替案を主張せず廃止ばかりを唱えてるように見えますが地域活性化の代案を出した上で廃止を主張頂けると幸いです。
そもそも富の偏在を是正して、再分配するのが政治の役割です。
制度の弊害是正のための軌道修正について、いじくればいじくるほど制度の矛盾が拡大すると思うので基本的には賛同しかねますが、強いて言えば返礼品は2000円を限度とするってのはどうでしょう?
ふるさと納税の寄付者が負担するのは実質2000円ですから、その2000円の範囲内で、うちはこんなに魅力ある心のこもったお礼をしてますってことで競い合います。
(ふるさと納税はあくまで寄付=「経済的利益の無償の供与」で、厳密にいえば、返礼品はふるさと納税制度の枠外の行為です。念のため)
蛇足ですが、「国からどれだけ地方交付税をもってこれるかという古い金権政治」とありますが、補助金と地方交付税を混同されてませんか?
都市部の自治体が、金にモノを言わせて参戦してくるのであれば、一定以上の税収がある都市は、受け入れを禁止する等の規制をかければ、当初の制度の狙いに軌道修正できるのではないでしょうか。
また、地方交付税の不交付団体が言うならばまだしも、地方は打つ手がないから地方交付税をもっとよこせと言うのは筋が違うと思います。最高裁でも1票の重みが違うのは違憲という判決が出ているように、人口の少ない地方に地方交付税を配るのは、将来的に問題になっていくと思います。少なくとも、横並び意識の強い現状維持を望む自治体に競争意識を持たせる事には成功しており、国にたかろうとする寄生虫のような地方自治体は問題意識が足りないと思います。国からどれだけ地方交付税をもってこれるかという古い金権政治はもううんざりです。多くの若者は肌でそれを感じており、働いても税金で取られるぐらいなら最低限の仕事で低収入でも我慢するニートも存在し、税金で食べている公務員や議員に抵抗しています。今のままでは、少子化が進むのは間違いなく、いずれ反乱が起こる可能性が高く、ブレグジットや米国のトランプ旋風はその徴候でもあり、一揆(テロや戦争)の可能性もますます高くなっていくでしょう。
ふるさと納税制度の当初の目的が、都市部の富を地方に移動させるということだったことはその通りだと思いますが、ただしそれは「ふるさと」というノスタルジックな名称に込められたはかない願望に過ぎず、制度的裏付けは全くありませんでした。
その後の制度拡大で都市からふるさとというお題目は完全に消え去り、豪華返礼品を目玉にした自治体間の地方税の奪い合い制度に変質しています。
一つはふるさと間の地方税の奪い合い。
議会でもしましたが「我が家の家計」を基準に考えると、珠洲市民はカニが食べたければ、輪島にふるさと納税をしてカニをもらう方が得、カキが食べたければ穴水にふるさと納税をしてカキをもらった方が得。都市と田舎なんて関係なしの制度設計になっています。
そして都市とふるさとの地方税の奪い合いです。
また、制度スタートから昨年9月までのデータでいうと、東京都内の自治体の受け入れ総額は北海道に次いで2位。参戦は新しいですから、これからトップを狙う展開になっていくんじゃないでしょうか?
都市部の自治体はこれまで、当初の制度の狙いを尊重して参戦を控えていましたが、このままでは自主財源が減少し、福祉や教育、環境など住民生活に直結する政策にも影響を与えるということで、巻き返しを図っています。背に腹は代えられないということでしょう。税収見通しがますます不透明になって、安定した自治体運営ができなくなってしまいます。
私は自治体への寄付が拡大することは望ましいとは思いますが、それは全く見返りなしの本来の寄付です。
ふるさと納税は、富裕層ほど恩恵を受けられるという意味でも格差是正とは真逆にある制度です。自治体への抗議行動の手段として使うにはあまりにお粗末な制度だと思われませんか。
ですが、ふるさと納税が急速に拡大した理由が返礼品の充実、まさに利益誘導であることは客観的な事実でしょう。
「何も工夫しない自治体への抗議行動」は立派ですが、抗議行動している皆さんが利益誘導にのっかっていては様になりません。
ふるさと納税制度を評価し、抗議行動として活用されている皆さんには、ぜひ返礼品を返上して、頑張っている自治体を応援していただきたいと思います。
(そんな方がたとえ増えたとしても、ふるさと納税の制度設計自体間違っているという私の考えに変わりはありませんが)
仮にそのような意識があるならば、納税者として「納税先の選択権」を行使するのではなく、有権者として自分の住む自治体を変える努力をしてほしいと思いますが。
それで自分の住んでる町のサービスに問題が起ころうしてもそもそも自分の税金の話なんだからトヤカク言われる筋合いは無いよね。
いつになっても個人消費の拡大につながらないアベノミクスの失敗をカバーする政策としては意義がありますよね。
わかりやすく例えるならパナマ文書が明らかにした租税回避の国内版だと思います。違法な脱税は論外ですが、国境を越えた協業を促進し、グローバル経済の発展に貢献するんだから合法的な租税回避ならいいじゃないかという論理と似たような考えに思えます。
私はそういう立場には立ちません。
まず格差ですが日本は資本主義であり社会主義でないので平等ではありません。
格差を助長するとありますが何が問題なのでしょうか?少なくともアメリカよりはとんでもなく格差がないです。平等を主張するなは
社会主義経済でもしたいと思ってる方なんですかね?
ふるさと納税のメリット得たいなら所得を増やせば良い。
個人の住民税の20パーセントは既にふるさと納税の枠であり固定概念を捨てて新しい個人が自由に振替られる税制ができたんだと考えるべきです。
アメリカではイノベーションが行われてる。
日本では僕はこれが大きな税制イノベーションであると感じます。
国は高額所得者が居て税金が生まれて維持できてます。
また高額所得者は既に買いたいものは買ってると思います。その中で消費させる枠組みを作れのは良い消費刺激策と思いませんか?
もし問題があれば高額所得者の税率上げてでもふるさと納税は継続すべきです。なぜなら高額所得者への究極の消費刺激策なのですから。
それはともかく私はもちろんやってません。議員でやってる人っているんでしょうか。他の自治体にふるさと納税してるってさすがに言えないでしょうね。
自分の自治体にふるさと納税すればいいじゃないかといわれるかもしれません。この場合、寄付金収入は増加します。税収は減少します。返礼品の出費はあります。そして地方交付税の算定は・・・さて、最終的なそろばん勘定はどうなるか、ぜひお調べください。
さて、この問題の「森」は、議会でも触れましたが財政学の神野直彦氏が指摘する「財政民主主義が揺らぐ、受益者負担の原則に反する、地域コミュニティーの崩壊を助長する、歳入の見通しが不透明になる」といった問題、突き詰めれば民主主義をどう捉えるかという問題だと思っています。
あと、反対してる人はやってない人なんでしょうね。おそらく手続きが面倒でやってないのが大半なのかな。
自分の納税先を決めるとんでもないイノベーションな制度なのに、やってない中で批判だけはする、、、日本人らしいと思います。
自分たちの住んでるところの行政サービスがふるさと納税されたら下がるとか同じ地域の他人の権利行使を妨げる愚かな行為、、、。
口よりも行動を起こして勝手にあなた自身で納税して自分の住んでる地域に貢献下さい、それもまた自由なんだから。
僕は絶対にやめてはいけないと思う。
ふるさと納税は地域を改革できる唯一の現行に存在する制度だと思います。
また都会の人は地方での生産があって生かせれてる事を痛感するいい機会でしょう。
ふるさと納税の良いところは自治体が知恵を絞り少しでも稼ごうとする意識改革だと思います。
こんな知恵が自治体さんに今ままでありましたか?
不満のある方はじゃあ、無くしてどうするんだと。次のプランまで立てて話をしてもらいたい。
せっかく自分達で税金をコントロールする術を許可頂いたのに手放すべきではないと思います。
今の地方は壊滅的です。住民主導で住民税の一部を使える、しかも年に一回。こんな消費刺激は世界でもないはず。
無くすのは簡単ですが作るのは大変です。
ふるさと納税というネーミングも反感の1つかなと思います。
いっその事、地方創生策というネーミングに変えて外資の商品はダメで地元と繋がりのある国内商品としてみてはどうかと思います。
税金がどこからともなく湧いて膨らんだわけではありません。寄付者居住地の自治体(住民の負担)と国庫(交付税特別会計=国民の負担)です。加熱する返礼品競争で応益負担の地方税の趣旨が歪め、さらに高額納税者ほど多額の返礼品の恩恵に預かれる実質的な「節税手段」でもあることから、格差拡大政策とも言えます。
自治体は財政をコントロールできるようになったのではなく、寄付金獲得競争を煽られているだけではないでしょうか?
自分たちの知恵と努力により財政を集める事が出来て民意の力で地方財政を豊かにしふるさと納税をきっかけに地方が自力での再建を行う糸口になればと考えてます。
今はふるさと納税で税収増○億円というのがニュースになってますが、都市部も含め参入自治体が増えると、ふるさと納税で減収○億円!ってニュースが飛び交うんじゃないでしょうか。もはや「ふるさと」は関係なし、地方税の奪い合いで、自治体の何割かは自主財源が減少し、福祉や教育など身近な暮らしにしわ寄せが出てくるんじゃないでしょうか。競い合って総額が増えるんならまだしも、地方税総額はどんどん減少するバカな制度だと思います。
「ふるさと」の意味をよく考えなおして、なんらかのゆかりのある自治体だけに限定するような制度にかえてほしいと思います。
得なのはわかっていますが、私はしません。
マスコミでは、全くこの問題を取り上げませんね。それもおかしなことです。