オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

西表島Ⅱ

2017-03-15 | Weblog

 3/1日、8時に石垣島離島港を出発、45分の船旅で西表島・大原港に着いた後、「朝得コース」に参加した七人は、仲間川のマングローブ観光を終え、大原港に戻った。そこからバスに乗って、西表ヤマネコの住むジャングルの山裾を走り由布島へと渡る岸辺に向かった。

大型の観光バスを運転するのは、なんと観光船を操船していた人だった。『なんでもやるんですね』と云うと、「こっちの方が本業ですと」応えた。島に二か所しかないという信号を左折して由不島へと向かう。島に渡る岸辺まで三十分程であったろうか。ヤマネコや冠ワシのこと、周辺の集落について案内を貰いながらゆっくりとバスは走る。

岸辺の駐車場に入り、すぐ目の前に待つ「水牛車」へと向かった。海辺は少し汐が引き始めたようだが、砂の色の所為か海底は見えない。牛車が十台ほど客待ちをしていた。目の前に浮かぶ由布島の浜辺に、同じような牛車が数台見える。海を渡って行く牛車が彼方に一台。

                             

由布島は、西表島の東海岸から400m先に浮かぶ、周囲2.15kmの島だとか。戦後に入植者が住み、学校も出来ていたそうだが、昭和三十年代に台風被害で島は水浸しとなり、その後、島民は対岸へと村ごと移住。現在は観光の島で、常住するものはいないそうだ。

丁度こちらから島へ渡る観光客がバスから降りてきた。我等は小さな牛車に乗る。一番前に陣取った。十五歳とか云うメスの水牛とか、馭者は三十代とおぼしき若者(私達からすると)だった。水に入り十歩ほど歩むと、水牛が立ち止った。すると「水牛は水に入ると必ずオシッコをします」との説明があり、牛は長~い、そして大量の放尿をしたのである。一番前のオイラは堪ったもんじゃない。が、前の羽根板を揚げたので被害はなかった。

                                 

                             この後直ぐに、大放尿が

然し、大量の放尿は見事だった。加えて、少し歩んで今度は脱糞をしやがった。「これもあれも、豊穣の海の源となります」と・・・・・。

そして、載せていた三線を手にし「下手ですが、島唄を三曲だけ唄えます。ご希望があれば言ってください」と、沖縄民謡を上げた。誰も声を発しない、ではと小生は「十九の春」を所望した。

                             

馭者の若者は声を張り上げ、三線をつま弾いた。三番まで、きっちりと唄ってくれた。張りのある、よく通る声で、味わいがあった。目の前に浮かぶ小さな島、浅海を足下にゆったりと進み、南の国らしい雰囲気が漂う・・・・。凡そ、十分ほどで渡った。水牛はおとなしくて力持ち、水を恐れない。だから水牛か!

島内での滞在時間は40分、この短い時間内で島を巡るのだが・・・。亜熱帯植物が茂り、ブーゲンビリヤの植物園があるだけの島である。売店や土産物、水牛が休んでいる公園があるだけの島であった。植物園を覗き、小浜島を望む茶店でソフトクリームを口にして、砂浜にでて霞む小浜島を眺める。

              

そして、水牛車で戻るべく集合場所に戻った。また、水牛車で元の浜に戻る。今度の馭者は年配の爺さん風である。訊くと、島の観光に従事しているのは五十人ほどとか。水牛車は二十台とのこと。ハイシーズンにはアルバイトが来ると云う。ここで用済みになった水牛は、竹富島で牛車(これは集落を廻るだけ)を引くとか。水の中を歩むには、相応の力が要るようだ。

浜に待つ、観光バスに乗り込んで元の大原港に向かう。途中の電線に「冠ワシ」が羽根を休めていた。「皆さん運が良いですね」とは、ガイドの運転手の言葉。暫く、バスを止めてくれた。冠ワシは、ワシ類の中でも一番小形のワシだとか。どうりで、このワシをシンボルにする石垣島出身のプロボクサー具志堅も、軽量級だった。

西表ヤマネコを昼間に見ることはないそうだ。時々観光客が、路上のネコを見てヤマネコと騒ぎ、喜ぶことが間々あるそうだが「家ネコ」だと訂正してやると云う。山際の道路に、ところどころ滑り止めのような凹凸がある。これは、ヤマネコの横断に気を使わせるための仕掛けだとか。この島に住んで十五年なんると云う運転手でさえ、ヤマネコを見たのは数回しかないそうだ。

 そして、大原港に着いた。予定通り、12:40分発の船で石垣港に戻った。出発前には、遅い船にして港周辺の見どころを廻りたいと思ったりしていたのだが…、廻りには何の見所もなかったのだ。

 石垣に戻り、小浜島に渡りたかった。明日の朝は空港に向かうのだから。されど時間がない、船の連絡が上手くつかない。宿のある竹富島に戻ることにした。そして港のすぐ脇から出る、グラスボートにでも乗ってみることを思いたった。

竹富港に着くと、珊瑚礁や魚を見るボートの出航直前。連絡船と連携しているのだ。1200円を払って、グラスボートに乗った。船の真ん中が強化ガラスかプラスチック?両脇に客は並んで座り覘く仕組みだった。300m程先が珊瑚礁で、泳ぐ魚を亜熱帯の魚を上から覘く。天候の所為で海水は濁り気味、空は曇り空。この日の条件は良くない。

                             

 それでも、亜熱帯の彩をした小魚や、大きめの蒼黒い魚の泳ぐ姿が。珊瑚礁を見ることができた。一時、サンゴの絶滅が心配されたとのことだが、生えてきているとのことだ。帰り際、小さな海蛇が身をくねらせて泳ぎ去った。一瞬のことであったが。ここでも餌付けをしているとのことだが、ウミヘビの餌付けは無理だろう。

明けた三月二日、帰京の日である。九時発の連絡船に乗船するために、港へと送ってもらう。短い間であったが、世話になったホテルの前を、何もない風景撮る。

                          

来た時と同じように、石垣港前からバスで空港へ。昼に発つ便に搭乗前の食事を摂る。何を血迷ったか「握り寿司」にした。そして、オリオンビールの生を流し込んだ。ANAの最後部の機窓から、さよなら、サヨナラと八重山諸島の島々に別れを告げた。

                             

お仕舞!

明日から帰省します。お彼岸と第一回の草刈りがまってますので・・・。帰京は、21日の夕刻となります。それまで、さよならサヨナです。

 

 

 

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ホワイトデ―

2017-03-15 | Weblog

3/15(水) 昨日のお昼、日本橋の三越デパートに行った。目的は二つ、その一つが表題のプレゼントを見繕うことであった。会社から昭和通りを横断し、三越方向へと凡そ五分、コレド室町の地下街に下りて銀座線・三越前駅を横目に過ぎて三越本店の地下食品売り場に入った。

其処は紺・黒のスーツ姿の野郎どもが、狭い売り場売り場に列をなしていたのだ。「なんだ!これやぁ!」そのものの様相を呈していた。義理チョコの世界は、この日本橋界隈では廃れてなかったことを如実に表していた。

かく云う小生は、家族や飲み屋で頂戴したチョコのお返しが殆どだが・・・、それでも一応はひとり一人の顔を浮かべて、何にしようかと考えた。おサイフと相談しながら二品に絞って購入。その後、16日からの帰省用に、従兄姉達への土産品を見繕って送った。

日本橋コレドの地下を抜けて表に出ると「おかめ桜」が咲いてる通りに出る。この桜の花弁は小さく下向きに咲く。色は緋色で沖縄の桜を小さくしたような趣がある。毎年二月の半ばぐらいから咲きはじめるようだ。そろそろ終わりに近い、花びらが路上の隅に溜まっていた。

                           

会社に戻ると直ぐに外出の時間が。三時から五反田の旧逓信病院で受診することになっていた。一月前、咳が酷いので受診したが、その結果などを聞くためである。予定通り病院に着き、診察室に入るなり「肺活量の検査を受けて下さい」だった。その上で診察しますとの指示。肺と心臓は弱いのよ、これは重々承知しているが・・・・。

検査の結果、それ程悪区はない。一応は合格レベルと判明・・・と、自己判断した。診察室に戻り受診すると、肺活検査のデータを見たDrは、「喘息の傾向がありますね」と云う。そんなことは承知しているから受診してんだ!と、言いたいとこは胸に仕舞い『そうでしょうねぇ~』と、子羊ならぬオオカミのような声で応えた。

「もう一度レントゲンを撮りましょう」との指示で、再度検査室へ。正面と右側のレントゲンを撮った。再度診察室へと、今度は前回撮影のものと比較しながら聴診、「肺の変化はないですね。生理検査の結果は特に異常はありません。CTの右肺の下の陰が、なにか分らないので、五月の連休明けにもう一度CTを摂りましょう」と、なった。そして喘息用の薬(ステロイド系の吸引薬)を二か月分処方されて放免となった。

この間、一時間強。次の予定は6時で、渋谷「奈加野」にて、後輩たち五人との懇談会である。時間に余裕があるが、会社に戻り往復する時間はない。五反田駅からバスで渋谷に向かうことにした。電車なら目黒~恵比須~渋谷なので、五分強と僅かな時間だが、ぐるぐると廻って向かうバスは50分程を要した。

店に着くと、EBISUIが早々と手酌で燗酒を飲んでいた。「五時半からやってます」と、毎日が日曜日の優雅な男は余裕しゃくしゃくの体である。二人で先に飲んでいるうちに、YOSHINO,一日500円男のHAMANO、SAKAMOTOと続き、最後に一関市から上京中のCHIBA君が豊かな頭髪姿を見せた。

日々の暮らしや最近の状況、親の介護などあれやこれやで時間は過ぎていく。仕事をしていないのは、EBISUIとCHIBAの二人、後は未だ職に就いている。四十年以上も前に、津田沼の独身寮で、同じページに色を塗った仲間である。会社は同じであっても、年齢はもとより、職種や業務の内容、歩んできたコースも異なるが、同じ釜の飯を喰って以来、交流を重ねている。

誰かが「不思議なことに、未だ誰も欠けてないよね。高校の同級生で仲間だったのが二人も亡くなったのに」と言った。『そろそろ欠けるのも出るさ。俺が一番に行って皆の関を取っとくよ』と、すると「殺しても死にそうにないのがARISAWAさんどよ」と、世辞を云うやつが。

                          

こうして古い仲間と会えるのは楽しいものだ。後二人いるが、一人は広島だし、近場に会社があるYは、ほんの数年前に若いのと再婚してから疎遠になった。別れた奥さんのことは、結婚前から、皆で一緒に遊んだ仲間だったからな…、触れられたくないんだろう。別れたと知った時は、残念がったよ。

そんな諸々の思い出を語り合っているうちに、店主が顔を出して座りこんだ。『焼酎入れてやれよ』と云うと、すっかり仲間に入った。「俺の実家が銀座とすると、ARISAWAの実家は八王子だな」と何時ものセリを吐きながら、お開きまで喋っていた。オヤジ、それやぁ目くそ鼻くそを笑うと、云うんじゃねぇか、と悪態をついてやったが・・・・。

店を出ると、小雨が降りだした。何時もよりは人通りが少ないセンター街を駅の方に向かい。ハチ公前交差点の信号で「またな・・・」と、散会した。

 

今朝は、五時に一旦目が覚めた。これじゃ早すぎると蒲団を被ったが、次に目覚めたのは七時に十五分前。これはちょいと遅すぎるが、覆水盆に戻らずだ。

今日は家人用の一人分なので、時間も余裕十分。確か昨晩の帰り、弁当用の菜を東急ストアで買ったはずだだが?ホウレン草と椎茸。他に何を?暫く思い出せなかつた・・・・。

今日のメニューは、たしかホウレン草と椎茸のバターソテー、ブロッコリ・アスパラ・スナップのサラダ、菜花のお浸し、乱切り茄子と豚薄肉の素揚げのポン酢味、卵の出汁巻。なんか変だな?メインになるものがない。おかしいな~・・・。

てなことをしているうちに、漸く思い出した。生鮭のソテーだ、これ用に小ぶりの生鮭を昨夜、買ったのだ。ホウレン草と椎茸は、メインに添えるのだ!

本当に馬鹿だね、痴呆症・健忘症、ボケオヤジそのものだぜ。最後になって漸く思い出したが、これじゃ先が思いやられるな・・・。鮭を冷蔵室から取り出して軽く塩胡椒を振る。四切れあるので、二切れには小麦粉をまぶす、後の二切れはそのまんまソテー。オリーブオイルとバター、醤油をほんのひと垂らし・・・・。ハイっ、完成である。

                                      

今日も菜を弁当に詰めるに一苦労、押し込み押し込みになった。ちょいとイカンザキだね!

                           

 

 

 

 

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