オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

しじみご飯

2016-02-10 | Weblog

2/10(水) 今朝の弁当は「しじみご飯」にした。蜆といっても、生のしじみじゃない。昨年の秋、「十三湖高原道の駅」で買った干し蜆が残っていた。これを使いきるための蜆ご飯なんだよ。最近変わり種のご飯を作ってないというのも一つの理由だが。

人参と油揚げを刻み、蜆を入れてコンブを一切れ、塩・酒を少々で炊いた。後は炊き上がるのを待つだけ。この間に鮭を一切れ焼き、炒め物のズッキーニとピーマン・シメジにウインナーを油いためする。

                            

煮物の方は、「鶏肉と大根・人参・薄揚げ」、出汁・味醂に中華スープの素を加えた味付にする。最後は、卵を三個溶いて卵焼きだ。以上で菜の方は完成したが、肝心の蜆ご飯が未だ炊き上ってなかった。暫し待つ!

                             

 

昨晩も七時過ぎに出撃した。何時もの「ローカーボ」でロック&ハイボールからスタートし、「うまし」で燗酒。最後の店「ちょっぷく」で安ワインを飲んで切り上げた。それまで一緒だったマッチャンと佐賀の大将は、もう一軒と闇の彼方に溶けて行った。謹厳実直な小生は、明日の仕事に差し支えると帰宅したが、零時の帰還であった。

                              

                            ちょいと、顔が判りづらいのがいい!

金曜日から佐賀へ、私が帰属するNPO団体「地球市民の会」の全国ネットワークの会なんだが、何人集まるのかな?。創立者の故・古賀武夫の墓参を済ませてから、会議場となる佐賀市大和町と云う処で二日間に渡って意見交換等のスケジュールが組まれている。昨晩、佐賀の大将にそんな話をすると「私の家の近くですよ」とのことだった。

佐賀の会が終わると、福岡空港から高知空港に向かう予定だ。月例の帰郷、母親のご機嫌伺いだ。今の時期、草刈がないので楽だが、剪定がまだ残っている。焼芋でもやりながら、のんびりと過ごせればいいのだが・・・・。帰京は、水曜日の夕方の予定。いってきます!

 

 

 

 

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モナリザ会

2016-02-09 | Weblog

2/9(火) 昨夜、銀座にあるクラシックなカフェ「モナリザ」で、モナリザ会なる集いがあった。この会へは、二度目の参加。会の呼び掛け人は、中央区で区議として長年の実績があったTAKAHASHIさんである。氏は、昨春の区長選に出馬したが、残念ながら涙を飲んだ。会の参加者は、氏の支持者や知人・友人であろう。

集ったのは30人弱と思われるが、モナリザの地下のテーブルが参加者で一杯になった。一人づつ近況を披露した後は、軽食を摘みながらビール・ワイン・焼酎と、飲みものを手にテーブルを移動して挨拶や、自己紹介で盛り上がった。二時間ほどの会であったが、意義のある時間を過ごした気がする。

九時ごろにお開きとなり、そのまま日比谷線に乗って帰ればいいものを・・・・。昼間のマッチャンとのFBでのやり取りを思いだした。彼は、日曜日の一日断食が明けて、今夜は前日の分まで取り返す所業だと。『今夜は銀座だ』と、返信をしたが、未だ飲み足りない気分であった。銀座の店に、一人飲みに行くのも味気ない・・・。

結局、ホームグランドの人形町に戻ることにした。幸いにもマッチャンは、「ローカーボ」で佐賀の御大やミヤケッチなどの常連と気焔を上げているとのことだ・・・・。向かう途中で、松山に居るはずのKATUTA君に電話を入れると・・・・。

電話に出たカッちゃんに、『おーい、元気か?なにしてんだ 』と訊く。と、「元気、元気、今は家でテレビ見てますよ」の返事だ。話を聞くと、三月の予定を早めて、一月末で退職し、自宅のある久万高原町に戻っているとのことであった。手術後の経過も良いとのこと、なによりだ。

久万高原は、松山市内まで車で一時間ほどの、高知県との県境に近い山の中に開けた町だ。彼は自宅を、この町の山懐に建てている。松山の一人暮らしから、奥さんが待つ久万の実家に戻ったのだ。数年前に訪れたことがる、彼の自宅や周りの風景が浮かんだ。自宅の隣に、広い畑も購入していたが・・・、百姓やるのかな? 猪や鹿がひっきりなしに出没しそうだが・・・。

そう遠くないうちに、彼の顔を見に行かなくちゃ。我が後輩であり、同志。帰省の折にでも我が愛車をすっ飛ばして行く手ももある。運転には自信が・・・・・ないが。

 

「ローカーボ」は、常連メンバーがカウンターに陣取って賑わっていた。マスターは心なし、パワー不足気味?エネルギー切れの様子だったが。

                           

 

ひとしきり騒いだ後、マッチャンと「セイジュ」へ向かうことになった。暇にしているようなら、婆さんママの(酷い言い方だ。この発言は取り消し)顔を見て、一曲唄っていくことに。客の姿なし、最近HOYA兄いも顔を出してないとかで、店内の空中には閑古鳥が数羽舞っていた・・・。オイラたちのボランティアで、今夜の電気代と電車賃ぐらいは賄えたか? 。

歌の方は当然「夜明けのブルース」だろう、”ここは松山二番町の店・・・・” と。カッちゃんが、松山を離れたのは淋しい、マイクの取り合いができず。久万高原の田舎町に、スナック在るかな?。我が、安田町にはないぜ、自慢じゃねえが!

マッチャンと二人遊びをしている内に、23時になった。引き上げ時だ、と店を後にする。途中の「ちょっぷく」で一杯飲むつもりが・・・、なんと店の灯りは消え、ドアは固く閉まったまま。オイラは帰ることにした。次の店、「おたぬきさん」に向かうマッチャンに手をふって、メトロの階段を下りた。零時に十分前の帰宅であった。

 

今朝も第一回目の目覚めは五時半、それから一時間程蒲団の中で愚図愚図と過ごし、六時半の起床。昨日の朝と同じ時間帯である。今日のメニューは「牛煮」がメイン。牛小間に、タマネギ・ネギとシメジが入る。干し椎茸を戻しておけば良かったと、後の祭りだ。

                          

卵料理は、ジャガイモの千切りと刻みシメジが入る「オムレツ」にした。魚は「秋刀魚の丸干し」、野菜は「小松菜と油揚げの胡麻炒め」である。以上で、今朝は二人分の弁当だ。

                        

                             河津桜が三輪に・・・

長女の弁当は「牛丼風」に、家人は丼弁当を嫌がるので、焼秋刀魚が防波堤のように横たわった。

 

 

 

 

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夜明けのブルース

2016-02-08 | Weblog

2/8(月) 今朝の目覚めは五時半だったが、起床は六時半になっていた。目覚め前まで見ていた夢を反芻しつつ、弁当メニューも考えると云う、聖徳太子さながらの時間の中にいた。所詮は、覚醒しない現の中でのことだが・・・・。

昨夜の残りご飯があり、菜も「唐揚げ」が残っている。それに今日の弁当は、家人独りの分でいいのだ。それやこれを勘案すると、作る菜の品数も知れよう。

台所に入って取り掛かったのは、先ず湯を湧かすこと。生パスタとゆで卵、シメジなども茹でてパスタサラダを作ることにした。次いで、里芋を剥き下茹でする。これを油揚げと小松菜の煮物に。魚は、「焼きタラコ」とシンプルだ。卵焼きは、ネギ入りの「出汁巻」とした。

                   

以上で完成、一人分のやっけ仕事が終わった。

 

で、今日のテーマにしている「夜明けのブルース」だが、これは五木ひろしが唄う演歌のことである。この歌を、最近テーマソングのようにしているのが「ちょっぷく」のYAMAちゃん店長。客が引けた後の店で、マイクを握っている姿は愛嬌と云えよう(尤も、オイラが早くやれよと、催促するrが)。

テーマソングは、ついこの前までは「故郷の話をしよう」「江連子のおんな」だったが、この頃は「夜明けのブルース」が専らなのだ。その成果ありで、上手くなってきた。土曜日、ランチタイムが終わり、翌週の仕込みも片付いた頃合い。四時半に会社を出て、一時半まで居た「ちょっぷく」に舞い戻った。

既に助っ人隊のミムラッチとスーさんを交えてご苦労様の一杯が始まっていた。とはいっても、YAMちゃんはアルコールご法度の身になっており、ノンアルコールビール一本槍だが。オイラも遅ればせながらの参戦で、先ずは生ビールからスタートした。

今日の競馬は皆、外しぱなっしだったようだ。明日の東京新聞杯ときさらぎ賞を話題に、ハイボールから燗酒へと進む。流していたBGMを歌に替えて、演歌タイムが始まる。観客が居ないのが淋しいが・・・・。

YAMAちゃんの独壇場がつづいた、はまっている「夜明けのブルース」の熱唱?。当人曰く、「感情を込めて・・・」だとか、煩いのだ。- ここは松山 二番町の店 渋い男の夜明けのブル~ス ―。これが最後のフレーズだ。

                                  

                    夜明けのブルース、いきます!       感情タップリニ!

YAMAちゃんは脳梗塞と脳溢血をやり、お酒は御法度。仕事は、日曜日以外は朝から終電間際まで、週の半分は店に泊まる暮らしだからな。歌でも唄って、気分を晴したいのは判らんでもない・・・。ここは黙って、聴いてやろう。

こんなバカなことを書いていて、松山に居る後輩のKATUTA君のことが過った・・・。『三月に仕事を辞めると言ってたが、元気かな?』後で電話してみよう・・・。いつの日か松山で、二番町で「夜明けのブルース」を唄う機会があるかも?オイラもこの歌を練習しておくか・・・・。でもKATUTAがマイク離さないかも?。

 

 

 

 

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役立たずの助っ人

2016-02-06 | Weblog

2/6(土) 今日は、「ちょっぷく」でランチタイムに手伝いをしてきた。が、他にも助っ人のベテラン、ミムラッチとスーさんが駆け付けた。加えて、ベトナム人のアルバイト君も出勤した。

十時に浜町公園内の中央区総合体育館で、バーベキューコナーの申し込に「ローカーボ」のマスターとした。日にちを一日間違って、五月六日でとった。連休の合間の金曜日だが、いいじゃないかと決行することにした。その予約後、「ちょっぷく」に向かった。

「ちょっぷく」のランチタイムは、四人もいれば十分に切り盛りできるそうだが、今日は店長を含めて五人体制となった。と云うことは、私が居ても足手まといになるぐらいだ。開店前にテーブルや椅子を雑巾がけし、テーブルの調味料を足して廻ったが、後は暇をしていた。店長が生ビール注いでくれたので、オデンを摘みに飲みながら遊んでいた。

                       

なにしに行ったのか?の状態で、二時間ほど時間を潰したのであった。そんなことで、一旦会社に出た。また夕方に顔をだして、競馬予想で遊びながら飲むことになろう。明日の日曜日、先輩からの依頼で「地球市民の会と、故・古賀武夫」について話をすることになっている。そんなことで、平和島でのボート遊びはお休み。残念なことだが、浮世の義理には勝てない・・・・。

昨夜は七時過ぎに「ちょっぷく」で、親戚のABE君と一杯始めた。退社前に久方ぶりに電話を貰ったので『人形町までおいでよ』と誘った。仕事のことで悩みがあるようだが、オイラに相談しても知恵などあるはずがない。精々『気合だ!気合だ!』と云うぐらいのことだが、話を聞くことぐらいはできる。今日のお手伝いの確認もあり、先ずは「ちょっぷく」で、とした。暫くすると、店が込み合って煩くなったので「ローカーボ」へと移動。

                            

皆さん悩みながら大きくなった。悩みがあるから成長するとも言えよう。大いに悩めばいい、考えればいいのさ。なんの手助けも出来ないが、話を聞いてやることだけは出来る。門戸は何時でも開いている、吐き出しに来い。吐き出せば肩の荷が少しは軽くなろう。

「ローカーボ」で、マスターと今日十時のバーべーキュー会場の申し込に行くことを確認。一昨夜のビデオ映画のつづきを見ながらABE君の話を聞き、ハイボール、最後はジンビームのロックで切り上げた。が、最後に独り「ちょっぷく」に舞い戻り、演歌酒場になったところで終電の時間となった。

                            

かくもまあ、夜毎に同じようなことを繰り返す、バカなオヤジである。されど、これがストレスを溜めない秘訣とも云えよう・・・・・。

 

 

 

 

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揚げ物

2016-02-05 | Weblog

2/5(金) 今日のメニューは揚げ物となった。メニュー選定に困ったときの「揚げ物頼み」と云うやつだ。毎朝同じような食材しか出てこない、料理のレパートリーが限られているので、出来上がる品も知れている。そんな中で蓮根の挟み揚げ」「掻揚げ」が今朝のメニュー。レンコン挟み揚げと掻揚げの他に、豚バラを揚げたものを青紫蘇ドレッシングで味付けした。

                            

他には、「卵焼き」と「ホウレンソウのお浸し」で打ち止め。それと云うのも、掻揚げがメニューに加わると小さな弁当のスペースを喰いすぎるのだ。喰われる側の掻揚げが、喰ってしまっちゃ洒落にならねえ!

                           

今朝の7時41分だかに、突き上げるような地震があった。一瞬驚きましたよ。と云うのも、長女の弁当を先に詰め終え、残った掻揚げの最後を揚げながら、レタスを茹でていたのだ。大急ぎでガスの火を止めたのは云うまでもないが、その後も暫しガスの使用を控えて様子見となった。電車が遅れたのは云うまでもないか・・・。

                          

 

 ―地震と手相ー

地震と云えば、昨日パシヒィコ横浜で始まった「震災対策技術展」に行った。取引のある某社が出展しており、配布用のパンフレットや映像を納品したので、ご挨拶かたがたスタッフに同行した。その展示会で、起震車でデモをしていた「関東大震災」の時の揺れを暫く見入った。車の中で揺れている人の様を見ながら、今度大きな震災が来ると、どんな揺れ具合だろうかと。それが、早速に今朝の地震だ。大したことはなかったが、昨日の今日。予知能力が高いのかな?

その震災展を視察後。中華街に「水餃子」で人気の店があると、スタッフが予約を入れていた。四人でその店に向かった。昼と夜は食事を抜く週間に入っていたが、前夜の「隠岐牛」につづき中華ランチになるとは。世の中は皮肉なものだ。老いては子に従え、オヤジはスタッフに従えだ。オヤジは黙って、水餃子。ついでに、ビールと紹興酒だ!

                                

中華街をぶらつくうち、食後の煙草を吸いたくなった。通りのビルの前に小さなテーブルが出ており、そこに灰皿があるのを発見。建物内を見ると、手相見が集団で入っている店先だった。一服点けて紫煙を楽しんでいると、案の定だ。「手相はいかがですか?」と水を向けられた。一宿一飯ならぬ、一服一吸いの恩義だ。大枚千円を払って五分程両手を広げた・・・・。

手相見が佳境に入ると、これからは追加料金ときた。そんなもんだとは承知の助、これで結構だと、ご辞退を申し上げた。佳境に華僑、流石は中華街であった。手相見は、私の人生をなぞるようなことを言った。私は分かり易い男なのだ、きっと!

手相見と云えば、二年前になるか、函館で風が吹き抜ける人通りも疎らな街角、呼び止められてこれも一興かと千円を奮発した。あの時は、ライターのHASHIMOTO氏と一緒だった。酒が入ると、こんな戯れ事にふっと気が緩むのは生来の間抜け由か・・・。

 -九十六歳-

今日、二月五日は大伯父の誕生日。九十六歳を迎えた。半年ほど老人ホームに足が向いていなかったが、今日の昼、小さなショートケーキとノンアルコール・ビールを持ってお祝いに行った。年相応に弱ってはいたが、それなりに元気と云えようか。耳と目はすっかり弱っているが、私のことは判った。

施設のスタッフに様子を訊くと「それなりに元気です」とのこと。この施設の、男性最高齢だそうだ。「何処に住んでるんだ?仕事はしているのか?」など、同じことを三度づつ訊かれ、三度づつ応えた。別れ際に「生きているのか、死んでいるのか、分からんような気がするよ」と言った。

長生きしたらしたで、生き仏のように枯れて行けるといいのだが、生身を背負ったままで生きていくのはしんどいだろうな。大伯父の心境や如何に・・・・。何はさておき、長生きをしてほしいのだが・・・・。

 

 

 

 

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隠岐牛

2016-02-04 | Weblog

2/4(木) 今週から昼と夜のご飯は食べないでいようと思い、月・火と計画どおりに進んだ。心なしお腹の辺りが軽くなったように感じていた。処が、昨日の水曜日、スタッフで節分が誕生日だったRIE嬢と来週に誕生日を迎えるNOBORUの誕生祝をやることにした。

なにを食べたいのかと聞いても、遠慮してか応えぬ。そこで、肉料理にした。マッチャンから教えられていた「隠岐牛」を看板にしている店に行ってみることにした。隠岐ノ島へは数年前に取材で訪れた。その折に、隠岐牛の牧場を目にしたし牛肉も食した。そんなこともあって、一度行ってみたいと思っていた店だった。

スタッフの誕生祝と云うとっておきの理由もあり、会社からもほど近いその店を初めて入った。ご夫妻で切り盛りする、席が四卓ほどの小さな店だったが、フレンドリーで居心地は良かった。話を聞くと、フロアーを切り盛りする奥様が隠岐の島後の出身だと云う。島前の海士町で隠岐牛を飼育しているのは同級生だとか。

暫し、隠岐の話を聞き、訪れた折に見た海士町の海辺、小泉八雲「鏡湾」と呼んだおだやかな湾の海面が甦った。

                  

焼肉をオーダーしたが、牛の方は柔らで美味しかった。値段相応の肉の口当たり舌触りだが、私的な嗜好からすると、もう少し旨味と噛み応えのある方が好みだ。同伴した二人は、喜んでくれたようだ。焼肉の後、「ローカーボ」で、暫し会話とウイスキーを愉しんだ。駅に向かうすがら、「ちょっぷく」の灯りは既に消えており、帰宅すると24時であった。

                           

 

今朝の弁当は、「ロールキャベツ&白菜の豚肉挟み煮」「茄子の豚味噌炒め」「ホウレンソウの卵炒め」であった。タラコと鯖文化干しを、気持ちばかりに添えた。

               

 

 森のイスキアを主催する「佐藤初女」さんが2月1日、逝去されと知った。この日はいつか来るだろうと思いはしていたが・・・・。敢えて”初女”さんと呼ばしてもらうが、たおやかな話しぶりと穏やかな表情が印象的であった。初めてお会いしてから二十年以上となる、その頃にお会いした初女さんと、三年ほど前にお会いした初女さんは、その姿には二十年の年月の流れが窺えたが、たおやかな話ぶりとお貌は更に慈しみに溢れていた。

初めて伺ったのは弘前・桔梗野の自宅であった。その後、岩木山の麓にある「森のイスキヤ」を何度か訪ね、東京での講演などの折に挨拶をせてもらった。仕事が殆どだったが、何度も会う、挨拶に伺うと云うのは「あの人のもっていた優しさ、たおやかさ」だったのか。何度でもお会いしたい方だった。

天国に召される、その言葉にピッタリの生きかたをされた方だ。6日に行われるという告別式に参列したい処だが、土曜日は動かせない予定がある。合掌・アーメン。

 

 

 

 

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節分

2016-02-03 | Weblog

2/3(水) 今日は節分だとか・・・。会社のY嬢の誕生日だと云うことをFBで知った。そして、我が両親の結婚記念日であったのを思いだした。昨日、YOSHIOとランチ&コーヒータイムで、バカ話をしながら「節分」のことに触れたのも思いだした。

『明日は節分だけど、俺のオヤジとオフクロの結婚記念日なんだよ。その結果、俺は12月に生まれたんだが・・・。実は予定日は一月の下旬だったとか。当時、教師をしていた母が、机の角に腹をぶつけてそれで早産だったそうだ』と、ここまでの話は面白くもないが、本番はこれから・・・。

『早産だったために、俺の脳味噌が成長しないうちに世の中に出ちまったんだよ。本当なら、予定日まで腹の中で育っていれば”頭脳明晰・眉目秀麗”だったんだがな・・・。早産のお蔭でこのざまだぜ!』と、節分と出生にまつわる秘話を開陳し、大笑いだった。

まあ、その親の片方は高い処に上っていき。もう片方は、田舎で幼児帰りをしていると云う次第。とは言ってはみたものの、こっちも夜な夜なのアルコールで弱い頭を更に劣化させ、幼稚なことし、言ってばかりだ。早産の所為だけじゃないな・・・・・。

昨夕、学友というよりは悪友と呼ぶべき、TAKAHASHIが人形町に寄ってくれた。三・四年ぶりの再会だった。彼は、求人広告の会社をやっていたが、インタ―ネット広告が主流となり、先行きが見えないと会社を畳んだ。老兵は消え去るのみか・・・・。そして自宅に引っ込み孫の子守が専らとなったそうだ。

年末、『偶には顔を出せよ』と連絡をしてあった。昨日、賃貸に出しているマンションの理事会があり隠遁住いから出てきたのである。お店のリクエストも、食べるもののリクエストもないと云う。では、と安酒場へと直行した。行先は勿論、貧乏オヤジの味方「ちょっぷく」である。珍しく燗酒を飲みながら、その後のこと、彼の郷里、大分県宇佐のことや家族のことを聞いたのであった。

『あったかくなったら、沼津へ行こうか。思い切って行かないと行けなくなるぜ』そんなことを話した。沼津近辺には、御学友だったTANZAWA、ENDOU、TKASHIMA、MIWAなどが居る。何十年も会ってないが、懐かしいメンバーなのだ。これまでも、沼津行こうと云う話は何度もあったが実現していない。あの連中がどんなジジイになっているのかを見るのもいいだろう。お互い顔を見合わせて、大笑いすることになろうが・・・・。

半蔵門線の駅の方にNAOKI・Tを見送り、夕方に先約をしていたマッチャンに電話を入れた。マッチャンから競売関係の資料を渡すと連絡を貰い、落ち合う予定をしていたが、NAOKIから連絡があったのでキャンセルをさせて貰ったのだ。「高島家」で鰻を食べている最中だった。贅沢の極みじゃないか

で、「ローカーボ」でHOYA兄いを交えて合流することになった。独り先駆してローカーボのカウンターに腰を落ち着けた次第。尾骶骨骨折のNAKAMURA兄さんは、今夜は自粛のようで姿が無かった。流石の葉隠武士も、階段落ちの疼痛には参っているようだ。

                           

                      この時点では酔ってない、未だ燗酒二合だから。

結局、ローカーボから「ちょっぷく」へと流れ、何時ものパターンとなった。オイラの場合いは出戻りだ。今度ははワイン、安いワインのがぶ飲み。こんな状態になるのは、酔っている証拠だが。更に悪いことに、我が取引先の金融会社の社員が、それも前の担当者が三人連れで現れた。「今晩は、ご無沙汰をしまして」と言われても、こっちは単なる酔っぱらいオヤジだ。『四の五の言ってないで、飲めよ』と、ワインをボトルごと貰って勧めた。

酔ってなければ紳士、酒が入り過ぎるとグダグダの説教オヤジだ。連中も閉口したろうが、こっちも酔ってしまった。許せよ我を・・・と云う処。帰宅は23時30分と、日記に書いてあった(酔って帰って日記を記すとは・・・大したもんだ)。五百円玉もしっかり、貯金BOXに投入したはず。

 

「六時半だよ」と、家人に声を掛けられて目覚めた。不覚にも夢の内容も覚えていないのだ。それでも先ずは「弁当」だ。電気釜に米を仕掛け、菜の準備に入ったのが6時50分。長女が立ち寄るギリギリの時間だ。幸いにも、今日のメニューを決めておいたので迷いなし。酔っ払って帰っても、翌朝のメニューを考え、それを覚えているとは・・・21世紀の奇跡だな。聖人に列せられるかも・・・・・。

で、今日は「ピーマンの肉詰め&ハンバーグ」「ポテトサラダ」「小松菜の胡麻和え」「鮭一切れ」「挽肉とスクランブルエッグの二色丼風仕上げ」と、想定どおりのメニューをこなした。

                  

途中経過を見るとあまりきれいじゃないが、お味の方はまあまあかな?。

                           

 

 

 

 

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トンカツ&牛カツ

2016-02-02 | Weblog

2/2(火) 昨日の寒さとうってかわり、今日はおだやかな天候となった。それにも関らず、エヤコンの温度を27°に設定したまま眠り朝を迎えていた。これじゃ喉も傷めよう・・・。

昨夜は七時半に「ローカーボ」を覘き、ハイボールを二杯だけ。常連のマッチャン、NAKAMURAさん、KATOちゃんが仲良く並んで盛り上がっていた?。と云うのも、話題はNAKAMURAさんの階段落ち、尾骶骨骨折だった。NKAさんは、金曜日だかの深夜に酔っ払って階段から転がり落ちたそうだ。

二日も痛いのを我慢し、この日に病院に行くと「尾骶骨」が折れてますとの診断だったとか。それでも酒が飲める程度だから、不幸中の幸いと云えるかも。流石のNAKAさんも、この夜の引き上げは早かった。私も二杯で切り上げ、「ちょっぷく」に顔をだした。

暫くは飯も酒も控えめに、押さえて暮らそうと、朝の通勤電車の中で決意したのだ。所詮私の決意なんぞは、タンポポの種子よりもガチョウの和毛よりも軽いに決まっているが。それでも、決意の初日だ。夜は喰い物を口にしないように、アルコールも五杯以内に止めるのだ・・・・。

「ちょっぷく」は、すでにひと盛りが過ぎたとかで平穏。この寒さじゃ、遅くまで飲む客は少ないと云う。YAMAちゃん店長が「チーフのヨっちゃんがお休みするので、土曜日の人手が足りないんだよ。手伝いに来てよ」と言う。

『俺なんかがいても役に立たんぜ。ミムラッチが手伝うだろうから間に合うだろう? 』と言ったが、それだけでは手が足りないようだ。いろいろ手当はするだろうから、その結果次第だが。役立たずのOYAJIも助っ人に刈りだされるかもしれん。となれば、土曜日「ちょっぷく」にランチ食べに来いよ!

固い決意、誓いの初日は、切り上げが早かった。学芸大学駅に着いたのは22時25分。改札前の東急ストアで、弁当用の菜「トンカツ&牛ステーキ」を一枚づづ買ってから帰宅した。小雨がパラつき寒かった・・・。

で、今朝の弁当作りは6時30分からである。昨夜方針決定を下したとおり「牛カツ&トンカツ」と「牛ステーキ」がメインである。牛と言っても、アメリカンビーフの安物だから、旨いとは思えない。其処で、半分だけ牛カツにしたと云う訳だ。

ピーマンの肉詰めも作る気でいたが、どうも弁当に収まりきらん。と、断念する。代わりに「キャベツ&胡瓜の浅漬け」が急遽登場となった。この他の野菜と云えば、フライパンで焼いたズッキーニと、素揚げしたスナップエンドウだけだ。

                         

焼き物は、シンプルに「塩秋刀魚の丸干し」「タラコ焼き」、以上。定番の「卵焼き」(これも畑の焼芋と同様に、上手になったようだ)。以上が今日のラインナップ。

                             

弁当を見た長女が、「うわ~超美味そう!」と言いやがった。こいつはノー天気だけに、人をノセルのが妙に上手いときがある。善い性格、幸せな性格といえば言える。オイラの方は、褒めるのもノセルのも出来ない、真っ正直に歪んだ性格だからネ!(これって、どういう性格?)

 

年が明けて一月が経過した。年末に積み残した何人かに会うつもりだが、未だアポイントもとっていない。面倒なのか、腰が引けているのか・・・・。そんな中で、一つだけ予定が決まったものがある。「前島七郎先生」の、自伝出版祝いの日程である。スケジュール調整を頼んだ斉藤光顕君が手際よく動いてくれた結果である。

大正14年生まれの前島先生は、九十歳になられた。「我が剣道人生 ~90歳 感謝を込めて~」と云う自伝を、昨年出版された。その数年前に、この本のベースと思える自伝を、ワープロ書きで手作りされている。先生が郷里の岩手県・水沢を後にして上京されたのは小学六年生。長姉の嫁ぎ先へ養子として入るためだ。

それからの先生の人生が、電電公社時代の仕事、剣道とその思いが、九十年の軌跡が記された自伝。その中には私が伺い知れなかったこと、拝読して初めて『そうだったのか』と、得心することが多々であった。因みに、私が先生を知ったのは四十年余前である。勿論、剣道を通じてであったが。そのご縁で、仕事の上でも色んな局面でご指導を頂いた。

墨田体育館の道場で稽古を終えた後。当時、江東区千石に在った先生の自宅に押しかけて、奥様の手を煩わせたことも何度か。大手町の郵政局の道場で、昼休みのひと時に一緒に稽古をしたのも、四十年も前のこととなった。先生は一貫して、剣道を愛し、部員を気遣って下さった。古参のOBとなった今は、そのことを伝えていく義務が、私や斉藤君には課せられている。

ここ数年、剣道関係から足を遠ざけていたので、先生の自伝出版のことを知らなかった。昨年末に、某社の剣道部忘年会で斉藤君から自伝のことを聞き、本の入手と「出版祝い」のことを相談した。快諾を貰い、この度、日程が決まった次第だ。

斉藤君にお願いしたのは、ご高齢になられた先生のこと由、なるべくご自宅に近い会場と、早い時間のスタートである。

 

然し、未だ数件のアポ取りと訪問計画に向けて動こうとしない私がいる。腰の重さよ、頭の軽さ・・・・・。

 

 

 

 

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河津桜

2016-02-01 | Weblog

2/1(月) 玄関先の大きめの木鉢に「河津桜」が一本植わっている。十余年前になるか、河津桜が満開の時期にHIROさんとHANAOKA女史の三人で、川沿いの並木を歩いた。その帰り、河津駅の手前に店を出していた植木屋で小さな一本を贖った。それを鉢に植え、二度ほど鉢を大きくしたが、樹の成長は2メートル足らずで止まった。この樹に花が咲いた。未だ一輪だけだが、これまでより一月ほど早い開花である。

                           

前夜、湯ヶ島のしけた民宿に漸う泊まることができた。翌朝、天城峠からループ橋を下るバスで湯ヶ野へ。湯ケ野温泉の七滝を巡ってから河津川の両岸に咲く桜並木へと向かった。河津に着くと、小雨が雪に変わった。それも情緒よく舞うような雪でなく、簾のような雪が一時つづいた。茶店で雪宿りをし、桜並木を河口へと歩いた。メジロが花の蜜を追って、枝枝を縫うように行き交う姿が目に残っている。

それは、サラリーマンを辞める直前の連休のことでなかったか。二月か三月のことであろう。とすれば、河津桜が玄関先の鉢に植えられてから十五年となる。十五回目の花を咲かしたと云いたい処だが、未だ小さかった数年は花を点けなかった。花をつけ始めてからも、花の咲きはじめるのは二月下旬だった。今年は半月も前から蕾が膨らみ、一月の末には一輪と云えども花を開いたのだ。樹の成長の所為なのか、気候の所為か…。

この小さな河津桜が咲くと、あの早春の日のことを。あの時代の一つひとつのシーンを思いださせる。作家であれば、そのシーンの一つひとつを描き出すであろうが、幸せなことに私は作家ではない。しかしながら、この花が咲くとあの時代のことに触れたいのだ。ほんの少しでも・・・・・。

 

今日は、長女は仕事が休みだとか。弁当は、家人用の一つで足りる。六時前に目覚め、台所に入ったのは六時三十分。今日のメニューは「鶏肉と根菜の煮物」、根菜は大根と人参である。これが、メインメニューと云えようか。

                              

サイドメニューは「茄子と豚肉の味噌炒め」、焼き物は「鯖文化干し・紅鮭のカマ・鯛刺しのオリーブ焼き」である。鯛は前夜の残り刺身である。焼き魚系は多すぎだね。小松菜のお浸しと、スクランブル風の卵焼きである。

                         

弁当の必要数は一つだからね。菜は余る、残る。それを食す、朝から飯を喰らうと云う次第で、三段論法ならぬ、三段腹手法となるのだ。

 

土曜日の午前は雨だった。その雨をものともせず、築地に参じたのはKISHIMOTO大兄である。築地場内市場への初お目文字。その介添え役と云えば大仰だが、案内役を務めることに相成ったのだ。

商売人の邪魔にならぬように遅め、場内の店仕舞い頃に入った。半回り程市場を案内し、何時もの「原秀」で鯛・イカ・柳カレイを、「北田」でイクラ・タラコに鮭の切り身を買った。店先で見切り売りをしていたマグロのブツもついでにゲット。貧乏人の性で、ついつい買ってしまうのだ。

そして「愛養」でコーヒーを飲み(いつもほど旨く感じなかった?)、十時過ぎに開く「緑明軒」でフライを肴にビール。波除神社側の裏門から出て、場外の卵焼き専門店「松露」にて卵焼きを買っての帰宅。これで、今夜は「手巻き寿司」の夕食となった。

鯛もイカも、柳カレイも全て美味かった。タイのウロコ取りと骨を切るのには一苦労したが、潮汁も上々の味に仕上がった。新鮮なものは美味いね!

                               

昼前、引き上げる頃には雨は上っていた。この日の夕食には、長女&次女一家まで勢揃いしてにぎやかな晩飯会となった。誰が連絡したんだ?

 

 

 

 

 

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