オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

夏の日・・・

2013-07-16 | Weblog

7/16(火) 連休も明けた火曜日の昼、何時もの便より一便はやい飛行機で高知空港を発った。金曜日から五日目となる今朝、前日までの蒸し暑さが嘘のような涼しさとなったが、日向に出ると夏の日差しは容赦ない。早朝、帰京の為に墓参を済ませた。                  

池の水を昨日も半分ほど入れ替え、葭簀を張った。心なしか水面は涼しげで僅かに残った赤い金魚も気持ち良さ気に泳いでいた。百数十匹いた金魚の大方は死に、鯉金の小さな奴だけ残っている。それでも昨日も二匹が浮かんだ。せめてこいつ等だけでも生き延びてほしいが・・・。

                       

早朝、故郷の川に暫しの別れを告げる。と、橋の上流で従兄弟が鮎釣りを始めていた。まだ水量が多い、もう少し水が少ないと鮎釣りにはいいそうだ。まだまだ鮎の魚体が小さい。川が小さいのでそれほど大きくはならないが、獲れているのは稚鮎に近い大きさしかない。

                      

                        正弘橋からの、上流(左)と下流

一昨夜、妹の旦那で私の幼馴染でもあるhirokatuが獲った鮎と、畑の片隅に自生している「リュウキュウ」で酢の物を作った。小さな鮎を三枚に下したり、背越し(内臓を取って輪切りにしたもの)にしたり、この時期の鮎だからこそいい。塩で揉み・〆て生酢と少量の砂糖と柚子酢を使う。鮎を使ったリュウキュウと茗荷の酢物とは一興であった。

              

昼間暑くて敵わない、少し動くだけで汗びっしょりとなる。畑や池の掃除、夕方に家に戻り飯作りとなるが、喉が渇く。冷えた缶ビールを取り出して、グビリグビリと喉を潤しながら、天麩羅やフライなどを揚げたり、南瓜や茄子を煮たり。母が小食となったのだ、大半は自分が食す破目となるが・・・。量が多いので、妹の処へお裾分けをする。

                     

                    小さな自家製の鮎開き、茄子・トマトは定番

畑のスイカは三個が大きくなっていたが、一つの蔓が枯れていた。こいつを持ち帰ったところ、程々に熟れてはいたが甘み不足。それでも汗をかいた後に冷えたスイカは喉越しがいい。翌朝、畑に出たところ・・・、何ともう一つをハクビシンが喰っていた。気付かれてしまったのだ。

                 

イクリ(ソルダム)も樹に沢山残っていたのが一つも無くなっている、ハクビシンが来ると全滅なのだ。残ったスイカを獲ることとした。ついでにカボチャも一つ収穫した。小さいスイカと瓜の実が何個か付いているが・・・熟れはじめると、山から獣が下りて来そうだ。

                      

畑の方もすっかり綺麗になった。一休みしながら、残っていた甘夏と小夏で水分補給する。暑い最中、何時ものように焚火をして選定した枝を燃やす。充実のひと時である。

                      

               

朝晩をそんなゆったりとした時間を、昼間は体を動かす。アッと云うう間に日にちが経った。次は、お盆の週に帰省となる。初盆なのだ、概ね必要な手配は終えてきたつもりだが・・・。

 

  七回忌

 今夜、「禅」のオーナーだった東郷好彦さんの七回忌。お店で行う旨の案内を貰っている。亡くなってから六年となるか。彼が眠る弘前市の寺を訪ねてから三年近くなるか、私も東郷さんが亡くなった年齢を過ぎたようだ・・・。

ゴルフ、店がはねた後の二人だけのカラオケ合戦、店のスタッフにも客にも厳しかった彼。新しい店を始めると情熱を絶やすことはなかったのに、胃癌に見込まれてしまった。歌姫・葉子さんの縁で知り合ったのは、麻布警察裏にあった頃の店。今思い出しても善い店だった。

深夜、連れて行った六本木のクラブの姐さん達が酔っ払うと、露骨に嫌な顔をしたものだった。流石に帰ってよ!とは言わなかったが、云いたそうだった。端正な顔を黒子が和らげていた、唄とゴルフが下手だった、そして世渡りも同様に(あっち側で怒ってるだろうな)。そんな貴方が僕は好きだったよ。

永い眠りから何時か目覚め、また巡りあうこと願っている・・・。今夜は、飲ませてもらうよ。偲びつつ・・・。

 

 

コメント
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