オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

散歩

2013-07-09 | Weblog

7/9(火) 梅雨が明けて連日の猛暑、例年のこととはいえやだね~。シャワー浴びて、生ビールでもキュッと遣りたい気分である。勿論昼間にだが・・・。

この季節になると、やりたくなる商売が屋台か異動スタンドでの生ビール売りだ。冷え切った生ビールのグラス売りを、新橋の駅前広場辺りでやれば大人気を博しそうだが、如何なものだろうか。

与太話はさて置き、今朝は四時ごろに目覚めてしまった。深夜冷房で冷え切って目覚め、明け方には寝汗で目覚めるという最低のパターンであった。何故か、今朝の弁当作りは止そうと決めた。

早目に散歩に行こうかと玄関を出ると、老犬mixが糞まみれの中で死んだようになっていた。そのままとはいかず、始末に大わらわとなった。己の行く末を見るようで、切ないものがある。

そんなことから予定が大幅に狂い、散歩は碑文谷公園から下馬・野沢の近隣コースを一時間程となった。碑文谷公園のバラはまだ咲き残っていた。帰宅し、一本だけ遊びに植えたスイカの苗を見ると、花を付けていた。実を付けるのはYOSHIOのトマトと同じく奇跡だろうが。

                       

 

 古くからの友と・・・

昨夜は、学生時代から交友が続いているHosokawと会った。何を頼んでもはっきりしない(産が、富山だからな・・・)やつだが、交流が途切れない。先月、某TV番組の制作会社の役員任期が終わり常勤顧問となった。そんなことから、慰労会と称して久々に飲った次第。

銀座一丁目の沖縄アンテナショップで待ち合わせ、隣にある高知アンテナショップの二階レストラン「おきゃく」で、我が故郷の日本酒と高知産の肴で、慰労申し上げた。

「おきゃく」というのは、高知では宴会・飲み会を指す言葉である。お客さんを迎えて、一献交わすところから来ているだろうと推察するが?

まあやりや、と最初から冷酒でスタートした。Hの来し方のTVマン人生、役員を下りた後の納得がいかないこと・・・etc。Hがディレクターだった若い頃、頼まれて仕込みの手配で後輩たちを何度か動員したことがあった。私の東京での結婚披露の司会はHだった。

現場をやりたいと云うが、サラリーマンでは何時までもそうはいかない。ましてや役付取締役までなちまったのだから、自分の思いとは違う役割も果たさなくては・・・。常勤顧問・子会社の社長として一年は拘束されるとのこと・・・。

「結構なことじゃないか、一年じっくりと今後の計画が練れるぜ。それから事務所を立ち上げるのも由」と云った。「それにしてもお前、よく役員になり生き残ってきたよな・・・七不思議とか言われてないあか?」など、勝手なことを云った。『そうなんだよ、自分でも信じられないが、女房からも、よくなれたねと言われるよ』とのことだった。

二軒目は、六丁目のBar「順」へ。客は誰も居らず、暫くは二人だけだった。ここでも学生時代の仲間のことや、仕事の話。現場好きのHが最後に係っている番組が、BS放送だそうだが、確か「昭和の時代」とか言った。この番組名は新聞か雑誌で見た気がするが、好評だとか・・・。

「昭和の時代が分かるスタッフがいないんだよ、裕次郎・ひばり・アイビールックとかさ、俺たちの時代だったな」と、Hが感慨深げに語った。

十九歳の春、桜が満開の三島キャンパスに徳倉の下宿から一緒に通い、初めてBAR「リラ」のドアを開けた時も一緒だった。青春を共にし、社会人としての道は異なったが、何者かになろうと足掻いてきたのは同じであった。

「ご苦労さんでした、だけど君の人生はこれからだぜ。企業人から、職業人(プロの)として君の真価を発揮するのは」。似たようなことを昨晩も話したが、あらためて、我が友・Hosokawaに贈る言葉。

 

 

 

 

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