マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

世田谷・震災とガンタ積みの壁

2023-12-18 | 街歩き・歴史散歩
前回は戦争中に使われた民間用の防火水槽をいくつか周りで探してみましたが、それより昔の災害痕が、町の一風景として残っているはなしを、今回してみたいとおもいます。


下北沢の町はずれで見つけたレンガ造りのこちらの擁壁。


レンガばかりかいろんな石も入っているらしく、見ればみるほどなかなか面白い顔の壁なんですよ。。👀

広く整然とした住宅地に、ここだけ時間が止まったままのような雰囲気を感じて、立ち止まって見ていると、偶然に近所の方から、お祖父さんのはなしとして、この壁は大正時代の大震災で崩壊した近くの工場のレンガ材を使った擁壁の一部分だと教えてもらいました。
震災後に裏の山を切り崩して住宅地にした際、このレンガの擁壁はずっと上にまで続いていたのだとも。

山」だったという言葉が印象的でしたが、以前に書いたブログ記事のなかで2.26事件の栗原中尉一家が駒場で罹災したあとに移り住んだ松見坂一帯はそれまでただの「田んぼ」だったわけですよね。。

改めて、100年も前の震災をきっかけに、山や田んぼの広がるのどかな村の風情が人の移住で一気に都市化したことを窺い知るエピソードだな、と思いました。


で、こういう造りはガンタ積みと呼ばれているそうですが、このガンタ積みの壁は下北沢あたりにまだまだありそうな気がしたので、探してみるとやはりありましたっ❗️

こちらはアパートの外壁として今も現役のようですが、草に覆われたレンガの古さが建物と似合ってました。


よく見ると、コンクリートで固められたレンガの塊は完成したパズルのようで、陶器製の排水管がきちんと通っているところにも、壁としての本気度が感じられます。



また、レンガと大谷石が重なったこちらの壁は、狭い道筋の駐車場で発見しました。焼けたように黒ずんでいるのがなんだか印象的ですね。



池の上駅近くの住宅街の庭先には小さな壁がありました。
ここ、花の季節は隠れてしまって、なかなかわかりにくいのですが、、。


少し離れた松見坂近くのビルの外壁は、コケが生えていて、見るから盆栽のようになっているのが面白いですね❗️

…と、もう少し足を伸ばしてみると、まだまだありそうな古びたレンガの壁ですが、どれもが100年前の災害の瓦礫で造られたかどうかは不明ですが、この土地を歴史的にみた時間枠と地理的な根拠に加えて、そこに住む人の確かな証言からも、なんだかありえそうな気がしてきます。

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世田谷目黒・古い防火水槽を見つけてみる

2023-12-08 | 街歩き・歴史散歩


ここは世田谷代田の住宅地👀
お庭のなかに建っている昭和元年の古い鉄塔下に逆さで置かれたコンクリートの箱は、おそらくむかしの防火水槽でしょうか。。

で、こーいうモノはいつ頃出来たのかな、、🤔と、昭和16年に内閣府情報局が各家庭向けに発行した「家庭防空の手引」という冊子を読んでみました。

《一死奉公、団結を強くし退却を考えずに敵弾と戦えば被害は殆どないのです》

《爆弾は一度落ちたところに2度と落ちることは絶対ないため、勇敢に飛び出して防空に活動すること》

《空襲は受けるものだと覚悟を決めて、全国民が敵機の空襲を待ち構えてをれば、空襲の惨禍は未然に防止され、なんだこんなものかと軽微で済む

いやいや💦逃げずにひたすら気合いを入れれば、敵機の爆弾を防げるわけでも火は消えたりもしないからっ💦まずは逃げてくださいよっ❗️
改めて、これ👆政府が国民向けに出しているんですからねっ。

ウソみたいなホントの話とはこーいうことを言うんでしょうね。。。


また、手引き書では、各家庭の平時からの準備として、消火のために防火水槽、井戸、砂、土、ムシロなどを便利な場所に置くことや、燈火管制などを挙げています。

上の写真の陶管は、かつての陸軍の駒沢練兵場に隣接する池尻のお宅の軒先にあったもので、おそらく防火水槽かと思われますが、つい先日取り壊されて、いまはすっかり更地になっています。


また、池尻近くにかつてあった陸軍獣医学校並びのお宅には、正面玄関の植木と並んで古井戸が残っていました。
大きな道路に面したここなら、確かに消火に便利そうですね。


池尻から渋谷方向に上がった大橋の国道246号線沿いにも、防火水槽がポツリと残されています。


高速道路下の都会の喧騒のなかで、コンクリート造の古びた水槽はなかなかの存在感を放っていますね❗️

戦時中、三宿や三軒茶屋周辺の国道や沿線に沿った住宅や商店は、火災の延焼を防ぐために多くが取り壊されたそうですが、こういった建物疎開も、国の防火対策として、防火水槽や井戸での消火とともに、平然と行われていたようです。


昨日からの雨で溜まった水槽の水面には高層ビルが青く映っていました。。



また、松見坂交差点から少し下がった住宅の横にも、陶器ものとコンクリート製の防火水槽が仲良く並んでいたりします。

松見坂周辺もかつては三宿、池尻と並ぶ軍都の地。
だから、余計に町は戦争の災禍に遭っているんですね。。。


大橋とともにこの防火水槽も、過去の様々な惨禍を乗り越えて、いまは人知れず草木を育てる受け皿として生まれ変わっていました。。


そんなわけで、普段なら通り過ぎてしまう見慣れた場所も、目線次第でちょっとした宝物を発見したような気分になることがたまーにあるのです。

また、散歩や買い物ついでや仕事の合間に、新しいなにかが見つかるといいのですが。。


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世田谷・昭和元年の鉄塔のある町

2023-11-09 | 街歩き・歴史散歩
近ごろ仕事の事情で世田谷代田の町に行く機会が増えたのですが、そこでちょっと面白いなと思うのが、、



坂道だらけの町のあちらこちらに立っている鉄塔なのですっ☝️

調べてみるとこれらの鉄塔群は、通称を駒沢線というらしく、大田区洗足から杉並区和田堀の変電所を60番まで続いているのだとか。。


そして、これら鉄塔の完成年は昭和元年の12月。。。

実は昭和元年って、12月25日から始まったためにたった7日間しかなかったって知ってました❓
だから、そんな短いなかでおまけに歳の暮れにこんな大掛かりなものの竣工をぶっ込んでくるとは、なかなか気合いはいってるなー🤔と感心をしてしまったりも。。


そんなわけでこの鉄の物体は100年近くを雨嵐にも空襲にも負けずに代田の町に立っているようなのです。



また、61号鉄塔には地域の風景資産の札が付いていたりするのも、なんだかおもしろいな。。と。


三軒茶屋の高層ビルを見渡す高台の鉄塔下に、たまたま荻原朔太郎が住まいを作ったことで、どうやらこの鉄塔は名誉の勲章まで世田谷区からもらったようなものですよね🤔



じゃ、続く鉄塔にだって、なにか名誉なはなしがあったりして、、❓❓

とお次の62号鉄塔を見に行くと、なんだかそこは葉っぱに隠れてモジャモジャだったっ笑



どうやら、茂った木々のなかには小さなひとんちと大きな鉄塔が見事に渾然一体と化しているようです。

ま、さっきと違う意味でこれもこれで、すごいな、、と💧💧


じゃ、お次はいったい…❓と、ついついお次に続く63号鉄塔も見に行くと、こちらもヒトんちの庭のなかで柿の実とともに秋の風情を醸し出していましたっ笑❗️



鉄塔のしたの庭先には使われなくなったむかしの防火水槽が逆さまに置かれています👀
なんだか、100年鉄塔とあわせて見ていると、ここが都会だということをすっかり忘れてしまいそうな景色ですよね。。


そんなわけで、仕事まわりの途中にたった3つの鉄塔を順番に辿っただけなのに、やけに奥深いものを見たような気がしたある日の午後だったのでした。


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渋谷 帝国大学農学部と境界標石

2023-05-05 | 街歩き・歴史散歩
いつものようにちょっと足を伸ばしてぶらぶらとお散歩をしています。。🐌


ここは渋谷の雑踏を抜けて、真っ直ぐに伸びた一本道。
そして、普段からわりと歩き慣れた道❗️、、のはずが、今更ながら道の傍に面白そうな石を見つけてしまいました👀



文字や石の具合からも、これはなかなか古い境界標石だと気がつきました。

どうやら、「帝國大、、學?」と書いてあるみたいです👀
確かにこの先には駒場東大キャンパスがあるので、特に驚くほどの発見ではありませんが、、



現在、あたりは普通の住宅街なんですよねー。
ということは、一体、いつの頃にこの標石は設置されたのか?がちょっと気になり始めました。
ま、毎度の歴史散歩オタクがアタマを擡げたわけですなっ😆


まずは標石に刻まれている「帝国大学」の名称の変遷をちょびっと調べてみると、、
明治10年に設立された東京大学からはじまって、同19年に帝国大学に改称されたのち、明治30年京都にも帝大が出来ると東京の大学は東京帝国大学に再び改称されて、戦後の学制改革まで内外9つの帝大が創立されたとか。。

なんだか、ごちゃごちゃし過ぎて、この標石は一体いつの帝国大学のためのものか❓さっぱりですね😅



ひとまず、駒場にあった明治30年の東京帝国大学に改称したころの農科大学(旧農学部)敷地部分図を見てみます。

敷地の北側に沿った三田用水の下流側の橋を渡った先に、当時の通用門はあったようですが、実はこの橋は徳川幕府の鷹場だった頃に将軍が渡った御成橋なのです。
そこを当時は大学の通用口として、使っていたってわけなのね…🤔

しかし、肝心の標石は、御成橋よりもまだまだ南側の場所。。ってことは敷地がのちに拡張したのでしょうか。


少し時代を進めて、大正8年に農科大学が東京帝国大学農学部に改正された頃の敷地部分図を見てみることにします👀

明治の地図と比べてみると、Gateと書かれた旧御成橋から南側に敷地が拡張されて、立派なFront Gate、つまり大学正門が完成していますね❗️

以前の正門は、敷地の北西側で現在の東大裏あたりにあったのですが、確かにこちらのほうが渋谷駅から一直線で通えるわけですから遥かに便利ですよね。。



そして、現在の地図と同定してみると、、👀

今も三田用水路跡の際に残る帝国大学境界標石が、大正8年頃の土地拡張で作られた正門(紫の線)の位置と確かに一致しているのがわかりました。

この路傍の石が見た目からも御影石の摩耗と刻字の擦り減り具合からして、古いものだは思ってましたが、大正時代の貴重な標石だったとはっ。


改めて、正門のあった場所を正面から眺めてみます👀

ここにあった❗️と分かってしまえば、住宅地のなかの二股路が、なんだか不思議な雰囲気を醸し出しているような気がしてきませんか❓


また次はどんな面白い歴史のカケラが道に落ちてるかな、、楽しみかなっ😊



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青梅: 向井潤吉の描いた風景を探しに行く

2023-02-26 | 街歩き・歴史散歩

きっかけは先日出かけた世田谷美術館分館の向井潤吉アトリエ館で見た一枚の油絵。。


青梅の民家を描いた1976年制作の作品「爽緑の丘」。

展覧会チラシにもなっているわけですから、きっと有名な作品なんでしょうけど、ワタシの勝手なイメージでは向井潤吉って、真正面に捉えた古民家に青い空や高い山や印象的な木が一緒に描かれた作品が多い気がするんですよね。。

だからこそ、場所を特定する手がかりが周りに描かれることなく、深い緑だけにすっぽり囲まれている丘の先に傾きかけた、こちらの小さな茅葺きの家の景色は、逆に新鮮に映ったりするのかな…❓

チラシには青梅市栗平、、と場所名は書かれています👀
果たして47年前に描かれた景色が今も青梅の山奥に残っているんでしょうか。

そんなことを思ったら、なんだか探してみたくなってきました。


🐾

🐾


そんなわけで、青梅駅まで電車でやってきました。
なんだか、レトロな雰囲気が満載の駅でちょっとびっくり…🫢


青梅駅からは上成木行きの都バスに乗って、20分ほど先の赤仁田バス停で下車をします。

そのあとは、目の前に続く、こちらの栗平林道を入っていくわけです。
一応、事前に地理院地図で栗平集落の位置だけは確かめてきましたが、現在そこには数件ほどしか住民の方は住んでいないらしく、ちょっと心配ですね…💧

で、唯一場所の特定になりそうなヒントは展覧会のチラシのなかの作家の言葉👇

「勾配の強い森陰の道を登り切った狭い谷のはざまに四、五軒が散在して、物音一つしない静けさであった。その家と家の間の細い径を通り抜けたところに、こんな隠れ家のような家があった」

いまはこれだけが頼りなのです😓


薄暗い林道から途中外れて、栗平には急勾配の山道を進んでいきます。
しばらくすると道が開けて、作者が言うように数件の民家が見えてきました。

おそらくここが目指す栗平集落のようです。

意外にも周りでは山の竹を刈っていたり、手前の建物の庭では山作業をしている方がいらっしゃるんですねー。
そして、恐る恐る作業中の女性に展覧会のチラシの絵を見てもらいました。


「あー、〇〇さんのところにこの家、似てるわねー。あの家と家の間から上がった先に前は小さな茅葺きがあったわね。でもいまは取り壊されてないわよー」


と早速回答が返ってきました。



なんだか、、💧💧
着いた早々にいきなりゴールが見えてしまった感がありますが、、、

とりあえず、教えられた道…というよりも、どなたかのお宅の庭先を上がってみることにします。



確かに「家と家の間の細い径を通り抜ける」、、感じがしているぞっ。



向井潤吉も47年前にこの道をイーゼルを担いで上がっていったのでしょうか。。。😌



きつい斜面には黄色い花が咲いていますね。



どうやら、この花はここでしか見られない福寿草の野生種で青梅草というらしく、今が花の盛りということで、この花目当てのハイカーやトレランの方々がひっきりなしにワタシの横を通り過ぎていくんですねー。

偶然とはいえ、集落がもっとも賑わう時期に訪れたのはかなりラッキーだったようです。



その先は確かに開けています👀
果たしてここがモデルとなった場所なんでしょうか。



草むらのなかに建物の基礎や徳利が残っていますね…


とはいえ、早々に特定するのは覚束ない気がしたため、今度は大きな民家のすぐ下で畑仕事をしている女性にはなしを伺ってみると、、

「あら、向井潤吉の「爽緑の丘」は私も好きな絵なんですよー。この絵の場所はここからずーっと登っていった、どんつきの家で、その頃から誰も住んでなかったから、壊れかけていたようですけど、、むかし画家さんみたいな人が大きな道具を担いで何度かやってきたってはなしは聞いてますけどね。家はとっくになくなってます。最近は奥まで行ってないけど、多分そこまでの道はなくなっているんじゃないかな…」

と今度はかなり確かそうだっ😆

どうやら、向井画伯は先程の福寿草の道をひたすら上がっていった突き当たりの無人の小屋に心を惹かれたということのようですね❗️



ご親切にもその方はわざわざ林道から登り坂を回って、古民家のあった場所まで連れていってくれたのでした。

そして、向かった先はやけに明るく、広い敷地で、中央には私有地と書かれた札が立っています。
(地元の案内人はつかつかとなかに入っていますが…😅)

どうやら、ここが全くの更地なのは、林道と集落の分岐路に挟まれているために、道路整備でかなり平されたからのようです。


茅葺き家から福寿草の咲く場所への下りの経路は、使う人の居なくなったいまは見ての通りの藪だらけで、全く先には進めません。



現在の「爽緑の丘」から見下ろす風景を眺めてみます👀


地図を見て気がついたのは、ここは集落でも一番高い場所だということ。
つまり、向井画伯は林道がおそらくなかった時代に集落のはずれまで、急な径路を登り詰めていき、あの朽ちた家を偶然見つけたってわけですね❗️



改めて、半世紀前にこの作品を向井画伯が描いた場所は、、



このあたりからだったのではないでしょうか。。


家はもちろんのこと、玄関先から続く緑のなかの坂道も今は消えてしまいましたが、ここから見上げた背景の木々の深さだけはなんとなく変わっていないような気がしますよね。。

そんなわけで、今回の歴史散策はなかなかの探検に思いがけない結果がくっついてきたんじゃないかな、、と思っています。
帰りはバスがないため、駅までの山越えがなかなかキツかったのが唯一の難点でしたけどっ😆



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世田谷 森厳寺の富士塚のはなし

2023-02-08 | 街歩き・歴史散歩

先日、世田谷区のある施設の片隅に展示されていた一枚の古写真を見て、気づいたはなしをしてみたいと思います。



まずはそんな昭和前期の古写真がこちら👆

こんもり茂った小山の前に人が大勢写っているこの一枚なのですが、説明には下北沢の鎮守様で北澤八幡宮の場所名が書かれていました。

が、、
日頃から小さな歴史を探して周りをぶらぶら🐾していることもあり、見れば見るほどこの場所は八幡宮ではなく、お隣の森厳寺ではないかと思いはじめたのです。

とすると、、背景の小山は江戸時代に作られた築山、「森厳寺の富士塚」ではないでしょうか❓❓



森厳寺富士塚は明治の古地図でも針山のような記号であらわされているように、その存在は江戸時代から広く知られていました。

その後、平成になってお寺の墓地整備で切り崩されたようですが、もし写真が富士塚ならば、地域の史蹟の貴重な記録写真が広い部屋の隅に、、おまけに場所名まで間違えて紹介されていてもよいのかな、、と💧



とはいえ、早合点をする前に、写真を拡大してみて、ここがお寺だということを確かめてみることにしました🔍

●周りにはたくさんの卒塔婆
●お坊さんが何人も並んでいる
●中央の石碑には南無阿弥陀仏の文字


森厳寺は南無阿弥陀仏の浄土宗派ですから確かに合ってますね!


そして、大震火災亡霊云々、、と書かれた札があることから、おそらくこの写真は書かれた年から考えると関東大震災の17回忌あたりの供養を下北沢の町の人らで行った際の集合写真ではないでしょうか。。

また、窪地に人が何人も立ったり座ったりしている場所は、塚が切り崩される前に世田谷区教育委員会が2007年に行った発掘調査の記録にある、戦時中に作られた2つの防空壕のうちのひとつで南側防空壕のような気がするし。。🤔




そんな富士塚だと思わせる最大のヒントが、目玉のような不思議な記号が描かれた旗ではないでしょうか。

これは今でいえば、
「江戸っ子イチオシ❗️富士講主催 大人気の日帰り富士塚ツアー」
で添乗員が使った旗に近いのかなっ笑

江戸末期、森厳寺の富士塚には講という組織の旗(マネキ)に導かれて多くの江戸っ子が押し寄せたらしいのです。
訪れた富士講中は塚にマネキを立ててから、富士詣ででひと登りをした後、門前の茶屋で一服をしたのだとか。。🍵

そんな習俗がこの昭和初期の写真を見るとまだ残っていたのかもしれませんね。




この森厳寺は徳川家康の次男の位牌所として、いまから400年以上前に創建された徳川家ゆかりの名刹なのです。

お寺とともに長い歴史を共にしてきた大銀杏は、毎年秋になると辺り一面を見事な金色の世界に変えてしまうようなとっても素敵な場所だったりするんですよね。。

かつての境内には作庭された池や築山などが、徳川家の法事に訪れる諸大名らの目を楽しませていたようですが、江戸末期に地元の富士講からの念願で築山は富士山へと様変わりをしたようです。

その大きさは高さ10m幅20mほどと、なかなか立派な富士山🗻だったとか。。


そんな富士塚は周囲で保存の要望もあったようですが、2007年に整備されて、現在はこのような景色に変わっています。
お寺とは思えない白が際立つモダンな建物は富士を見立てているのかな。。


…と真実はともあれ、出先で目にした古写真からいろんなことを今回も勝手に読み取ってしまいましたね💧💧

しかし、あの写真はもう少し大事にしてほしいものです😑
今度あの施設の人に話してみようかな。。


☆森厳寺富士塚の発掘調査記録は世田谷区の図書館で閲覧することができます。



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10年という歳月をブログの写真で比べてみる

2023-01-10 | 街歩き・歴史散歩
ブログであれこれ自分が好きな記録を書きはじめて10年が過ぎました。。。🐌


10年前が果たして遠いむかしと言えるか❓、、はおそらく人それぞれに違うもの。
ワタシの場合の10年を飼ったかたつむりの数で振り返れば、おそらく100回以上の出会いと別れがあったはずですな😅

そんな掴みどころがなかなか難しい10年という月日ですが、ブログを続けていたからこそ、偶然同じ場所を撮っていた記録写真を比較することが出来まして、そんな時間の意味と深さをワタシなりにちょっと振り返ってみたいと思います。
ま、結局はぶらぶら散歩ってやっぱり楽しい〜😆❗️ということを言いたいわけですねっ笑


まず最初は目黒区大橋あたりを2014年頃に歩いたときにたまたま撮ったクロマツの大木から…👀

この時、戦前の陸軍輜重兵第一連隊があった敷地周辺を回っていたのですが、駒場高校グラウンド際の立姿がなんだか印象的だったので撮った記憶があります。

ここは、明治の頃に陸軍の乗馬学校だった時期もあって、明治天皇や大正天皇が天覧に何度も訪れている地。
もっと遡れば、徳川家の御鷹場だったため、普段は人が立ち入ることが許されない場所だったんですね。
そんななか、将軍や天皇を唯一見下すことができた貴重な生き証人がこの松の大木だと思うとちょっと感慨深いものがありませんか?


そんなマツですが、昨年久しぶりに通りかかるとバッサリと伐られていましたね。。

うむ、、、潔ぎよすぎる💧


お次は同じく目黒区大橋にあった陸軍施設で近衛輜重兵大隊の射撃場跡👀

10年前にこの廃墟を見た時は、ビルに囲まれた都会の一角に手付かずのまま戦争の遺構が生々しく残っていることにちょっとびっくりしました。

そんな、廃墟、、


やっぱり、すっかり取り壊されて、いまは向かいに新しく建て替えられた大学病院の駐車場になっています。


そして、最後の写真は渋谷駅に隣接するこちらの稲荷橋❗️
これは2013年に撮りました。

ここは渋谷の駅前で主人を待ちつづけたハチ公🐕が自分の死期を悟るなか、これまで訪れたこともなかった駅の反対側のこの地でひっそり息絶えていた場所なんですね。。


そして、現在の稲荷橋がこちら👆

もはや同じ場所とはとても思えませんが、渋谷の駅前開発で橋の向こうの山手線の高架が高層ビルでぴったり塞がれてしまっています💧


10年前にこの橋から見た渋谷川はなんだかくたびれたような都会の風景でしたが、、


もはや、ニューヨーク的な圧迫感⁉️
渋谷川には夜はイルミネーションが灯り、おしゃれなレストランが並ぶ都会の遊び場所になっているんですねー。



、、と散歩中の風景の10年今昔を3つご紹介しました。

まぁ、消えていくものを悲しんでも都内に住むからには仕方がないっ。
それよりも新しい風景が上書きされて、再びの5年先10年先が果たしてどんな姿に変わるのかをブログの写真で再び記録出来たらよいかな、、と思っています。

では本年もよろしくお願いします。

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世田谷 陸軍獣医学校の境界標石

2022-12-16 | 街歩き・歴史散歩

以前、敷地まわりを歩いたことのある淡島通りの陸軍獣医学校跡地で、新たに陸軍標石をふたつ見つけました。
以前に見つけた石とあわせて、旧陸軍施設の跡地に文字がはっきりと確認できる境界標石が現在3つも残っているのは、なかなか都会では珍しいような気がします。



まずは獣医学校正門のあった付近からの眺めを。。

師走も半ばをすぎると冬暮れの陽になんだか忙しなさを感じますな。。。




そんなことより石ですねっ😆
手前の石は以前にブログ記事で紹介した標石ですが、実はそのすぐ並びにもアタマだけがわずかに出ている石があったんですねー。




たしかに「陸」という文字が見えていますね👀

雑草が刈られて、周りがきれいになったため、近頃になって気づいてしまいました。




そして、もうひとつは富士中学校の正門横に建っているのをフェンス越しに偶然発見しました❗️

ここも旧獣医学校の敷地内ですが、土地の境界ではないため、おそらく他の場所から移ってきたような気がします。



確認までに近づいてみると、、



確かに陸軍と刻まれています。


3つの標石はすべてが中学校の敷地内にあるため、この先も貴重な歴史資料として失われることなく残っていくことでしょう。。😌


因みにフェンス内の標石は中学校の正門内のため、勝手に入ってはいけませんよー。念のためっ。


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世田谷 公務員宿舎跡地と謎の標石

2022-12-13 | 街歩き・歴史散歩
再び、境界標石のはなしを。。




近所を散歩をしていると何故か❓旧郵政省の社宅が多いことに気づくのです。



この空き地にも以前は細長くて寂れた社宅が建っていたのですが、いつの間にか残っているのはポストマークの境界標石だけになってしまいました。



少し離れたこちらのお宅の前にも標石だけが、取り壊されずに残っていました👀


郵政省の他、周辺には陸軍省の名が刻まれた境界標石もいくつかあったりするのですが、もし自分ちの玄関前に何故か石だけ残されるのなら、「陸軍」より「〒」のほうがワタシも見た目には良いかな…と。


話変わって、このあいだ。
用賀に所用で出かけた折に変わった標石を偶然見つけてしまいました。



ここもやはり国家公務員用の社宅跡地らしいのですが、、👀

どうやら広い敷地は近い将来、区の再開発で公園整備が計画されているそうですが、いまは只々不気味な空気が漂っています。。



で、なんとはなしに見ていると、隣のマンションとの境界に接して、パズルのように外壁にピタリとはまった細長い石があることに気付きました。



これは間違いなく境界標石のようです❗️

日競」と刻まれているようですが、石の雰囲気からするとおそらく戦後のもののようです。

うむ🤔
やはり調べてみたくなりましたっ📖




早速、昭和30年前後の地図を出してみます👀

どうやら、公務員住宅ができる以前にこの場所は東京農業大学の農場だったようです。

隣は馬事公苑。。
なんだかあやしいが、ひとまず、「日競」と結びつく記録が地図には見当たらないようです。



お次は高度経済成長期の航空写真に目を向けてみました👀

見るからに農地から住宅密集地へと一気に変貌していますが、こういうスピード感がまさに高度経済成長期ってことなんでしょうねっ🫢
農大の農地も公務員社宅へと変わっているのがわかります。

そして、「日競」の境界標石が立つ正方形の敷地にも幾つかの建物が建っているようですが、社宅とは建築の形状が明らかに違っていますね!


…これらから、この境界標石の持ち主の目星はつきました🕵️‍♂️

先述したように、ここが馬事公苑に隣接していることから、馬に関連する施設、、ズバリ!「日競」は日本中央競馬会の略だったのではないでしょうか⁉️


そのあと、改めて調べたところ、昭和37年に東京農業大学から日本中央競馬会がこの土地を購入した記録を見つけたのですっ👏👏


やはり、街のいたるところにちょっと目を凝らすと楽しいおもちゃは落ちているものですねっ。

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渋谷 宇田川水源地と町境について

2022-12-03 | 街歩き・歴史散歩
これまで山歩きをしていて、周辺でもひときわ高い山の尾根沿いや分水嶺が県境だったりすることがたびたびありました。

それはおそらくむか〜しは目に見える自然のさまを利用するほうが、人々がいろいろな意味での利便性を図るのに一番都合が良かったからなのでしょう。

ある地域と隣り合う地域を線引きするということは、むかしから決していい加減には出来なかったわけでして、全てに意味があるはずっ。
そんな例を先日の宇田川散歩から取り上げてみたいと思います。




こちらは昭和16年の渋谷区地図ですが、よく見ると、、👀
それぞれ町の境が破線で示されていますが、赤矢印の3箇所がなんだかおかしなカタチで線引きされていますよね。


そして、お次はもうひと昔前で大正末期の古地図からその場所を見てみると、この3箇所はピッタリ宇田川源流部に当てはまりそうです。

つまり、これらの境界線は、宇田川の谷頭部分までを町の区分としたからなんですね❗️

川の源は自分らのものだっ👆、、みたいな諍いが、もしやこの不自然な波線の裏には隠されていたりして❗️❓


というわけで、地図に描かれた線って、自然に対するヒトの思惑が面白いほど反映していたりするんですよねー。
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