先週末、金沢に滞在した。金曜日から土曜日にかけて、友人のMurai氏がサポートをしてくれた。金沢行の目的は幾つかあったが、その一つに「野田山墓苑」に眠る、かつての上司大澤さんの墓参があった。
土曜日、6時頃から一時間程、市内を散歩する。冬の北陸を思わすように空が垂れ込めて、今にも雨粒が落ちてきそうな気配であった。駅前のホテルから片町方面に向かい、其処から浅野川方面へと転じる。二・三日前に満開となったと云う桜も色褪せて見え、風に揺らいでいた。
当ても無いまま、小さな通りを抜けて行くと見覚えのあるお寺があった。金沢は寺の多い町、それにどのお寺も立派な山門と本殿構えであるが、この寺は一際大きな作りであった。
見覚えのあるお寺である。若しや此処が、大澤さんの葬儀が執り行われた寺でなかったろうかと、暫し門前に佇む。東本願寺別院と記されていた。何となく気掛りな思いがし、写真を撮る。
大澤さんは昭和59年5月、現役の金沢電話局長として逝去された。私やM氏は本社時代に部下として仕えた。大澤さんの眠る墓に参るのが九年目となることは、後ほど判明する。
浅野川沿いを歩き、橋上から上流を眺めると卯辰山がまじかに見えた。若い頃、この山の中腹にあるレストランBARに遊んだことが思い出された。これが旅情と云うやつか・・・。
7時、ホテルに帰り着く直前に雨が落ちてきた。糸を引いたような雨から瞬く間に本振りとなった。駅の中に逃げ込んだ。駅からホテルへとは雨を避けて通じている。
それにしても金沢の駅前は変わった。東も西も様変わりと言える。それだけ町に勢いが有ると云うことか。駅も一際立派。流石、加賀百万石の玄関口と思わす重厚さと、現代性を併せ持つ造りである。
暫くしてM氏より連絡があり、二人で野田山に向かうのだ。先ずはホテルで傘を借りる。やたらと派手な色、ワインレッドな傘であった。M氏はお墓の場所は不明とか、墓地に行けば私に任せろと向かったが・・・。
以前訪れた折、丘の上の一番高い処へとお墓は移転していた。見晴らしがよく、陽光が注いでいた。周りの墓石も少であった。
が、ここと思しき場所に着くと、お墓の大団地と化していた。下も、横も上もお墓、お墓である。偶々居合わせた人に尋ねると、下の方に大きな道路が出来てお墓の大移動があったと云う。
M氏と雨の中ではあるが、大澤家の墓石を探し始めた。下から上に、横にと墓石群の中を歩く、歩いた。一時間程探すが、見つけられない。昼に奥様と食事の約束をしている。余り遅くなれないので、未だ自宅かもしれないと電話をして訊く嵌めとなった。
「墓地が広がり分かりづらいから」と、程なくして来てくださった。真に面目無い次第。
一度探した処の近くにそのお墓は在った。周囲はすっかり様変わりをし、墓石の波の中に立っていた。漸く、花と線香を供えることができた。
近くのホテルで食事を共にしながら、近況などを御聞きする。
奥様のご母堂が96歳で亡くなり、先般四十九日の法要を済ませたとのこと。私もM氏も以前にご自宅に伺ったおり、ご母堂手作りの綺麗な「鞠」を頂戴している。
そんな話のあれこれの中で、私が訪れのは九年ぶりであることが判明した。「会社を辞めたので、その区切りに訪れた」と、奥様は覚えておられた。(2002年5月24日、確かご命日の日であったか)
大澤さん葬儀の寺をお尋ねすると、やはり今朝行き遭わしたお寺であった。初夏であったが、陽射しが強く、金沢特有のじっとりと汗ばんでくる日であった。
この後、私はM氏の案内により二つ目の目的地である「和倉温泉駅」前にあるカフェレストラン「はいだるい」へと向かった。(「はいだるい」の意味を、金沢勤務のM氏も、在住の義妹も知らなかった)
余 談 ・・・
雨中のお墓探しで、思わぬ方の名を見つけた。「真竹 芳樹」さんと云われる方である。真竹家の墓が目に付いた。その墓所には祖先の由来が記された石板があった。その名が気になり、墓石の横を見ると、「平成3年〇月 真竹芳樹 建立」と刻まれていた。
私には、思いで深いお一人の方である。
「真竹芳樹(さなたけ よしたつ)さんは、昭和47年、東京江東電話局長」として着任された。当時、私は庶務課庶務係の末席であったか。先輩から教わったルーチーンの業務を機械的にやっていた。事務処理方法・計算方程式があり、その通りにやり、疑問・問いかけ・苦悩・苦悶もない作業を続けていた。
着任間もない局長に、私は決裁印を貰うために部屋に入り書類をデスクの上に出した。
局長の一言「何故こうなってるの?」その言葉が胸にグサリと刺さった。その瞬間に地に潜り、天井に潜み、局舎から脱走したい気持ちでなかったろうか、・・・古い出来ごとなので粒さか不明ではあるが。
恥じ入り、恐れ入ったと云うことである。その案件は、局管内の電柱をトラックだかがぶつけて折損させたが故、その賠所金額を算出したもであった。事務処理の方程式に則り出した金額である。
私は至らなさに恥じ入り、部屋を出るだけであった。何故、どうのようにしてこの方程式が出来ているのか。物事の原理・成り立ち、意味合いを知らず、考えずに作業ををしていた。
真竹局長は書類を見ず、私の本質を見て問いかけ、気付きを与えたくれた。それ以来、少しは私の仕事に対する考え方やり方に変化があったかもしれない・・・。恩人のお一人と思っている。
私は何年か経て、本社に勤務するようになっていた。真竹さんが同じ局の課長として着任された。「久し振りだな、元気か」と、一夕酒を振舞って下さった。その時、何を話したのか、記憶に無い。ただ一つ、私を誘い出す時、私の課長に「arisawa君を借ります」と断りを言ったことである。何年か前、OB会報誌において真竹さんがご逝去されたことは知った。
大澤さんと真竹さん何れも加賀の人であった。体型も容貌も異なるが、その気分・気風は同じであったと私は感じている。本質を貫いた大人の男とでも云うべきか・・・。
加賀・金沢は野田山の墓地に、奇遇と奇縁があった。