挨拶まわりの合間に、明日夜の石川県平和運動センター主催の学習会での講演内容について頭を悩ます。東電福島第一原発の原発震災について話すことになっているが、なかなか構想がまとまらない。
さて、今回の市議選、私にいただいた926票についての私的な総括を若干記したい。
私自身としては89年の珠洲市長選挙(落選)、91年(当選)、95年(当選)、99年(当選)、03年(落選)に続く6度目の選挙である。
しかし、これまでと違って初めての市議選、そして原発問題を争点としない選挙である。選挙の母体もかつての反原発の住民運動ではなく労組主体である。何かと戸惑いも大きいものがあった。
組織内ではなぜもう一度選挙か、しかもなぜ市議選なのか、ということの説明に多くの時間を割いた。一方で、外に向けてはいまひとつ争点を明確に提示できなかったように思う。ここが終盤になっての支持固めの脆さにもつながったように思う。
しかし、なにより今回の選挙でありがたかったの、これまでになく市内各地の多くの有権者の皆さんとじっくり話ができたことである。
今回の市議選に臨むにあたって私は市内全戸を回ることを目標とした。
市議選の当選ラインから考えればもう少し絞り込んだ動きをした方が効率的だし、効果的だとも思う。
しかし、かつての県議選では全戸を回り、お願いしてきた経緯もある。8年ぶりのごぶりのご無沙汰をお詫びしながら、あらためて皆さんのその後の様子や市政への思いも聞きたい。市内各地、8年間の変化も直接確認したい。私自身の8年間の空白を埋める作業であった。
最終的に9割以上のお宅を訪ねることができた。原発問題は多くの人にとって過去の話となっていることも実感したが、まれに顔を見るなり怒鳴る人、嫌味を言う人など、8年が経過してもかつての対立のしこりの根深さを感じることもあった。
「原発なくして、珠洲はよくなったと思とるがか!!」
「原発と一緒に消えておらんがになったと思とったがに、まだおったが?!」
といった言葉をかけられることもあったが、概して推進・反対関係なく多くの方とゆっくり話すことができたのは、今後の活動にあたっての大きな収穫であった。
実質昨年10月からの長丁場の運動であったが、この間に市議選に大きく影響を与える2つの出来事があった。
一つは県議選である。現職・新人の一騎打ちであり、他の市議選候補者はいずれかの陣営に付き、市議選と連動した動きを展開したが、私は、基本的には自民党の分裂選挙であるとして中立を貫いた。
ときには、なぜ支持候補を鮮明にしないんだというお叱りもいただいたが、基本的には非自民というこれまでの立場を引き継ぐものであり、概ね理解がえられたのではないか。
中立の立場にこそいたが、塚崎陣営が市長批判を強める中、私に対して、市議会での市長との論戦を期待する声や、市長追随の市議が大半を占める議会を変えてほしいという声も確実に高まったと思えた。
もう一つは東日本大震災である。東電福島第一原発の事故が珠洲市民に与えた影響は大きく、市内を回っていても雰囲気が一変したことを肌で感じることができた。
反対してきた人にとってはかつての運動の正しさに確信をもち、推進の立場にあった人は「珠洲原発」への未練を断ち切る出来事だったと言える。
こうした中で迎えた選挙戦であった。労組関係の支持者、かつての反原発運動からの支持者、地域の人たちや同級生に加え、市議会批判、市政の転換を期待する保守系の人たちからの支持表明も相次いだ。
情勢としてはプラス要因が並ぶ選挙戦であったが、そこが市議選の難しさ。支援の声が広がれば広がるほど、固い支持者の多くが、ボーダーライン上と言われたかつての仲間に流れていった。最終盤の感覚としては「底が抜けた」という感じであった。
結果は926票。
県議選と異なり、地縁・血縁が大きな影響を及ぼす市議選で、珠洲出身でなく、親戚がほとんどいない私がこれだけの票をいただいたことに、能登町の親戚筋はホッとしたようだ。労組の票からさらに上積みもできた。
しかし、この市議選を3年後の市長選につなげる(※私が出るという意味ではない)ステップにしたいと期待していた人たちにとっては極めて不満足な票数であった。失望させたと言ってもいいかもしれない。市長批判の声が今後、どのような方向に向かうのかは注視していかなければならない。
今回の私の選挙は、珠洲市議選としては12年ぶりに労組が前面に出ての選挙でもあった。労働組合の存在を地域にアピールする選挙でもあると訴えてきたが、その目的は概ねクリアできたのではないか。
最後に、私は選挙が成功したかどうか、いい選挙だったかどうかの重要な判断基準の一つは、選挙の取り組みを通じて人間関係の輪が広がったかどうか、つながりが深まったかどうかにあると思っている。
そういう意味では大成功の選挙戦であった。
さて、今回の市議選、私にいただいた926票についての私的な総括を若干記したい。
私自身としては89年の珠洲市長選挙(落選)、91年(当選)、95年(当選)、99年(当選)、03年(落選)に続く6度目の選挙である。
しかし、これまでと違って初めての市議選、そして原発問題を争点としない選挙である。選挙の母体もかつての反原発の住民運動ではなく労組主体である。何かと戸惑いも大きいものがあった。
組織内ではなぜもう一度選挙か、しかもなぜ市議選なのか、ということの説明に多くの時間を割いた。一方で、外に向けてはいまひとつ争点を明確に提示できなかったように思う。ここが終盤になっての支持固めの脆さにもつながったように思う。
しかし、なにより今回の選挙でありがたかったの、これまでになく市内各地の多くの有権者の皆さんとじっくり話ができたことである。
今回の市議選に臨むにあたって私は市内全戸を回ることを目標とした。
市議選の当選ラインから考えればもう少し絞り込んだ動きをした方が効率的だし、効果的だとも思う。
しかし、かつての県議選では全戸を回り、お願いしてきた経緯もある。8年ぶりのごぶりのご無沙汰をお詫びしながら、あらためて皆さんのその後の様子や市政への思いも聞きたい。市内各地、8年間の変化も直接確認したい。私自身の8年間の空白を埋める作業であった。
最終的に9割以上のお宅を訪ねることができた。原発問題は多くの人にとって過去の話となっていることも実感したが、まれに顔を見るなり怒鳴る人、嫌味を言う人など、8年が経過してもかつての対立のしこりの根深さを感じることもあった。
「原発なくして、珠洲はよくなったと思とるがか!!」
「原発と一緒に消えておらんがになったと思とったがに、まだおったが?!」
といった言葉をかけられることもあったが、概して推進・反対関係なく多くの方とゆっくり話すことができたのは、今後の活動にあたっての大きな収穫であった。
実質昨年10月からの長丁場の運動であったが、この間に市議選に大きく影響を与える2つの出来事があった。
一つは県議選である。現職・新人の一騎打ちであり、他の市議選候補者はいずれかの陣営に付き、市議選と連動した動きを展開したが、私は、基本的には自民党の分裂選挙であるとして中立を貫いた。
ときには、なぜ支持候補を鮮明にしないんだというお叱りもいただいたが、基本的には非自民というこれまでの立場を引き継ぐものであり、概ね理解がえられたのではないか。
中立の立場にこそいたが、塚崎陣営が市長批判を強める中、私に対して、市議会での市長との論戦を期待する声や、市長追随の市議が大半を占める議会を変えてほしいという声も確実に高まったと思えた。
もう一つは東日本大震災である。東電福島第一原発の事故が珠洲市民に与えた影響は大きく、市内を回っていても雰囲気が一変したことを肌で感じることができた。
反対してきた人にとってはかつての運動の正しさに確信をもち、推進の立場にあった人は「珠洲原発」への未練を断ち切る出来事だったと言える。
こうした中で迎えた選挙戦であった。労組関係の支持者、かつての反原発運動からの支持者、地域の人たちや同級生に加え、市議会批判、市政の転換を期待する保守系の人たちからの支持表明も相次いだ。
情勢としてはプラス要因が並ぶ選挙戦であったが、そこが市議選の難しさ。支援の声が広がれば広がるほど、固い支持者の多くが、ボーダーライン上と言われたかつての仲間に流れていった。最終盤の感覚としては「底が抜けた」という感じであった。
結果は926票。
県議選と異なり、地縁・血縁が大きな影響を及ぼす市議選で、珠洲出身でなく、親戚がほとんどいない私がこれだけの票をいただいたことに、能登町の親戚筋はホッとしたようだ。労組の票からさらに上積みもできた。
しかし、この市議選を3年後の市長選につなげる(※私が出るという意味ではない)ステップにしたいと期待していた人たちにとっては極めて不満足な票数であった。失望させたと言ってもいいかもしれない。市長批判の声が今後、どのような方向に向かうのかは注視していかなければならない。
今回の私の選挙は、珠洲市議選としては12年ぶりに労組が前面に出ての選挙でもあった。労働組合の存在を地域にアピールする選挙でもあると訴えてきたが、その目的は概ねクリアできたのではないか。
最後に、私は選挙が成功したかどうか、いい選挙だったかどうかの重要な判断基準の一つは、選挙の取り組みを通じて人間関係の輪が広がったかどうか、つながりが深まったかどうかにあると思っている。
そういう意味では大成功の選挙戦であった。
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