オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

野菜弁当Ⅱ&波照間サヨナラ

2017-03-08 | Weblog

3/9(木) 昨夕と云っても、八時頃のことだが。MITUHASHI君が寄ってくれた。寄らしたと云うべきか。一月だったか、一緒に飲んだ時に「文旦」の話をした。本格農業派になった彼なので、我が故郷自慢に文旦のことを伝えた。そして、苗木を送る約束をしていた。

一月の帰省で、文旦と小夏の苗木を農協に注文した。そんなことはすっかり忘れていたが、妹から電話があり、苗木が届いたとのこと。その送り先を確認するためにミッチャンにメールをした。併せて、収穫物となる「土佐文旦」を味見さすべく、呼んだのだ。

今が文旦の最盛期、我が家の文旦と、買った文旦の両方があるので、取りに寄るように伝えたのだ。年度末繁忙で時間外勤務があり、遅い時間になったが寄ってくれた。二人で「高松」に行き、ハイボールや金魚ソーダをやりながら、諸々の話を・・・。

                              

そんな中で、研究所を出た後に勤務した子会社でのことを話し始めた。彼は、研究系の会社に出したが、そこで昇格させて貰えなかったことを無念がった。高い評価はしてもらったそうだが、昇格はさせて貰えなかったと。昇格には累積の評価ポイント、面接や試験を経るが、その前に所属組織からの推薦がある。事務系の彼は、研究系会社にいたので、人事の事情・状況が分った上司に巡り合えなかったのだろう。縄のれん人事の犠牲とも云える。

彼とは研究所で二年、それからも付き合いがつづき、早や二十年近くになる。丁度会社の再編などの時期で、広報担当にいて研究系の仕事に明るかった彼を、そのノウハウを生かせる仕事がいいだろうと、転勤先を決めたのは私だった。『それゃあ申し訳なかったな』と、云しかなかった。

人事に関しては、似たようなケースはよくあることだが。望まれて行っても、必ずしもいい結果になるとは限らない。また逆も真なりと云うこともある。サラリーマンを辞めて十五年、今更ながらだが人事の難しさを知らされた。

明日も忙しいと云う彼と別れ、「ローカーボ」「ちょっぷく」と渡った。ちょっぷくでは、店長のYAMAチャンとカラオケ合戦?そんなことをして、帰宅は25時過ぎとなってしまった。ちょっと遅すぎるネ、SHIMADAさんやMIKOSHIBAさんから、「お酒はほどほに」の助言・忠告を貰ったばかりだったが・・・・。

                    

                        ジムコ NAKAMURA一家

 

今夜は程々にしますよ。23時までには切り上げます・・・。初めて一緒に飲む方なので、多分それくらいには終わるでしょう。

 

今朝は六時半の起床。前夜が遅かったので、こんなものでしょう。今日も野菜中心の弁当だ! これが意外に手間が掛かる。飲み過ぎの翌朝は、体が重い、頭も重いで、サクサク進まないんだ。

昨日と同じじゃ笑われるし、困ったねぇ~・・・・。長女は肉・魚・米は除外だが、家人の方はそうはイカンザキだからネ! ここは一石二鳥、一緒に作って弁当で別れる。二股膏薬、蝙蝠戦法に徹したいが・・・。結果は、以下のように!

                     

そんなことで、メインはピーマンの肉詰め煮。肉詰めは家人用、一緒に白菜を煮て長女に。胡瓜の塩麹揉みサラダ、アスパラと茸のソテー、茄子の味噌炒め、ベーコン&小松菜の卵とじ、以上です。

                      

 

 

 ―波照間島 最終編 ―

珊瑚礁の海岸を断崖の上から望み、またまたサトウキビ畑のなかを通る舗装道路を自転車を漕いで、一路最南端の場所へと向かう。ホンマにこの島には標識がない。無論、信号もない。後で判明したが、遅い時間に飯を喰うとこもなかった(探せなかったのか?)。

                        

それながら、何となくここだろうと思うとこへ行くとそれが目当ての場所。要はそれだけ判り易いと云うことか。 ― 昨日のBLOGに島の地図を載せたが、判り易いことは間違いない ― 。そんな感じで、いつの間にか最南端の場所に着いた。岬と云うよりは、ちょっとした出っ張り。そこが、人の住む所としては最南端であった。

駐車場に自転車を止めて、100mも海岸に進むと四角錐のコンクリートに「波照間碑」と記されたいたが、その直ぐ先に「日本最南端之碑」が建ち、ご丁寧にすぐ脇に日の丸の石碑まである。その他にも、大石に刻まれた「日本最南端 平和の碑」竹富町 なんて石碑が鎮座していた。この島も、竹富町になるんだ!

碑の直ぐ向こうは断崖、そして珊瑚礁らしき岩場がつづいて青い海に至る。そんなとこでした。

                  

 余談・・・

旅人らしき初老の男が、これも旅人らしき男に、大きな声で喋っていた。「マグロ丼のマグロが多くて多くて、食べきれないぐらい入ってんですよ。寿司屋の店主が旅人だと、サービスしてくれたかもしれないが。凄いマグロ丼で、是非行ってみてくださいよ」と。

そのオヤジに、すれ違いさまにオイラも茶々を入れた。『それって、一体どこの話ですか?お値段は?』と。すると「大間ですよ、大間。値段は1200円でっした」と返ってきた。本州の北のはずれ、大間のことを此処で聞いてもな・・・・。然し、大間で、本マグロの美味いとこをそんな値段じゃ喰えないだろう?

昨年の秋だったか、大間とは反対側の岬、龍飛岬に行った。突端にある食堂、TVなどでも紹介される「海峡亭」で飯を食った。名物だろうとメニューにあったマグロ丼を注文した。大した量もなかったし、メジマグロらしき赤身だった。その値段も確か1200円だったように思うが。

大間出身の知りあいがいる。尤も家人の友人だが、その人にオイラは云う『できれば土産は大間の本マグロにしてくれよ』と。彼女曰く「みんな築地に行っちゃうよ。マグロ祭りに出てても、高くて高くて手が出ない」と。小さなマグロは地元にも出るだろうが、いいものは高く売れるとこへ行っちゃうな。水は高かきら低きへ流れるに如かずだねぇ~。

このお喋りをしてたオヤジとは、帰りに港で会った。船では私のすぐ後ろに座って、やはりお喋りがつづいたが・・・・。

余談、おしゃべりが長くなった。本題に戻ろう。

 最南端の場所を現認した。後は集落へと上って目的の民宿を探すことだ。海岸から藪の中を登っていく狭い道を自転車をこいだ。電動の面目躍如である。そして灯台の下を廻って集落に着いた。目的の辺りを地図で確認する。予想以上に閑散とした集落、人口五百人の島とはこんなものか?

                            

物音が、車の音も子供の声もない集落を、狭い道を右往左往して目的の民宿を探す。誰かに訊こうにも人の姿がない。誰も通っていないのだ。港のレンタル自転車屋を出てから、レンタルの軽自動車のシニア二人、これもレンタルバイクに二人乗りの若い娘、海岸と最南端の碑に居た三・四人の観光客、そしてサトウキビを刈る五・六人の姿を見ただけだ。集落の路上を歩く人の姿はなかった。

                         

                             火番所跡

 地図を頼りに、目指す民宿を探す。どの民家も「民宿」の看板を掲げていると思えるぐらいに多い。ここは、サトウキビと民宿の島か?。同じ道を何度か行き来して漸く見つけけることができた。その民宿は集落の端に在った。

そこは、「民宿 あがた村」と云う。ここの主が、全て手作りした宿と聞いている。主は、この島出身のN社のOB、五十代前半に退職し、生まれた島に戻って民宿を自作したそうだ。火山岩を積んだ石垣と防風林であろう高い木が屋敷地を囲っている。台風と大陸からの季節風にさらされる島々の住いは、同じような作りが多い。

                         

訪なおうかと思ったが、二ヶ所の出入り口は軽自動車が駐車しており、塞いでいるかのように思えた。そんなことはなかろうが、訪いをためらわせた。写真を撮り、ひと回りして引き上げることにした。石垣港を出る時は、竹富島の宿をキャンセルし、この島に一泊してもいいかと思っていたが・・・・。家々は石垣に囲まれており、解放感に浸れない。そんな気がしたのだ。

                            

兎も角、訪ねようと思った処に辿り着けた。それだけで良しとしよう。そう決めた。そう思うと、腹が減った! 食堂を探そう、そう決めて狭い集落の中を自転車を走らせた。飯やお茶を出す店らしい案内を見付けた。そこを探してまたウロウロと廻ったが・・・。三線の音が聴こえてきた。其処だろうと辺りをつけ、その家の庭に自転車を乗り入れた。

コンクリート作りらしいがっしりとした建物、ここにも民宿の看板が出ていた。初老の男が、玄関先に椅子を出して携帯電話で話をしていた。こんな時間だが食事はできるか?と問うたら「できない、港の建物の中に食事ができる店がある」と、教えた。

帰り船の時間まで一時間以上あったが、店がない以上は仕方ない。早いが、港に戻って飯とビールをやりながら、出航を待つことにした。

                        

レンタル屋に自転車を戻しによると、入り口の鍵が掛かって姿が無い。自転車の鍵を差したまま、元の位置に置いた。港の建物に入り、食事処を探したら・・・・。なんと、カウンターはアコーデオンのカーテンで閉まっていた。売店の姐さんに訊くと「閉めて帰ったようですよ」との応え。酷いねぇ!

売店で缶ビールと、一つだけ残っていたサーターアンダギー(ドーナツみたいな揚げたやつ)を買って頬張った。向こうの椅子で、島人と泡盛を飲んで盛り上がっている初老のオヤジがいた。見ると、最南端の碑で会った、大間のマグロオヤジだった。俺も泡盛飲みたかった! 、流石にその輪に入って行くのは躊躇った。

                          

出航の時刻を見計らったかのように石垣港からの船が着いた。来た時の船、もっと小さく、旧型のように見えた。何時ものように、船倉のうな客室には入らず、後部のオープンな席へ。最後尾を、あのマグロオヤジが占拠していた。しょうがねぇや、そのオヤジの前に座った。これは結果的に正解だった。最後部は仕切りもなくオープン。そこから跳ねた波飛沫が、座席まで飛んだのだ。

16:50分波照間港を出航、17:50分予定通りに石垣港に入った。丁度一時間、エンジンの騒音とガタガタと響く屋根音、油の匂い、波飛沫に見舞われての帰還であった。

然し、本当の厄災はこの後に待っていた・・・・。

 

 

 

 

 

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野菜尽くし

2017-03-08 | Weblog

3/8(水) 出社前、目黒税務署に立ち寄り確定申告の書類を提出した。これで、納期が来るとなけなしの口座から十数万円が引き落とされる。なにやら切ないねぇ~。とはいいながらも、一安心である。

昨夕、同郷の友人MATUMOTO氏と会う予定が彼の都合で延期となった。そこで、先々週から連絡を貰っていた後輩、YOSHINO君と会うことにした。17時半、駅で落ち合い「うまし」「ちょっぷく」にて懇談。「うまし」では日本酒好きの彼は、佐賀の酒を乾すと、我が郷里の「南」を旨いといってお代わりした。私はハイボールだった。

「南」の醸造元、玉乃井酒造は小さな蔵元なので東京で「南」にお目に掛かれることは稀だ。ベッタラ市で、我が社が出す屋台で「南」を飲んだ女将さんが、酒屋を探し廻ってみつけたと云うが、それでも限定数しか入手できないとか。『田舎に帰った時にでも、蔵元に在庫があれば手配しますよ』と伝えた。

南といい鮎といい、我が故郷・安田町においては鄙に希なる品だが、それを人形町の店が置いてくれるとは有り難い。その味、良さを認めてくれればこそである。いずれも紹介したのは小生、少しは郷里の役にたったか?

 

今朝の目覚めは四時半、ラジオを聞きながら時の経つのを待った。六時前に台所に入る。長女のオーダーで、今日の弁当は野菜中心とする。

冷蔵庫の食材を漁り、小松菜・ホウレンソウ・胡瓜・レタス・椎茸・大根・スナップエンドウ・インゲン・アスパラ・新タマネギを取りだした。これらを煮る、茹でる、晒す、などして菜にするのだ。白和えを作ろうとしたが、木綿豆腐が不在のため断念。

胡瓜&若布の酢物、小松菜と薄揚げの煮浸し、ホウレンソウの胡麻和え、鶏肉と大根&椎茸・インゲン・蒟蒻の旨煮風と、新タマとレタス・アスパラのサラダ胡麻ドレッシング掛け、以上が野菜メニュー。

                        

家人には、煮物の鶏肉を加えるが、他には冷凍の「チキンカツ」を温めた。そして、ベーコンとエノキのオムレツ、明太子を一欠けら焼く。

以上が本日のメニューだが、長女は小さい弁当箱にとの注文。四種の野菜系を詰めるにもひと苦労。家人用は、野菜にプラスして卵料理とチキンカツが加わる。これは更に一苦労で、ご飯の領分を相当に侵犯した。

                       

野菜中心の弁当も、捨てたもんじゃないと認識を新たにした。かくして、オヤジのメニュー構成が多彩となるのか?

土曜日は「オヤジ達の料理教室」第二回が予定されている。今回は魚の捌き方、捌いた魚で揚げ物作り。鰺のナメロウも作るそうだが・・・、私的にはこいつは好きじゃない。されど我儘は言えん、イカンザキだ。

 

 ― 波照間島 Ⅲ ―

この日の波照間は、昼過ぎまで雨が、それも激しく降っていたそうな。乗船した船が着いた一時過ぎには上っていたが、水溜まりがそこここに残り、サトウキビや樹木、叢はつややかに輝いていた。

オフホワイトの砂浜が広がり、透きとおるような水辺の先には珊瑚礁に白波が寄せる。そんな絶景に暫し見とれた。観光客らしいき姿が、三~四人いるだけの、寂とした最南端の海はおだやかで、騒音の船で疾駆してきた青黒い海原とは真逆の海だった。

                         

「ニシ浜」は厭きることなく眺めつづけられるであろうが、旅人には島内での時間が少なかった。風光を胸にしまいこんで、次のポイント「サンゴの浜」へと向かった。

 西の浜から程近い処にあったが、やはり表示がない。レンタル屋で貰った白黒地図を手に、甘藷畑のつづく中を走った。十五分ほど走ると、海岸へと降りる道らしきものが下っていた。ここらであろうと、赤土と石の凸凹を厭わず自転車を乗り入れた。30m程下りた先が少し広くなって、そこが行き止まり。

その行き止まりから、人が一人だけ通れるような、踏みにじった通路が・・・・。自転車を置いて、ままよ、と其処を進むと小さな入れ江と浜が現れた。それが「サンゴの浜」であった。

                         

サンゴの死骸で小さな浜は埋まっていた。男女の若者が二人、泳いだ後のような恰好でいた。『泳いだのかい?』と、訊く。「泳ぎました…、寒くて寒くて」と女性の方が応えた。『そうだろうな、唇が真っ青だよ』と云った。

                             

沖縄の海開きは四月、今の季節は大陸からの季節風と天気がよくない。私はTシャツの上に裏地がボアになったジャンパー。それもジャンパーのファスナーは上まで上げて自転車に乗っているくらいだから。若者の邪魔をせぬように、早々にサンゴの浜後にした。

そしてまた、延々とつづく甘藷畑の中の道をひたすら進む。二十分ほど走るとサトウキビ畑が終わり、原野と段丘から海原を望む光景に代わった。その光景から、珊瑚礁に囲まれた島だと云うことを実感する。

                   

今はサトウキビの刈り入れシーズンだとか。刈り取り最中の畑がある一方で、まだ植えつけてから日が浅いと思われる小さな甘藷畑も点在していた。昔、まだ幼かった頃に、我が田舎でもサトウキビを栽培して汁を煮詰め、黒糖を作っている処があった。サトウキビとは呼ばず、カンショと言っていた。一般的に甘藷はサツマイモを指すが・・・。敢えて、甘藷の字をあてて表現したが、サトウキビのことである。

                         

 愈々、最南端の岬が近い・・・・。八重山諸島や波照間島の地図を、パンフレットから撮ったので紹介する。

                     

                     八重山諸島                波照間島

波照間は、人口五〇〇人程度の島で、一番長い処を計っても5㎞ぐらいしかない。それに島の一部は立ち入れないのだ。勾配が少々あるが、電動の自転車で楽に廻れた。沖縄本島からだと500㎞ほど離れており、石垣島からは50㎞ほどのところだ。

 

 

 

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