マイmy巷話

かたつむり。ときどき世田谷、目黒、渋谷の歴史や地理など。

世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (後編)

2024-05-05 | 街歩き・歴史散歩


世田谷代田駅周辺の戦災焼失区域を朱色で表した昭和20年の地図を見ています。

前回は、世田谷代田駅から南斜面に位置する円乗院や住宅地の戦災痕を取り上げてみましたが、今回は駅の北側部分で朱色が広がる箇所に焦点を当てて、終戦間際に壊滅的な被害に遭った井の頭線を復旧させるべく新設した幻の線路跡を探してみたいと思います🐾

しかし、不思議ですよね。。🤔
今でも都会の喧騒から上手に外れている代田の丘の小さな住宅地や駅周辺に、当時何故たくさんの爆弾が落とされたのでしょうか。
しかも、すぐ隣には、二つの私鉄が交差する下北沢駅があるのに、地図の朱色範囲を見る限りは被害がずいぶんと少なく見える。。
当時、代田の町には標的となるような人物、もしくは対象物があったのでしょうか❓❓


さて。こちらは世田谷代田駅に新しく併設された舗道です👀

駅前の案内板の説明を読むと、舗道の明るいレンガタイルのデザインは、戦災で失われた井の頭線車両を補給するために、この駅から新代田駅までを突貫工事で繋いだ臨時線路をイメージしているそうです。
実際、連絡線はこの柵の向こう側に敷設されたようですが、実は世田谷代田駅って、小田急線のなかで唯一戦災に遭っている駅舎なんだとか。。

しかし、当時は同じ小田急系列だった井の頭線の方が、被害がより深刻だったようでして、昭和20年5月末の大空襲でほとんどの車両が壊滅的な被害を受けたために、急遽に他社から戦災応急復旧車を導入せざるを得なくなり、連絡線の必要が生じたわけなんですね。

そんな史実を、このタイルのデザインは伝えていたなんて、しょっちゅう、ここを歩くが知りませんでした💧


お次の写真は世田谷代田駅裏手の住宅地から。。。🚃

かつての連絡線跡は、現在更地になっているこのあたりを抜けていたようですが、さすがに当時の面影は皆無ですね。

どうやら、連絡線は焼失した個人の敷地内に造られたようですが、戦後しばらく経った昭和28年に元の住民らから土地返還の訴えが起こり、いよいよ廃線になったのだとか。。

つまり、この路線は戦時下の強制発動で人の土地に敷設されていたために、戦後、再び平和とともに土地を取り戻した人々らがそこに新たな暮らしを築きあげれば、必然的にその痕跡すべてが埋没してしまうわけですよね。。

これでは、痕跡など見つからないわけだっ💧


と、そんななか👀
土が剥き出しの或るお宅の奥に面白そうなものを捉えました。
これはガンタ積みの壁のようですね。。


かつての線路はここを通っていた可能性が高いため、このガレキは戦災痕、、もしかすると1ヶ月で完成したといわれている突貫工事ならではの線路敷設の道床に混じっていたものかもしれませんね❗️

注)たまたま大家さんからお話を聞くことができたのですが、ここは土の中にもこうした石が埋まってるよ、、とのことでした。写真は許可を得て撮っています。


その先。見えない線路はこの敷地の壁のすぐ内側を真っ直ぐに続いていたようだぞ🚃


井の頭線の新代田駅近くなると、線路は道に沿ったカタチにゆるくカーブしながら続きます。


向こうに井の頭線の電車が見えてきましたが、おそらくこのあたりから連絡線は井の頭線と合流していたようです。

それは、外壁が斜めにプランニングされたアパートの敷地に沿って、少し土地が盛られている奥の建物側を連絡線が走っていた、、と想定するとわかりやすいですね❗️


こうして、80年前にこの連絡路線を使って、戦災で応急処置された車両や他社からの応援車両が、当時瀕死の状態だった井の頭線へとどんどん送り込まれていったわけですねっ。

ところで、、この駅が周りよりも低く見えるのは、ここが谷間だったからだと、今回地図を見て気づきました👀

戦災焼失図ではこの駅舎あたりは朱色、、ということは、世田谷代田駅同様に、ここも戦火に遭っているようなので、谷間の駅ではかなりの火の勢いだったかもしれませんね。


そう気づくと、、👀
駅ホームに今も残されている安山岩らしき石垣がやけに赤いのは、そんな時代の死線をかいくぐった証だったりするのかな、、と最後はふと思ってしまったのでした。


因みに当時の両駅名は、世田谷代田が世田谷中原駅で、新代田は代田二丁目駅だったことを加えておきます。


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世田谷・世田谷代田の戦災痕を辿ってみる (前編)

2024-05-03 | 街歩き・歴史散歩
実はウチの敷地も80年近く前の戦争の最中に焼けた、、らしい。

どうやら、近くに陸軍施設があったために巻き添えを食ったらしいのですが、戦争もいよいよ終盤を迎えると、そういった理由あっての爆撃のような名分も薄れてきて、無差別、、つまり結果が個の気まぐれのようなカタチをとることもあったようです。。



というのも、最近仕事でたびたび歩く機会のある、世田谷代田の台地の下に建つこちらのお寺にたまたま立ち寄ったときのこと。

本堂手前の黒い立木がなんだか異様だな、、と近寄ってみると、終戦の年に当たる5月末の山の手を中心とした大空襲で被災した高野槙の大木が炭化した姿だと分かりました。

当時、このあたりは静かで慎ましい住宅地のはずが、何故狙われたのでしょうか。。



そんな不運な木を見ているうちに、改めて、戦争を知るのは、ものがたりばかりでなく、こうしたものいわぬ遺物をみる方がやけに説得力があったりするんだな、、🤔と思い始めたのです。

で、この近くにはまだまだ探せば、何かあるんじゃないか❓と。。


早速、この高野槙の残る円乗寺の東側の門を出て、見回してみると、いかにも昭和の造りらしきコンクリートの外壁を見つけました👀

見れば見るほど隣のお寺の黒焦げの高野槙とともに、激しい戦火をくぐりぬけた風情が漂っていますよね。。


近寄ってみると、足元には炭化した木が残っていますが、もしやこれは電柱の焼け跡でしょうか。。
おまけに背後のコンクリート壁にも、この木の跡が生々しく残されていますよね‼️


これに気をよくして、その後も時間の許す限り、辺りを見て周ってみたところ、同空襲で焼失した萩原朔太郎旧宅の近くで、唯一、黒ずんで破損したコンクリート壁に気づいたくらいしか見当たりませんでした。

にしても、戦争の痕らしきものが、今なお住宅街に残っているのは、やはり、世田谷代田駅周辺が、山の手の開発から逸れた穴場の場所だからかもしれませんね。

というわけで、古地図片手にもうちょっと探してみようと思います。。

次回に続く。。。

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世田谷・池尻偕行社住宅と陸軍境界標石

2024-04-06 | 街歩き・歴史散歩
戦前、三宿、池尻、そして目黒区大橋あたりが軍都と呼ばれていた頃から町の片隅に残された遺物を今回もご紹介したいと思います。


地元の図書館で借りた昭和22年の池尻周辺の古地図を眺めていると、旧騎兵第一大隊の西側斜面に張り付くような三列並んだ建物群に、すり減ったインクで偕行社住宅と書かれているのを偶然見つけました👀

同じく将校クラスが住んだ駒場の偕行社住宅には、2.26事件に因んだ松見坂の日蓮像のエピソードとあわせた歴史散策で、以前に出かけたことがありました。



改めて、戦後2年が過ぎて発行されたこの地図からは、周囲の軍施設の記載一切が消えてしまっても、池尻の偕行社住宅の名称が残っているのは、未だ軍人関係者が住んでいたからでしょうか。。。



そんなわけで、池尻偕行社住宅のあった場所に着きました🐾

騎兵第一大隊のあった方向に道はやや急勾配に上がっています。
細い路地は当時のままのようですね。


池尻偕行社住宅は、駒場と比べると、ずいぶん小規模だったようでして、すぐに行き止まりになりました。

見上げたマンションのあたりが騎兵第一大隊のあった高台(騎兵山)になりますが、この擁壁に沿って、陸軍用地の境界は設けられていたようです。

そんな視界の左端の消火器横に気になるモノを発見しましたっ👀


傾いて立ってますが、これはたしかに石ですよね。。


しかも、陸軍の境界標石ですね‼️


確かにアタマに点もついてますっ。
こんな路地奥の、しかも電柱陰で隠れん坊してるかのように、立ってる姿になんだか笑っちゃいましたっ。


地図で見ると標石はちょうどこの位置になるようです。
改めて、騎兵第一大隊と偕行社住宅の境界に建っていることがわかりますね❗️



そんな標石の横から奥へと階段が伸びています。
なんだか立ち寄る人も疎らな雰囲気が、見るから伝わってきますが、かつての軍用地の境界でもあるわけだし、立ち入り禁止でもなさそうなので、上がってみることにしました。


突き当たりからトリとシカがこっちを見てますが、残念ですがワタシはキミらとは遊びませんからねっー💧

長い時を経て、現在ここは小さな児童公園になっているようです。


、、と、なんだか新旧含めた孤独なものらの寄せ集めを、この池尻偕行社住宅跡地で見ることができまして、今回も近場でなかなか充実した小発見❗️がありましたね。

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世田谷・駒沢練兵場の排水溝を辿ってみる

2024-03-25 | 街歩き・歴史散歩

先日は、池尻稲荷神社脇の旧陸軍駒沢練兵場の排水溝跡を覗くつもりが、たまたま見つけた鳥居脇の不思議な水準点標石→別記事のほうに食指が動いてしまったため、今回は仕切り直してみることに。
なので、マイマイ🐌はまたまたお休み。すみません。


こちらは大正初期の古地図👀

広大な駒沢練兵場では、大陸への侵略を想定して馬や牽引車に引かせて斜面を駆け上がる厳しい訓練を連日行っていたそうですが、その敷地の水はけの悪さを改善するために造られたのが、今回の排水溝なんですね。

で、排水溝のあった箇所を地図で見るとたしかに土塁記号が練兵場から神社横手まではっきりと描かれています。

また、等高線に注目すると土塁記号のあたりはゆるい谷間になっていて、目黒川まで凹型地形が続いているようです。

つまり、川が源頭から下流へと流れるように、自然の地形を利用して作られた排水溝から、練兵場の窪地に集まった雨水を流していたというわけですね❗️

池尻稲荷神社の湧水が「枯れずの井戸」と呼ばれたのも納得です。。

ただし、大正時代の流路は、練兵場から現在の国道246号を超えると、一面が田んぼのなか(現在の目黒区大橋あたり)に続いているため、灌漑用水として利用されていたのかもしれません。


時代は下がって、昭和2年の地図👀

戦時下の地図改描で軍事施設表記が地図からどんどん消されていくなか、排水溝はやけにはっきりと描かれていますねー❗️


別の地図で見てみると、国道から北側部分は田んぼや畑は失われて、建物が密集しています。

排水溝は目黒川南側の工場敷地に沿った箇所のみが青く描かれているようです。

そこに上の地図を描き出せば、練兵場の土塁から目黒川までを辿っていけそうですね❗️


🐾

🐾


まずははじまりから。
旧練兵場内の土嚢記号の突端あたりに来てみました。

周囲がやけに広くなっていますが、かつてはここに集まった水を目黒川へと溝を通して流していたわけですね。。


周りを見ると集水枡がいくつも並んでいるので、この地下は今も水のトンネル銀座かと思われます。


で、そこから土塁記号に沿って、裏路地の暗渠を歩いていきます。
100年前のここは、多くの若い兵隊さんらの使役で掘らせたのでしょうか。。


路地を抜ければまもなく池尻稲荷神社。


そして神社脇の暗渠にまで、やって来ました。

今までよりも水路の側壁が上がって、造りも立派になっていますが、ここはむかし大雨が降ると怖いくらいの濁流が練兵場から押し寄せてきて、国道の向こうまで溢れかえったそうですよ💦


排水路には、コンクリート橋もしっかり架かっていたようですね👀

察するに、、なんだかんだと治水工事にかかった金額は、神社の氏子ばかりか練兵場にもしっかり負担してもらったんじゃないかな🤔

そんな暗渠に沿った銀杏は、傍らの石碑によれば、昭和3年に在郷軍人の手で植えたものだとか。

出征祈願に武運長久、、数えきれない人らが一心に願い、その手をあわせた思い出ばなしがここにはあるんでしょうね。。


はなしは戻って、排水溝の暗渠は国道側の鳥居手前で大きく右へとカーブして、隣接するマンションの敷地へと抜けているようです。


ちょうどこの裏が神社の枯れずの井戸になりますが、ここから見下ろす暗渠は、井戸からの排水口と古びたコンクリート蓋がアクセントになり、なかなか良い雰囲気だったりします。


その先、暗渠は神社横のこちらの建物の外側通路になっているようです。

厚いコンクリートの蓋上には、古い石積みが残されていました。


246号の池尻交差点を渡って、神社を振り返ってみます👀

排水溝は神社脇からとなりの古畑病院経由で国道下を抜けて、目黒側へと続いているようです。


国道を渡った先を斜めに入った路傍で、僅かに側溝らしき跡を見つけることができました👀
当時、この横には世田谷警察署があったようですね。


いまでは狭い路地を住宅が所狭しと並んでいますが、この崩れた石のかたまりも側溝の跡でしょうか。。


昭和初年の地図を参照に、この二又では左をしっかり選びます❗️


世田谷の裏路地であるあるですが、この不自然な道の曲がり具合に水路の名残が感じられます。

ちょっと注目したいのは、、下水道のマンホールに合わせて、気を利かせた縁石のカーブが、いじらしく見えますが、それでも蓋開かないような気がするのはワタシだけかな笑


暗渠の路地裏から、いよいよ地図にも描かれていた工場敷地に沿った一直線の水路跡を辿れば、目黒川はもうまもなく❗️


そして、無事に目黒川緑道に合流しました❗️


こうして、古地図を参照に100年前に造られた駒沢練兵場の排水溝は、今でも足下の見えない場所に存在していることがわかりました。

また、標高のある練兵場からうまく地形を利用しながら、目黒川までを排水溝は最短距離で造られていたことも判明したし。。💡

どんなに些細なものでも、歴史の遺構があるかぎり、そこに理由のないものなんて絶対ありえないっ❗️ということをまたもや再認識した、スーパーへの買い物ついでのちょっとした旅路でした笑

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世田谷・池尻稲荷神社の謎の水準点標石

2024-03-03 | 街歩き・歴史散歩
今回も都会の裏路地でふと見つけた不思議な石のはなしをしたいと思います。
再び、マイマイ🐌ネタはお休み。すみません。。


こちらは、渋谷から続いた国道246号沿いに鎮座する池尻稲荷神社👀

ここ、目の前の大きな国道とその上を走る首都高速の喧しさと威圧感からか?、日頃からついつい足早に通り過ぎてしまいがちだったのですが、、



先日、前を通りかかった際、この裏手に戦前あった駒沢練兵場の排水路が、今も神社脇に暗渠として残ることを思い出しまして、鳥居の横から経路に入った矢先、標石らしきものを見つけたのです。


大きな記念碑の裏側に横たわっている石は、1m近くはありそうな立派な花崗岩で出来ています。
おまけによく見れば、BM No-12とも刻まれていますね👀


一旦神社の敷地に入って、見えにくい記念碑の隙間から標石の表側を観察してみると、家紋らしき彫刻が入り、おまけに石のあたまには丸い出っ張りもありますね。。これは⁉️


ますます興味が沸いてきたので、境内をざっと眺めてみると、すぐにこの家紋らしきものは、神社の社紋だとわかりました。


BMの刻み文字。。
上部には球分体。。
そして、国道沿いの神社に社紋入りの立派な花崗岩の標石。。

このヒントから、これは昔の、おそらく戦前に作られた水準点標石じゃないか⁉️と思い始めました。

水準点とは明治維新後に海外から導入された技術を用いて、国土の高さを測るために各地に設置された基準点のことでして、当初は標石ではなく、内務省の管理下で国道沿いの既存の不朽物に几号を彫ったものを基準にしたそうです。例えば、神社の鳥居や石造りの構造物などなど。。いま見つけたらマニアなら堪らないレアものでしょうね。

その後、国土の測量は陸軍下の陸地測量部に移り、戦後は国土地理院へと続いているんですねー。
つまり、戦前の日本国土のデータは軍が全てを掌握していたってわけか。。🤔


そんな現在の国土地理院の地図を見ると、神社に水準点の記載はなく、一番近くの水準点は、神社から500メートルは先。
もしかして、以前はここに水準点が設置されていたものの、なんらかの事情で移されて、廃点になったのでしょうか❓❓

結局、地理院の測量担当の方に伺ってみたところ、池尻稲荷神社に該当する水準点の資料は見つかりませんという返事をいただきました。
やはり、水準点ではないようです。。


ではどうしてこんな立派な神社の社紋入りの水準点標石もしくは、似たものがつくられて、またその後、記念碑裏に隠されてしまったのでしょうか。。❓

もしかして、この記念碑になにかヒントはないか🤔❓と裏面をなんとか読んでみたところ、鎮座300年祝賀事業として、昭和38年9月に神社を改修、造営した際の記念碑だとまでは、わかりましたが、水準点のことはさっぱり分からず💧💧

最後は、神社の方に伺ってみることにしたのですが、やはり当時を知る氏子の方々は皆いなくなってしまったため、何故作られたかはわからないそうです。
それでも、唯一わかっているのは、昭和38年に、翌年のオリンピック開催に向けた高速道路建設のための国道拡幅工事で神社の敷地が今の場所までセットバックされた際に、あの石も移されて、いまのように記念碑裏手に置かれてしまったのだとか。。


いやー謎ですよね。
謎ではあるが、この土地がかつては駒沢練兵場をはじめ陸軍施設が集まる、軍人が住む町だったこと、その町の鎮守が池尻稲荷神社だったこと、そして、土地の測量を管理、設置したのが陸軍の管轄部署だったという因子から、ある日あるとき、あの標石がひょこりと誕生したのかもしれません。

それが、戦後の東京オリンピックを期に誰もが夢中になった新しい街づくりの陰で、ひっそりと失われて、また忘れ去られてしまったたくさんの旧いモノらの仲間入りを図らずもしてしまった、、、

最後はそんなプロットがふとアタマを過ぎってしまいましたが、まぁ今回も見慣れた町でふと見つけた石から、楽しい妄想を膨らませてしまいました笑

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世田谷・震災とガンタ積みの壁

2023-12-18 | 街歩き・歴史散歩
前回は戦争中に使われた民間用の防火水槽をいくつか周りで探してみましたが、それより昔の災害痕が、町の一風景として残っているはなしを、今回してみたいとおもいます。


下北沢の町はずれで見つけたレンガ造りのこちらの擁壁。


レンガばかりかいろんな石も入っているらしく、見ればみるほどなかなか面白い顔の壁なんですよ。。👀

広く整然とした住宅地に、ここだけ時間が止まったままのような雰囲気を感じて、立ち止まって見ていると、偶然に近所の方から、お祖父さんのはなしとして、この壁は大正時代の大震災で崩壊した近くの工場のレンガ材を使った擁壁の一部分だと教えてもらいました。
震災後に裏の山を切り崩して住宅地にした際、このレンガの擁壁はずっと上にまで続いていたのだとも。

山」だったという言葉が印象的でしたが、以前に書いたブログ記事のなかで2.26事件の栗原中尉一家が駒場で罹災したあとに移り住んだ松見坂一帯はそれまでただの「田んぼ」だったわけですよね。。

改めて、100年も前の震災をきっかけに、山や田んぼの広がるのどかな村の風情が人の移住で一気に都市化したことを窺い知るエピソードだな、と思いました。


で、こういう造りはガンタ積みと呼ばれているそうですが、このガンタ積みの壁は下北沢あたりにまだまだありそうな気がしたので、探してみるとやはりありましたっ❗️

こちらはアパートの外壁として今も現役のようですが、草に覆われたレンガの古さが建物と似合ってました。


よく見ると、コンクリートで固められたレンガの塊は完成したパズルのようで、陶器製の排水管がきちんと通っているところにも、壁としての本気度が感じられます。



また、レンガと大谷石が重なったこちらの壁は、狭い道筋の駐車場で発見しました。焼けたように黒ずんでいるのがなんだか印象的ですね。



池の上駅近くの住宅街の庭先には小さな壁がありました。
ここ、花の季節は隠れてしまって、なかなかわかりにくいのですが、、。


少し離れた松見坂近くのビルの外壁は、コケが生えていて、見るから盆栽のようになっているのが面白いですね❗️

…と、もう少し足を伸ばしてみると、まだまだありそうな古びたレンガの壁ですが、どれもが100年前の災害の瓦礫で造られたかどうかは不明ですが、この土地を歴史的にみた時間枠と地理的な根拠に加えて、そこに住む人の確かな証言からも、なんだかありえそうな気がしてきます。

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世田谷目黒・古い防火水槽を見つけてみる

2023-12-08 | 街歩き・歴史散歩


ここは世田谷代田の住宅地👀
お庭のなかに建っている昭和元年の古い鉄塔下に逆さで置かれたコンクリートの箱は、おそらくむかしの防火水槽でしょうか。。

で、こーいうモノはいつ頃出来たのかな、、🤔と、昭和16年に内閣府情報局が各家庭向けに発行した「家庭防空の手引」という冊子を読んでみました。

《一死奉公、団結を強くし退却を考えずに敵弾と戦えば被害は殆どないのです》

《爆弾は一度落ちたところに2度と落ちることは絶対ないため、勇敢に飛び出して防空に活動すること》

《空襲は受けるものだと覚悟を決めて、全国民が敵機の空襲を待ち構えてをれば、空襲の惨禍は未然に防止され、なんだこんなものかと軽微で済む

いやいや💦逃げずにひたすら気合いを入れれても、絶対に敵機の爆弾を防げるわけでも火は消えたりもしないからっ💦まずは逃げてくださいよっー⁉️
改めて、これ👆政府が国民向けに出しているんですからねっ。

ウソみたいなホントの話とはこーいうことを言うんでしょうね。。。


また、手引き書では、各家庭の平時からの準備として、消火のために防火水槽、井戸、砂、土、ムシロなどを便利な場所に置くことや、燈火管制などを挙げています。

上の写真の陶管は、かつての陸軍の駒沢練兵場に隣接する池尻のお宅の軒先にあったもので、おそらく防火水槽かと思われますが、つい先日取り壊されて、いまはすっかり更地になっています。


また、池尻近くにかつてあった陸軍獣医学校並びのお宅には、正面玄関の植木と並んで古井戸が残っていました。
大きな道路に面したここなら、確かに消火に便利そうですね。


池尻から渋谷方向に上がった大橋の国道246号線沿いにも、防火水槽がポツリと残されています。


高速道路下の都会の喧騒のなかで、コンクリート造の古びた水槽はなかなかの存在感を放っていますね❗️

戦時中、三宿や三軒茶屋周辺の国道や沿線に沿った住宅や商店は、火災の延焼を防ぐために多くが取り壊されたそうですが、こういった建物疎開も、国の防火対策として、防火水槽や井戸での消火とともに、平然と行われていたようです。


昨日からの雨で溜まった水槽の水面には高層ビルが青く映っていました。。



また、松見坂交差点から少し下がった住宅の横にも、陶器ものとコンクリート製の防火水槽が仲良く並んでいたりします。

松見坂周辺もかつては三宿、池尻と並ぶ軍都の地。
だから、余計に町は戦争の災禍に遭っているんですね。。。


大橋とともにこの防火水槽も、過去の様々な惨禍を乗り越えて、いまは人知れず草木を育てる受け皿として生まれ変わっていました。。


そんなわけで、普段なら通り過ぎてしまう見慣れた場所も、目線次第でちょっとした宝物を発見したような気分になることがたまーにあるのです。

また、散歩や買い物ついでや仕事の合間に、新しいなにかが見つかるといいのですが。。


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世田谷・昭和元年の鉄塔のある町

2023-11-09 | 街歩き・歴史散歩
近ごろ仕事の事情で世田谷代田の町に行く機会が増えたのですが、そこでちょっと面白いなと思うのが、、



坂道だらけの町のあちらこちらに立っている鉄塔なのですっ☝️

調べてみるとこれらの鉄塔群は、駒沢線と呼ばれていて、大田区洗足から杉並区和田堀の変電所の間を90番まで続いているのだとか。。


そして、これら鉄塔の完成年は昭和元年の12月。。ずいぶん長持ちしている鉄の造形物だったんですね❗️

実は昭和元年って、12月25日から始まったためにたった7日間しかなかったって知ってました❓
だから、そんな短いなかでおまけに歳の暮れにこんな大掛かりなものの竣工をぶっ込んでくるとは、なかなか気合いはいってるなー🤔と感心をしてしまったりも。。


そんなわけで、編み上げたような見事なかたちをした、鉄の物体は100年近くを雨嵐にも空襲にも負けずに代田の町に立っているのです。。


また、61号鉄塔には地域の風景資産の札が付いていたりするのも、なんだかおもしろいですよね❗️


三軒茶屋の高層ビルを見渡す高台の鉄塔下に、たまたま荻原朔太郎が住まいを作ったことで、どうやらこの鉄塔は名誉の勲章まで世田谷区からもらったらしいのです。


じゃ、続く鉄塔にも、なにか名誉なはなしがあったりして、、❓❓

とお次の62号鉄塔を見に行くと、なんだかそこは葉っぱに隠れてモジャモジャだったっ笑


よく見ると、茂った木々のなかには、ひとんちと大きな鉄塔が見事に渾然一体と化していて、ま、さっきと違う意味でこれもこれで、すごいな、、と💧💧


じゃ、お次はいったい…❓と、期待をしながら63号鉄塔も見に行くと、こちらはヒトんちの庭のなかで柿の実とともに秋の風情を醸し出していましたっ笑❗️



鉄塔のしたの庭先には使われなくなったむかしの防火水槽が逆さまに置かれているようです。

なんだか、100年鉄塔とあわせて見ていると、ここが都会だということをすっかり忘れてしまいそうな景色ですよね。。


そんなわけで、仕事まわりの途中にたった3つの鉄塔を順番に辿っただけなのに、やけに奥深いものを見たような気がしたある日の午後だったのでした。


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渋谷 帝国大学農学部と境界標石

2023-05-05 | 街歩き・歴史散歩
いつものようにちょっと足を伸ばしてぶらぶらとお散歩をしています。。🐌


ここは渋谷の雑踏を抜けて、真っ直ぐに伸びた一本道。
そして、普段からわりと歩き慣れた道❗️、、のはずが、今更ながら道の傍に面白そうな石を見つけてしまいました👀



文字や石の具合からも、これはなかなか古い境界標石だと気がつきました。

どうやら、「帝國大、、學?」と書いてあるみたいです👀
確かにこの先には駒場東大キャンパスがあるので、特に驚くほどの発見ではありませんが、、



現在、あたりは普通の住宅街なんですよねー。
ということは、一体、いつの頃にこの標石は設置されたのか?がちょっと気になり始めました。
ま、毎度の歴史散歩オタクがアタマを擡げたわけですなっ😆


まずは標石に刻まれている「帝国大学」の名称の変遷をちょびっと調べてみると、、
明治10年に設立された東京大学からはじまって、同19年に帝国大学に改称されたのち、明治30年京都にも帝大が出来ると東京の大学は東京帝国大学に再び改称されて、戦後の学制改革まで内外9つの帝大が創立されたとか。。

なんだか、ごちゃごちゃし過ぎて、この標石は一体いつの帝国大学のためのものか❓さっぱりですね😅



ひとまず、駒場にあった明治30年の東京帝国大学に改称したころの農科大学(旧農学部)敷地部分図を見てみます。

敷地の北側に沿った三田用水の下流側の橋を渡った先に、当時の通用門はあったようですが、実はこの橋は徳川幕府の鷹場だった頃に将軍が渡った御成橋なのです。
そこを当時は大学の通用口として、使っていたってわけなのね…🤔

しかし、肝心の標石は、御成橋よりもまだまだ南側の場所。。ってことは敷地がのちに拡張したのでしょうか。


少し時代を進めて、大正8年に農科大学が東京帝国大学農学部に改正された頃の敷地部分図を見てみることにします👀

明治の地図と比べてみると、Gateと書かれた旧御成橋から南側に敷地が拡張されて、立派なFront Gate、つまり大学正門が完成していますね❗️

以前の正門は、敷地の北西側で現在の東大裏あたりにあったのですが、確かにこちらのほうが渋谷駅から一直線で通えるわけですから遥かに便利ですよね。。



そして、現在の地図と同定してみると、、👀

今も三田用水路跡の際に残る帝国大学境界標石が、大正8年頃の土地拡張で作られた正門(紫の線)の位置と確かに一致しているのがわかりました。

この路傍の石が見た目からも御影石の摩耗と刻字の擦り減り具合からして、古いものだは思ってましたが、大正時代の貴重な標石だったとはっ。


改めて、正門のあった場所を正面から眺めてみます👀

ここにあった❗️と分かってしまえば、住宅地のなかの二股路が、なんだか不思議な雰囲気を醸し出しているような気がしてきませんか❓


また次はどんな面白い歴史のカケラが道に落ちてるかな、、楽しみかなっ😊



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青梅: 向井潤吉の描いた風景を探しに行く

2023-02-26 | 街歩き・歴史散歩

きっかけは先日出かけた世田谷美術館分館の向井潤吉アトリエ館で見た一枚の油絵。。


青梅の民家を描いた1976年制作の作品「爽緑の丘」。

展覧会チラシにもなっているわけですから、きっと有名な作品なんでしょうけど、ワタシの勝手なイメージでは向井潤吉って、真正面に捉えた古民家に青い空や高い山や印象的な木が一緒に描かれた作品が多い気がするんですよね。。

だからこそ、場所を特定する手がかりが周りに描かれることなく、深い緑だけにすっぽり囲まれている丘の先に傾きかけた、こちらの小さな茅葺きの家の景色は、逆に新鮮に映ったりするのかな…❓

チラシには青梅市栗平、、と場所名は書かれています👀
果たして47年前に描かれた景色が今も青梅の山奥に残っているんでしょうか。

そんなことを思ったら、なんだか探してみたくなってきました。


🐾

🐾


そんなわけで、青梅駅まで電車でやってきました。
なんだか、レトロな雰囲気が満載の駅でちょっとびっくり…🫢


青梅駅からは上成木行きの都バスに乗って、20分ほど先の赤仁田バス停で下車をします。

そのあとは、目の前に続く、こちらの栗平林道を入っていくわけです。
一応、事前に地理院地図で栗平集落の位置だけは確かめてきましたが、現在そこには数件ほどしか住民の方は住んでいないらしく、ちょっと心配ですね…💧

で、唯一場所の特定になりそうなヒントは展覧会のチラシのなかの作家の言葉👇

「勾配の強い森陰の道を登り切った狭い谷のはざまに四、五軒が散在して、物音一つしない静けさであった。その家と家の間の細い径を通り抜けたところに、こんな隠れ家のような家があった」

いまはこれだけが頼りなのです😓


薄暗い林道から途中外れて、栗平には急勾配の山道を進んでいきます。
しばらくすると道が開けて、作者が言うように数件の民家が見えてきました。

おそらくここが目指す栗平集落のようです。

意外にも周りでは山の竹を刈っていたり、手前の建物の庭では山作業をしている方がいらっしゃるんですねー。
そして、恐る恐る作業中の女性に展覧会のチラシの絵を見てもらいました。


「あー、〇〇さんのところにこの家、似てるわねー。あの家と家の間から上がった先に前は小さな茅葺きがあったわね。でもいまは取り壊されてないわよー」


と早速回答が返ってきました。



なんだか、、💧💧
着いた早々にいきなりゴールが見えてしまった感がありますが、、、

とりあえず、教えられた道…というよりも、どなたかのお宅の庭先を上がってみることにします。



確かに「家と家の間の細い径を通り抜ける」、、感じがしているぞっ。



向井潤吉も47年前にこの道をイーゼルを担いで上がっていったのでしょうか。。。



きつい斜面には黄色い花が咲いています。



どうやら、この花はここでしか見られない福寿草の野生種で青梅草というらしく、今が花の盛りということで、この花目当てのハイカーやトレランの方々がひっきりなしにワタシの横を通り過ぎていきます。

偶然とはいえ、集落がもっとも賑わう時期に訪れたのはかなりラッキーだったようですね❗️



その先は確かに開けてますよっ👀
果たしてここがモデルとなった場所なんでしょうか。



草むらのなかに建物の基礎や徳利が残っているのもなんだか生々しいな。。。


やはり、早々に特定するのは覚束ない気がしたため、大きな民家のすぐ下で畑仕事をしている女性にはなしを伺ってみると、、

「あら、向井潤吉の「爽緑の丘」は私も好きな絵なんですよー。この絵の場所はここからずーっと登っていった、どんつきの家で、その頃から誰も住んでなかったから、壊れかけていたようですけど、、むかし画家さんみたいな人が大きな道具を担いで何度かやってきたってはなしは聞いてますけどね。家はとっくになくなってます。最近は奥まで行ってないけど、多分そこまでの道はなくなっているんじゃないかな…」

と今度はかなり確かそうだっ😆


どうやら、向井画伯は先程の福寿草の道をひたすら上がっていった突き当たりの無人の小屋に心を惹かれたということのようですね❗️



ご親切にもその方はわざわざ林道から登り坂を回って、古民家のあった場所まで連れていってくれたのでした。

そして、向かった先はやけに明るく、広い敷地で、中央には私有地と書かれた札が立っています。
(地元の案内人はつかつかとなかに入っていますが…😅)

どうやら、ここが全くの更地なのは、林道と集落の分岐路に挟まれているために、道路整備でかなり平されたからのようです。



茅葺き家から先ほどの福寿草の咲く場所へと、かつて画伯が通った経路はやはり藪に遮られて、先には進めないようです。



改めて、現在の「爽緑の丘」から見下ろす風景を眺めてみます👀


地図を見て気がついたのは、ここは集落でも一番高い場所だということ。
つまり、向井画伯は林道がおそらくなかった時代に、集落の外れの急な径路を登り詰めていき、モデルとなった廃屋を偶然見つけたってわけですね❗️



そして、半世紀前にこの作品を向井画伯が描いた場所は、、



このあたりからだったのではないでしょうか。


家はもちろんのこと、玄関先から続く緑のなかの坂道も今は消えてしまいましたが、ここから見上げた背景の木々の深さだけはなんとなく変わっていないような気がしますよね。。

そんなわけで、今回の歴史散策はなかなかの探検に思いがけない結果がくっついてきたんじゃないかな、、と思っています。
帰りはバスがないため、駅までの山越えがなかなかキツかったのが唯一の難点でしたけどっ😆



コメント
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