オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

崖っぷち・・・

2016-12-01 | Weblog

12/1(木) 昨夜の帰宅も21時30分と早かった。昨夕の会は、6時30分から東京駅八重洲の駅前にある中華店だった。横須賀の単身寮に居た時代のメンバー六人と、いつもお世話になっていた食事処「埼玉家」(現 天まる)の先代夫妻を迎えての懇談会であった。「天まる」には、10月初旬の人形町パトロール隊〝三浦半島の旅〟で顔を出している。

当時のことや、現在の暮らしなど話題は尽きない。国立博物館でボランティアを始めたUENOさん、中学生の家庭教師をやっているNAWAさん、現役ながら平塚の在で一反の畑を耕しているMITUHASHIさんと、それぞれに元気な暮らしぶりであった。オイラの方は、夜な夜なの酒場通いと、折々のボート遊びなのでつまびやかなことは言わなかった。と云うよりも、あの真面目集団には通じない・・・。

埼玉家のご夫妻に、清寿軒のどら焼き(この店は、幕末からの老舗  らしい)と、吾輩手作りの新鮮無農薬の柚子酢をお渡しした。まざわざ横須賀からのお出まし、これぐらいのことはしなくちゃなんねぇ。

二時間飲み放題で、料理が八品で6000円(税別)と格安?とのことで幹事役のミッチャンが予約した店であった。料理の方は、こんなものだろう…値段相応だ。やけに愛想のいい婆さんが、埼玉家のオヤジの格好を誉めたので、一同が湧いた!

「秀宴」とか云う店であったが、窓越しに向こうの路地の看板が目についた。それが、懐かしきサントリーBAR「グリン」の看板だった。グリンには、先代のママさんがやっていた頃にお世話になった。かれこれ二十年近くも通った店であった。この店で馴染になったメンバー五人に、ママさん姉妹とで「竹林の七賢人会」なんて名付けた飲み会をやっていた時代もあった。

ママがなくなったのは、僕が横須賀に勤務していた時だ。同じ会社の大先輩、岩淵 清さんと一緒に葬儀に出た。その岩淵さんも、三年前の春に癌で亡くなった。その年の年賀状に「奈加野で一杯やろうよ」と添え書きがあったが、果たせなかった。カラオケで唄うようになったのも、グリンであった。思い出が一杯詰まっている店なのだが・・・。

今は息子のJUNちゃんが受け継いでいるはずだが、足はすっかり遠ざかったままだ。それでも昔の看板のままにつづいているのを見ると嬉しい。ママの名は小河喜美子だったか、その母の時代から店がつづいている。歴史のある店なのだ。宴会の帰りに寄る手もあったが、何しろ満腹で飲める状態じゃなかった。何時かまた、顔を出す日も来るだろう・・・・。

今夜も明日の夜も、宴会がある。そんなこともあり、八丁堀駅まで歩きメトロに乗った。前夜につづき、早い帰宅であった。

早くから蒲団に入ったが、今朝の目覚めは七時になっていた。夜中に目覚めないのはいいことだ。それでも夢をみていた、楽しい夢じゃないが。高い崖の上から腹這いになって河底を覗いていた。一緒に覗いているのは某銀行のOBのヨッチャンだった。高いな~、ここ崩れるとやばいぜ。なんていって、平地に下がって会話をしていた。「銀行のやつで、崖から落ちて死んだのがいるんだ」なんて、ヨッチャンが言っていた。

そんな夢が目覚める前のこと。高い崖のシーンが何故夢に出てきたか。目覚めてからそれを考えていた、思い至ったのは寄居の鉢形城のことだった。この城は、荒川の崖上に建っていると本で読み、城址を写真で見ている。一度訪ねてみたいと思っている。そんな思念が、この夢になったであろうと結びつけたが・・・・。崖っぷちを歩いているような人生だ、それを思えば夢のこともさもありなん・・・か。

と云うことで、今朝の弁当作りは遅くなってしまった。幸いにも、長女は今日も休みとのこと。弁当は、一つだけだ。

「牛小間炒め」に、ピーマン・シメジ・タマネギ炒めを添える。魚は鮭焼き、小松菜の卵とじ、パスタサラダはポテト・人参などと一緒にする。

                           

いとも簡単な弁当であるが、量だけは十分である。家人曰く「今日のお弁当は軽めにして」だった。なんじやぁい!

                            

 

 

 

 

 

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