北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

墓参り

2011-08-14 | 雑感
 お盆ということで、今朝は6時半に墓参りに出かける。
 今年の墓参りは今朝がピークか、小木の墓地にも大勢の家族連れが来ている。
 お寺さんも4~5人いるが、皆さん順番待ちである。
 おかげでその間に中学校の同級生5人と次々と会う。
 
 うちの墓参りが終わると毎年、親戚の墓も参ってくることにしている。
 小木の墓地は全部でどれだけあるだろうか。1000以上はあると思うが、親戚の墓の位置はなかなか覚えられず毎年、通路を1~2本間違えてしまう。

 さて、こんな間違いが絶対に起こらない墓地が三崎の大屋にある。
 家ごとの墓を持たず、亡くなった人は皆、集落の共同墓に葬られるのである。
 最近は、夫婦でさえ死んだ後まで一緒の墓には入りたくない、あるいは姑と同じ墓に入るのは懲り懲りという話もテレビなどで報じられるが、まして集落みんなとなると、さぞ隣近所、生前の不仲もあるだろうにと心配になる。
 しかし余計なお世話と叱られそうだ。
 この共同墓、以下のような経緯があるそうである。

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(2006年8月16日付け北國新聞より)

 家ごとの墓を持たず、亡くなった住民は集落の共同墓に葬られる珠洲市三崎町大屋で十五日、新しい共同納骨堂が完成した。全国でも珍しい共同墓は、飢饉(ききん)で離村者が相次いだ天保年間、無縁墓が増えるのを憂えた村人が造ったもので、以来、百七十年にわたって地域挙げての墓参りが続けられてきた。入魂式には住民や帰省者ら約百五十人が参列、「土地を離れても最期はここへ」と絆(きずな)を確認し、過疎を乗り越え、共同体を守っていく誓いを新たにした。

 珠洲市街から車で約三十分。能登半島先端に近い山あいの地に大屋の集落がある。その高台に位置する共同墓はかつて「ホシバ」と呼ばれ、稲を干す場所だったと言われる。

 大屋の共同墓の歴史は一八三六(天保七)年にさかのぼる。当時、飢えなどで離村する者が多く、管理の行き届かない墓が増えた。これに頭を痛めた米田喜兵衛という人が一つの墓にすべての人を納骨することを提案し、集落が共同管理することになった。

 共同墓の納骨堂は何度か改築が重ねられたが、老朽化が著しいため、住民が費用を出し合い、予算一千万円で木造平屋建ての建物を新築した。骨を納める穴(縦、横、深さ三メートル)は昔のまま残し、仏像なども新調した。

 入魂式では、集落の菩提寺である厳徳寺の秦俊也住職(79)が読経し、「立派なものができたからといって早く入ることはない。長生きしなさい」とユーモアを交えてあいさつ。参列者は家族ごとに並んで静かに手を合わせた。

 会場には天保年間に共同墓を造った米田喜兵衛の子孫で、金沢市で建築設計業に携わる米田喜實雄さん(58)も出席し、墓の由来を説明した。

 大屋ではこの二十年間で四十六戸から三十六戸に減り、住民は金沢や関東、関西などへ出ている。それでも旧盆の十五日は出身者の多くが帰省し、年に一度の再会を喜び合う。

 真新しい納骨堂は過疎が深刻化する中で出身者の心をつなぐ象徴とも言え、中家昭夫建設委員長は「集落を出た人も死後は皆、この納骨堂に入る。子供、孫、ひ孫とぜひ守っていってほしい」と話している。


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