3/24(金) 昨日は、目黒の某社での打ち合わせが夕方の六時からだった。その前にと、川崎市の太田総合病院に入院している「ちょっぷく」オーナー兼店長のYAMAKAGEさんを見舞うことにした。彼がここに入院しているのを見舞うのは二度目。最初の時は脳溢血だったが、三年も前のことか。
京急線川崎駅に降り立ったのは午後四時前だった。JR川崎駅は、大規模なバスターミナルを挟んで対極にあるが、この駅前都市の大きさには目を見張る。駅から直ぐに大規模な工場が並ぶ工場地帯だっと記憶するが、都市整備がすすみ、かつての面影はない。バスターミナルを繋ぐ信号を幾つも越えて、病院へと向かった。
十分ほどで太田総合病院に着いた。病院の看板がなければ、大きなオフイスビルと見まがうような建物である。ここの五階、脳神経科病室に入院をしている。病室のナースセンターで面会表に記入、ゲストカードを首に下げ、マスクを着用してから入室した。
六人部屋のベットは半分は空いている様子。奥のベット脇にYAMAちゃんは立っていた。『お~い、どうだい』と声を掛けると、直ぐに出てきた。病棟入り口にある待合室へと戻る。心持、足取りが頼りなく感じたが、言葉には違和感を感じない。椅子に腰を下ろして状況を訊く・・・・。
「頭の真ん中の血管をやられたんだ。その所為でラ行の発音がうまくないんだよ」と言う。じゃあこれかと『舌を丸めて、ラッラッラッラララ』と連続すると、彼も真似た。「ラアラアラ・・・、あれっ!。らっらっらっららら・・・できたじゃ!」と喜んだ。
『もう酒を飲む気が市内だろう?』と水を向けると、「もう飲めないな、飲んだらお仕舞だ」と観念したように応えた。『饅頭もだめだな、だから文旦をもって来たよ。俺の自家製だぜ』と見舞いと一緒に渡した。YAMAちゃんは、酒と甘いものの両刀だからな。糖尿病も嵩じると云うものだ。オイラにも責任の一端があるかも・・・・。饅頭や干し柿など随分食わせたし、挙句に酒も(控えろよと言いながらも)結構飲んだからな。
そんな処へ、奥さんと娘、孫娘らしき三人が現れた。頃合いと、辞去した。
JR川崎駅から京浜東北線で目黒駅へと向かう。目黒に着いたのは五時、打ち合わせまで一時間もある。旧知の役員が、タバコ吸いに喫煙ルームへと下りてきたのに出合い、一緒に一服。そして、後輩のTAKAHASHI君に連絡を入れ、コーヒーに付き合わす。
六時前にうちのスタッフも集合。既にスタートした某省庁の案件について、協力会社のメンバーとの顔合わせ、分担業務の確認などをする。これが一社づつで、二社との打ち合わせであった。終わったのは八時半を廻っていた。そこから、橋渡しをしてくれたO氏からのレクチャーを受けた後、うちのスタッフ二名とで、喉を潤しながらの意見交換&ヒヤリングとなった。
権之助坂を途中まで下った処に、美味い焼き鳥を喰わす店がある。そこへと誘って、生ビールとハイボールをやりながらの長談義。私とO氏の付き合いの始まりや、一緒にタイでゴルフやクワイ川の鉄橋歩いたこと、仕事の話とつづくうちに、二十三時になっていた。
久々に現場仕事の話に加わり長居をした。TAKAHASHI君と某監査役が飲んでいる品川の店「たあた」に顔を出すことが出来なかった。が、致し方あるまい。かくして、弥生三月、桜も準備を整えつつある一夜が更けた。
帰京して三夜、毎夜、何処にいようと帰宅は二十三時半。これが定着しつつあるか・・・・。
― お弁当は一つ ―
起床は六時半、今朝は妙に寝不足感が旺盛。旺盛って言葉、こんな時に使うんか?脳が酸欠のような感じだ・・・。
今日の弁当は、家人用の一つだけだ。些か物足りないが、こればっかは仕方がない。酸欠の脳味噌でメニューを考える、が名案は浮かばない・・・・・。
取り敢えず、鍋で飯を炊く。それから、大根・人参・蒟蒻の旨煮を。次いで、タマネギ・シメジと豚小間の炒め物、メカジキの塩焼き、シラスの卵とじ焼き、板蒲鉾となった。
今日も手間をかけない弁当が一つ。これにて完成。