マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

渋谷 宇田川水源地と町境について

2022-12-03 | 街歩き・歴史散歩
これまで山歩きをしていて、周辺でもひときわ高い山の尾根沿いや分水嶺が県境だったりすることがたびたびありました。

それはおそらくむか〜しは目に見える自然のさまを利用するほうが、人々がいろいろな意味での利便性を図るのに一番都合が良かったからなのでしょう。

ある地域と隣り合う地域を線引きするということは、むかしから決していい加減には出来なかったわけでして、全てに意味があるはずっ。
そんな例を先日の宇田川散歩から取り上げてみたいと思います。




こちらは昭和16年の渋谷区地図ですが、よく見ると、、👀
それぞれ町の境が破線で示されていますが、赤矢印の3箇所がなんだかおかしなカタチで線引きされていますよね。


そして、お次はもうひと昔前で大正末期の古地図からその場所を見てみると、この3箇所はピッタリ宇田川源流部に当てはまりそうです。

つまり、これらの境界線は、宇田川の谷頭部分までを町の区分としたからなんですね❗️

川の源は自分らのものだっ👆、、みたいな諍いが、もしやこの不自然な波線の裏には隠されていたりして❗️❓


というわけで、地図に描かれた線って、自然に対するヒトの思惑が面白いほど反映していたりするんですよねー。
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渋谷 見えない宇田川とその源流をたどる その2

2022-11-27 | 街歩き・歴史散歩
引き続き都会のなかの見えない川の源流探し🐾



まずは戦後昭和30年頃の地図から…👀

前回は宇田川の暗渠を三角橋周辺の谷頭から代々木上原駅前西原児童遊園地(地図の赤矢印⬇︎)まで辿ってみました。

戦後、ここから上流(白線)側は埋められて住宅地(徳川山分譲地)になったようですが、そのむかしには代々木の深い谷だったことを頭の隅に置きながら、今回は北西へと宇田川の源頭部を詰めてみたいと思います。
とはいっても、ただひとんちの合間をふつうに歩いているだけなんですが…💧



昭和30年ごろには暗渠と化した西原児童公園からの流れの跡を住宅地の裏手のわずかな側壁に見つけました。

それ以前の代々木上原一帯は豊富な水を利用した田んぼだったのが、高度成長期に合わせて宅地へと変わっていったようです。



見えない水路を辿り、広い交差点にでました👀(地図の

大正末期の古地図には、この奥に大池が描かれているのですが、北と西側2ヶ所の源頭からの水が集まって出来た池なのでしょう。

そして、背景のお宅の立派な大谷石の外壁はおそらく戦前から戦後に分譲された徳川山からのものかな。。

「徳川山」の名前の由来は、周辺が明治の一時期に紀伊徳川家の土地だったからで、地名でもないのに、一昔前の昭和前期の渋谷区地図に徳川分譲地とはっきり記載があるのは、おそらく土地のブランド化を図りたい企業側の戦略が地図に反映されたからでしょうね❗️


この広い交差点では東外れに残るわずかな縁石に戦後復興期の宅地造成にまつわる歴史のカケラを見ることができるのです👀(地図の青矢印⬇︎

昭和30年頃の地図を見ると、代々木上原駅から徳川分譲地に続く道路がここまで新設されているのですが、何故か?その後の高度成長期に入ると、道は姿を消して、住宅地へと変わっているのです。
そんなかつての道路痕がこの不思議な空き地とわずかな縁石なんですね。


再び、川のはなしに戻って、交差点近くから水路の跡を西方向に見ています👀

道の突き当たりが大山園の跡地で、今回目指している宇田川の源頭部のふたつめがこのあたりですね❗️
因みに水の流れはこんな感じだったのかな。。

大山園の跡地まで近寄ってみると、10m近くもありそうな高さの立派なコンクリートの法面で守られた個人の邸宅になっているようです。

そんな「大山園」とは、明治の中頃に造成された、ある実業家の庭園のことで当時は庶民にも開放された名勝地だったとか。。

実はそれ以前は木戸孝允が所有していたらしいのですが、この方ってたしか維新後まもなく、ここから程近くの駒場にあった徳川家の御鷹場も所有していたはず、、

つまり、「桂小五郎」って、かつてはこのあたりの大地主だったんですねっ❗️


そんなこんなで、大山園跡の源頭部を首が痛くなるくらいに見上げたあとは、再び大池のあった交差点にもどります。

今度は徳川山北西の源頭部を目指してみましょうっ🐾

因みにこの交差点も戦前は周囲の谷頭からの水が合流していた場所のようです👀(地図の②)

改めて、今回の宇田川の源流探しはここがむか〜し狼谷と呼ばれたほどに迫り来る、幾つもの深い谷奥を源としているだけに、谷の数だけ流路があって、特定が難しいことに、今更ながら気づかされています💧


見えない流れを詰めて行くと、いよいよ道も狭まってきました。

このあたりは、いかにも暗渠らしい雰囲気が漂い、標高も先程の大池があった最初の交差点から5mは上がっているようです。
おそらくこのあたりも宇田川の源頭部のひとつでしょう。。

そんな右手の外壁は代々幡斎場でして、ここは江戸時代から続く火葬場。
最近、親しい知人をここから送ったことがあるので、ちょっと悲しくなってしまいました。。

で足早に、地図のへと引き返して、最後は、徳川山西側の谷の最奥部へと向かうことにします🐾

代々木大山公園の野球場にやって来ました👀

目指す源頭は階段下の西原総合体育館あたり。。
この場所は代々木上原駅前の西原児童遊園地との標高差が15mもあるので、ちょっとした山になっていますね❗️
おそらく、ここが宇田川源頭部のなかでも一番に険しい谷だったのでしょう。
むかしは狼犬もいたのがわかるような気がしますっ。


しかし、、💧💧

ここまでなんとか理屈や屁理屈をつけながら来たものの、湧水どころか水の一滴も落ちていないんですよね。。。

そんな最後、この谷からの流れが、体育館に隣接するJICAの敷地に入るのを古地図で確認して、施設を訪れてみることにしました。


昨今の厳しいセキュリティ事情に反して、割とあっさり入れたのは意外ですが、JICAの施設内って全てが英語表記のようです…大丈夫かな💧

正面入口のホールから階段を下がった先のレストランも外国の方ばかりで、ちょっとした旅行気分になってきましたっ。

レストランは広くて明るく、全てがステキな庭に面していて、ワタシのような余所者でもインターナショナルな料理が格安に食べられるようでして、目的を忘れて、ついついレッドビーンズカレーを注文してしまいました笑

が、、それが功を奏したようで、ご親切な食堂のマスターから、このステキな庭の奥に2つの池が並んでいるという事実をとうとう聞き及んだのです❗️❗️


カレーとコーヒーを頂いたあと、早速教えてもらった通りに、ガラスの戸口から庭へと出てみました。

落ち葉が舞い散る静かな散策路から一階のレストランを振り返ると、このJICAの敷地は建物側から水場に向かって、急激に下がっているのがよくわかります。


敷地はずれの谷底まで降りて行くと、可愛らしい楕円形の池が見えてきました❗️

まわりは薄暗く、木立に包まれて、水面に動きはまったく見らず、いかにも谷間の底らしい神秘的な雰囲気が漂っています。


池のほとりは立ち入りが禁止されていて近くまではいけませんが、2つの池はよく見ると細い水路で繋がっているのも確認できました。

池が西原体育館の源頭から流れてきて溜まったものか?、それとも湧水池なのかはわかりませんが、この水から宇田川が誕生したことだけは間違いなさそうですね❗️


改めて、今回の宇田川源流探しは、渋谷という場所柄、水を見つけることなんて無理だと思っていたところ、最後はたまたま人の助けを拝借して、宇田川の源頭から湧く水をじかに見ることができたのは嬉しいかぎりなのでした。

また、これからも散歩途中の見えない水路探しは続けていきたいものです。。

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渋谷 見えない宇田川とその源流をたどる

2022-11-22 | 街歩き・歴史散歩
多摩川を見渡す場所から都会に越してきて十余年。。
ウチの近くに川はないと思っていたところ、偶然、昭和の頃の古地図を見て、まわりは川や用水路だらけで、蛇行する川ではよく氾濫も起きていた❗️、、なんてことを知りました。
つまり、全てが暗渠化されていたんですね…。

それをきっかけにヒマが出来ると都会のなかの見えない川とそれにまつわる歴史のカケラ探しがなかなか楽しいことに気付いたのです。

で、今回の暗渠探検は散歩を兼ねて渋谷の外れのいまでは渋谷繁華街に町の名前だけが残る宇田川に注目してみました。


まずは宇田川の豆知識👀📖
渋谷川の支流。
むかしは、今の代々木公園からNHKに沿って流れる豊富な水量を利用した稲作が営まれていた。
その水の深さでときには人が溺死するくらいの底なし田んぼだったとも。
因みに湧水地という場所柄、低い水温のせいでお米の味はあまりよくなかったらしい。。

また、地理的には川の源頭部にあたる幾つかの谷戸(代々木上原や大山、西原、幡ヶ谷あたり)からの湧水が代々木上原周辺で宇田川の様相を呈して、代々木八幡からの支流と合流。
その流れが渋谷駅の宮下パークあたりで渋谷川にバトンタッチ🏁❗️

そんなところでしょうか。。


これは大正末期の代々木上原あたりの古地図です👀

曲がりくねった等高線の集まりはまるで山の地図を見ているようですねっ。
これじゃ、谷を詰めれば水が出てくるのも妙に納得です。

そんな地図とにらめっこした結果、今回の宇田川散策は代々木上原周辺の3ヶ所の谷間あたりから湧き出る水の流れに焦点を当てて源頭を探ってみることにしました。
目指すのはこちらの3ヶ所。。

三角橋
大山園
徳川山

ではひとまずスタート。。。🐌


先ずは三角橋を昭和初期の古地図から見ていきます👀

三角橋交差点は渋谷区と世田谷区との区境ですが、どうやら周辺には水源地が2ヶ所あることがわかりました。ひとつめは小田急 東北沢駅の北側のガード下あたりで、ここはすでに川は失われていて砂利取場になっているようです。

そして、もう一つは三角橋北側の湧水池(地図③)
池を端とした流れは地図にはっきりと描かれているので、今も水路跡のヒントが何処で見つかればラッキーですよね❗️


🐾

🐾



三角橋交差点にやってきました👀

ここは暗渠となった三田用水の三角橋跡あたり。。
傍の大きなケヤキの根元に目を向けると、石を穿った跡の残る大谷石が護岸の役目を失った今でもこの木を支えています。
この三田用水の石はまわりにも幾つか残っているので、三角橋の道路拡張工事が進む前に是非探してみて下さいね。


そんな三角橋で宇田川という社名の材木屋さんを発見しましたっ😳

もしかして川と関わりがあるのかな❓❓、、と調べてみると、どうやら社長さんのお名前のようでしたが、宇田川の源頭に同名の会社があるなんて、偶然にしては凄いですよね。。


三角橋の都道420号線から北へと道が下がっています。
水源池はこの坂を突き当ったマンションと邸宅との境に見えるあの木のあたりでしょうか。。

かつては、この都道に沿って流れていた三田用水は安全確実に江戸の町まで水を運ぶために、ひたすら標高の高い場所を選んで水路は造られていました。
それを分水嶺に例えると、三角橋から確かにこうして地形が下がっているわけですから、むかしのひとの土地を見る才知はすごいですよね。。


古地図①📸
坂を降りた先をフェンス越しに見てみる👀

側溝の先に湧水池はあったと思われますが、敷地境界を真っ直ぐに2本並んだヒトんちの側溝があまりに立派すぎて、ワタシはそっちに見入っちゃいましたっ😆


古地図②📸
側溝から東側に移動して、マンションの敷地に沿って歩いて見る👀

少し道が左に傾いているのは、側溝を源頭部ととらえると、ここが東と西に迫り上がったV字の深い谷だったからなんですねー。


で、マンションのエントランス側に回ってみると、喚起を促す危険💦な急坂が谷底へと続いています。
水源池からの水路(青矢印)は坂を下ったあの奥ですね❗️


古地図③📸
今度は反対側の西側の谷へと移動してみました👀

建物の敷地境界を下った先を池からの水路は右から左へと(南から北)続いていたはずですが、いまは暗渠になっているのでしょうか。。


で、、肝心な宇田川のはじまりとなる池はいったい何処にあった❓もしくはあるのでしょうか🤔

…おそらくヒントはこちらの広大な邸宅(大樹荘)の東側の庭にあるはずですが、見ての通り確認など出来るはずもありませんでした💧
しかし、、なんでしょうね。
この邸宅は❓❓


代わりに水源池近くの窪地に古い井戸を見つけました👀
昔は湧水に恵まれたこの井戸で日々の暮らしが営まれていたのかもしれませんね。。


そんな三角橋周辺の2ヶ所の湧水地からの流れはこの上原中学校の南東角あたりで合流したようです。



その流れは、昭和初期の地図には現在の中学校東側の街路樹に沿うように、北側に向かって描かれています。

街路樹の落ち葉に隠れた量水器にもこの学校の歴史の古さが感じられますね。。


水路はこの先、井の頭通りを越えて、代々木上原の駅へと続きますが、なんだかこの交差点って不自然に盛り上がっているように見えませんか❓

で調べてみると、当初の井の頭通りは貯水池の水を世田谷区の和田堀給水所まで通した送水管の上に造られたために高さが生じ、その後、渋谷まで道路が新設された際も地表レベルはそのままに保たれていたからなんですね❗️
もちろん新設道路には送水管は埋まっていません。


はなしは戻り、水路は代々木上原駅のガードを抜けて、矢印先の小さな駅前公園に向かっています👀



実はこの西原児童公園あたりで、今まで追ってきた三角橋からの流れと、これから見に行く2箇所の源頭地(大山園と徳川山)からの流れは集まって、代々木八幡方向へと続いた結果、宇田川は誕生するんですねー❗️



そんな宇田川誕生の記念になりそうなこの公園も、残念ながら川は暗渠化されて、歴史と共に厚いコンクリートの蓋のなかに入れられてしまいました。。
公園の階段に残る橋のような遺構はそんな昭和の中頃に作られたもののようですね。


次回は、宇田川源頭部の残り2ヶ所、大山園と徳川山周辺を歩いてみます。。。🐌
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目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その4

2022-01-21 | 街歩き・歴史散歩
散歩ついでに街角で見つけた石のはなしが思ったよりも長くなってしまいましたが、これでお仕舞いにしますね…🐌




目黒の住宅街で見つけた戦前に建てられた境界標石。。

「田中」と個人名が刻まれた石は立派な白ミカゲのようですが、なんだか見ればみるほどこの風情って近所のアレと似てるような…🤔




そうっ👆
アレとは池尻に残る駒沢練兵場の陸軍境界石。
道端に建ってるだけなのに、なんだかただモノじゃないオーラが似てる気がしませんか?


そんな田中さんの境界標石なのですが、一体どんな方だったんでしょうね。。


余計なお世話なんですが😅、、
ちょっと調べてみたくなりまして、地元の法務局で100年以上前の旧土地台帳からざっと辿ってみたところ、意外にもこの地番に当たる所有者には歴史のなかでその名を残す人物が何人もいるものの、残念ながら田中さんの名前は見当たりません。

そこで、大正11年に土地所有者だった実業家の望月軍四郎が山林を開墾した記述をヒントに、その後田中さんは移り住んだと仮定して、当時の住宅地図から探してみることにしました。
因みに昭和のはじめは関東大震災で罹災した人らが地盤の固い目黒や世田谷に移り住んだ時期にちょうど当たります。




そして、これが昭和10年の住宅図。

で、ありましたっ👀

🔴の2つの標石が建つ場所に「田中大太郎」さんのお名前を見つけました!
やはり田中さんは90年前のこの場所に確かに住んでいたんですねー。



再び余計なお世話なんですが😅、、
携帯片手にどんな方か?と調べたのですが、またもや名前が見当たらず。

90年前の地図に氏名が載るなら、社会的に地位のある方のはずなんですけどね🤔


そこで、この土地がいつ田中さんに文筆されたのか?を旧土地台帳から探ってみることにしたのです。
文筆とは今回法務局で学んだのですが、ある土地を登記上に分割する手続きを表す不動産用語。
語源はさておき、チョンマゲ時代からなんだかそのまま使われている言葉…ではないかと思われます。

昭和10年の地図で田中さんが住んでいたことはわかったので、それ以前に文筆した記録を土地の地番から調べて、新たな地番の台帳を見れば良いというわけですねっ👆
因みに地番というのも、番地とは違う不動産語でややこしいのですが…


そして、旧土地台帳の記録からわかったことをざっとまとめてみました📖

●大正10年からの所有者で実業家の望月軍四郎が昭和2年にこの土地を文筆して新たな地番が登記されている

●昭和3年に文筆された地番の土地所有権が田中◯に移転。

●昭和5年に開墾。山林から宅地へと変わり地価も大きく修正されている。


このことから、90年前に自分の土地に立派な境界標石を建てた方は、昭和10年の古地図に記載された田中大太郎さんではなく、その5年前に土地台帳に登記された「田中◯」さんではないかと思われます。
両者はおそらく親族だとは思いますが…。

敢えて名前を伏せたのは、調べると幾人かの同姓同名が存在するため、特定することができなかったからなのです。

それでもヒント💡として、

●昭和5年に目黒へ転居してくる以前の住所が渋谷駅前の渋谷警察署に隣接する住宅地で当時の庶民には手軽に住めない場所だということ。

●個人の標石とはいえ、材質やサイズまでも陸軍標石に似た作りだということ。
おまけに当時の世相を考えて、周りに忖度せず自宅に建てることができた意味。

●敷地が大通りに面して四周を囲まれた立派な屋敷構えだったと古地図からわかること。


…を踏まえて、そのなかのひとりに陸軍のトップ階級の名前があるため、その方かな⁉️と思ったりもしていますが🤔

🐾

🐾

結局、街で見つけた西郷標石や田中標石の人物を探し当てるまでには至りませんでしたが、この土地を深く調べるほど明治から続く時代の功労者の名前(詳しく書けませんでしたが浜口陽三のアトリエも!)が古い土地台帳に次々と現れては消えていくことを目の当たりにできて、なかなか貴重な体験だったと思っています。

100年以上前の色褪せた冊子がオタクな散歩好きに、地元の土地に埋もれた歴史の断片を今回こっそり教えてくれたのかもしれませんが笑

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目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その3

2022-01-13 | 街歩き・歴史散歩
ワタシが今まで見た戦前の希少な標石といえば、山のなかでは宮内省御料局の宮標石、街中では陸軍の境界石あたりを挙げられますが、今回目黒の住宅地で見つけた個人名が刻まれている境界石はホントに初めて。。



しかも、「田中」「西郷」と違う名前がふたつも並んでいますっ。

石に土地の境を標すばかりか表札の役目まで担わせるとは、、🤔
やはり地位のある人物だったのでしょうか。




「田中」と刻まれた石から見てみます👀
池尻で見た陸軍の標石と同じような作りの立派な御影石で出来ています。

そして背後に見える小さな石が、、


これですっ👆
西郷から下の文字が埋もれていますが、「家」と読める気がしませんかっ👀



石のアタマには境界点を示す穴が開いているので、この西郷石も確かに境界石であることは間違いはなさそうです。



一方、田中さんの石にも、はっきりとした境界点があります。
実は田中さんのほうは、西側と東側の敷地の角にそれぞれ立派な境界石が残っているのですが、西側の石は見ての通りにすっかり埋もれています。

うむ。やはり調べてみようかな。。🤔



まずは今もこの土地が田中さんと西郷さんのものかどうか?を確かめてみることに。
だって、もしそうならこれ以上ツッコんではダメって気がしませんかっ💦




で、この土地の古い記録簿が登場っ👆

あとからお話しますが、100年以上も前のこの土地所有者は、現在検索をするとすぐに出てくるような歴史的に名を残す方々が記録簿に並んでいたのです。
(因みにその他の個人名は塗り潰しています)

これは旧土地台帳といいまして、明治の地租改正以降から戦後までの国の税金徴収目的で使われていたもの。
今も地元の法務局で誰でも見ることが出来るため調べることが出来たというわけなんですねー。

が、、肝心な田中と西郷の名前は見当たりません😯
ワタシの無責任な憶測としては、西郷従道が台帳に登場することを願っていたため、ちょっぴり残念。。

西郷従道とは西郷隆盛の弟でして、この方はかなりの兄想いだったらしく、身体を壊した兄の静養地として、明治初年頃にこの標石の建つ場所からそれほど離れていない目黒川沿いに広大な土地を購入しているのです。
のちにそこに本人が立派な屋敷を建てて、一帯は西郷山と呼ばれるまでになったのですが、当時の地租改正で税を払えなくなった周辺の農家から山林や農地の買い上げを頼まれた従道の所有地は最大14万坪にまで及んだとか。。
だから、この西郷石の建つ場所もその一部じゃないか⁉️
…と思ったわけなのでした😅

ただ、土地台帳が制度化されるのは明治20年過ぎてから。
もしそれ以前に西郷従道がこの土地を手放していたとしたら、記録は残ってないということになりますよね?
やはり真相は藪のなか。。
西郷標石のみが知るってことでしょうか🤔


しかし、台帳に残るこの土地の所有者らが意外な大物だったことが今回判りました。

まず台帳に最初に記録された所有者の深川亮蔵という方は、明治24年に古川源太郎に譲与していますが、調べてみるとどちらも旧佐賀藩の鍋島家の重臣だったのです👀

どうやら、鍋島家は海外渡航で不在が多かった若い殿様に代わって、元教育係でもあったこの方々の手に明治維新後の旧鍋島藩の全業務は委ねられたのだとか。。
具体的には、設立した第三十国立銀行の頭取に就任して旧佐賀藩の経済基盤を作り、佐賀や東京にたくさんの土地を購入して利を得たり、、
と外面的には全てはこの人らの名前で行われていたのです。
だから、台帳の登記名がお殿様じゃないってわけか…🤔




これは明治初年頃の古地図です👀

現在標石が建つ位置の下あたりに「茶」と記載がありますが、おそらく、旧土地台帳に記録された鍋島家の土地がこの茶畑かと思われます。

茶畑といえば、ここからほど近い渋谷の地に鍋島家は「松濤園」という広大な茶畑を作らせて、旧藩士に狭山茶を生産させた時期もあったため、この目黒の土地の茶の生産も松濤園と加えて、利を出していたのかもしれません。

のちに松濤園は分譲されて都内屈指の高級住宅地として地名だけが残っています。



…と、目黒のある土地を巡って明治維新の立役だった西郷家から鍋島家へ、、と散歩途中に見つけた石を端にはなしをずいぶん膨らませてしまいました。

が、その後もこの土地所有者の変遷はなかなか面白く、鍋島家から幾人かを経て、明治の横浜発展の礎を築いた実業家の小野光景、そして早稲田や慶応をはじめ日本の教育、研究施設に多額の寄贈をした実業家の望月軍四郎などが記録上に連なっていることが判りました。

やはりここはただの山林、、というよりもなんだか持っていたくなるような意味のある土地だったように思えてなりません🤔


次回はもうひとつの「田中」の石について調べてみたいと思います。



マイマイネタはしばらくお休み。すみません。。🐌
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目黒・散歩途中に不思議な境界石を見つける その2

2022-01-11 | 街歩き・歴史散歩
前回記事に続き、散歩途中に楽して見られる陸軍境界石がまだあったことを思い出しました。


それがこちら👆
世田谷区池尻の陸軍用地と刻まれた境界石は、墓地と隣接する専門学校の境で今もまるで現役のような存在を示しています。


御影石のアタマが十字に刻まれていますね…👀

十字の意味は敷地が四等分に分かれた場所だと示すため。
でも、ここはただの一本道だし。。🤔


で、大正時代の古地図を見ると、この池尻から246号線を東側に越えた一帯は陸軍の駒沢練兵場で、境界石は練兵場のちょうど北西の角の民有地と個人墓所の境に設置されていたようです。

当時、柵があったかは分かりませんが、広漠な場所だからこそ、ここには幾つもの標石を立てて(現在、他の標石は埋もれていて、上部だけ見ることができます)、当時は土地の区別を明確にしたかったのかもしれません。

…このように立派な御影石の「陸軍」標石だけでもなかなか珍しいものの、先日、目黒区の松見坂の住宅地の裏路地を散歩中に、個人名が刻まれた2つの境界標石が偶然並んでいることに気づいたのです。


まずは右手が以前見つけた「田中」と刻まれた立派な境界石で、左側の小さなものが今回見つけた石。

なんだか「西郷(家)」と読めるんですよね、、、。

しかし、昨今は個人情報やらなにやらあるため、慎重にやらなきゃいけません💧
ちょっと調べてみようかな…。



再び続く。。🐌

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散歩途中に境界石を探してみる

2022-01-03 | 街歩き・歴史散歩
これまでぶらぶらと歩いては、世田谷や目黒に残る歴史のカケラを何度か探してきましたが、改めて思うのは、ワタシってなんだか訳もなく石が好きなんですよね。。


石といっても自然風化の奇岩を観るよりも、玄関を出れば至る所でお目にかかることのできるような境界標石みたいなものに惹かれるのですねー。

因みに写真の👆は、ウチの前の道路に埋まった境界石。おそらく砂利の入った雑なコンクリート作りは戦後あたりじゃないか、、と。

境界石って土地所有において、土地の境界を示す大切な設置標なのですが、おそらく、ほとんどのヒトはその存在にたいして気にも留めないでしょうね。
しかも、この境界標は石やプラスチックや金属じゃなくとも他のものでも構わないのだとか。。

それで思い出したむかし話をひとつ😲
会津の山奥で当時一人暮らしをしていた齢80を越えるワタシの祖母が、家の裏庭に立つ柿か栗?の木を勝手に邪魔だと切ってしまったことで、隣の家との間で訴訟にまで発展してしまい、祖母が敗訴したことがあるのです。
これは、切った木が隣の敷地との境界木だったことが裁判所で認められたからなんですねー。
そんなことなど全く知らなったおばあちゃんがなんだか可哀想なんですが、、。


やっぱり木が境界標じゃ不安だし、、💧
というわけで頑強な花崗岩で作られた標石もあるわけでして、これは、世田谷区代沢の陸軍獣医学校敷地跡に残る「陸軍省所(轄地)」と刻まれた境界石ですね❗️
ここには敷地のまわりに、合計3つも陸軍標石が残っているので、マニアには興味深い場所かもしれません。。


お次は、淡島通りを渡って世田谷区池尻へ。。👀
陸軍騎兵第一連隊跡地の石垣に沿って歩いています。

戦前は騎兵山と呼ばれた台地上にあった騎兵第一連隊の石垣は、昭和に入ってからの脆弱なコンクリートで作られた他の戦争遺構と比べて、花崗岩で造られた立派な城壁そのもの。
当時日清戦争に続いて、日露戦に突き進もうと国内気運が高潮するなかでの軍隊の威厳をこの積み上げられた御影石からも感じられますねー。


その下をよく見ると、、👀
崖下のゴミ捨て場の脇には、とっくに役目を終えた花崗岩の崩れた塊だけが放置されていました。


すぐ近くにあった池尻偕行社住宅との境界でも、電柱のうしろで隠れん坊している石を発見しました❗️

さすが、かつては軍の町だけあって、ちょっと探せば、道端には面白いものがいろいろありますな🤔


お次は淡島通りを目黒側へと移動してみたいと思います。
実は、個人の名前が刻まれた戦前の標石が、ふたつも仲良く並んでいる場所を、最近見つけちゃったのですっ😆


続く。。🐌
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世田谷散歩・文士の住んだ街の大ケヤキ

2021-11-14 | 街歩き・歴史散歩
この頃のワタシがひときわお気に入りの場所が、、



ここ❗️
淡島通りの淡島から井の頭線の池ノ上駅に続く坂道を上がった住宅街から、ほんの僅かに道を逸れると、いきなり現れるこの大きなケヤキが聳えるお宅なのです。



都会って、土が欲しくとも見当たらない。買わなきゃマジで手に入らないんですよ…
だから、

どーしてこんなに育ったの😹⁉️
と、見るたび感動しちゃうんですねーっ。


まずはこの場所がいいっ😆
ここはあたりでもひときわ高い台地の上でして、昔ならばきっと風の通りも見晴らしも抜群だったと思うんですが、いまじゃ、びっしりと家がおもちゃのように並び、道も狭く、まるで迷路のような裏路地なのです。
私も何度かここに入って迷ったことがありますよ…😅

そして、戦前戦後は、文士と呼ばれる作家さんたちが移り住んだ、ちょっと他所とは違う空気が漂う場所でもあったりして。。

そんな永らく人知れずの場所だったからこそ、個人のお宅の庭でこのケヤキは、奇跡的に永い年月を生き続けられたのかもしれません。。



感動のもうひとつが、この木の姿❗️

狭隘ななかで見上げる樹形をうまく捉えきれないのがとっても残念ですが、普通ケヤキって一本の幹が立ち上がり、そこから扇のような枝がパーっと広がってカタチを作っているんですよね。

でも、都会の場合は、電線に掛かるとか、折れて落ちた枝で事故が起こる危険がある等などで、、
これって何の木だったっけ😦❓
…ってくらいに見事に枝が伐採されてしまうんですよ。

なのに、この木にはそんな気配やストレスが全くないっ❗️感じられないっ😤‼️

幹の太さばかりか、山でもまず見かけないほどにきれいな扇型の樹冠が青い空に映えている姿はホントいつ見ても素晴らしいのひとことなのです。

そう。迷路のなかを探し当てた人だけに姿を見せてくれる都会のなかのステキな木なんですねー😊



この木は世田谷名木100選に名を連ねています。
名木マップとあわせて、文士が住んだ下北沢周辺の文士町文化地図も世田谷区のホームページで紹介されているようです。

ご興味あるかたは、是非この大ケヤキを探し当てて下さーい👋



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目黒 将軍家お鷹狩と御成道を辿ってみる その2

2021-07-20 | 街歩き・歴史散歩

前回からの続き。。

江戸セレブの年中行事🐎🐎🦅
駒場野のお鷹狩(鶉狩)で、将軍が辿ったルートをお散歩しています。

目黒区郷土研究第312号には14代将軍家茂が道玄坂を通過したのが、午前10時過ぎとあるので、おそらく到着は10時半頃でしょうか。。


まずは古地図を使って、御鷹場を確認します👀

どうやら鷹狩は、舞台が演目ごとに場面が変わるように、場所を移って催されたようです(赤①〜③)。
そこを含めて将軍が高みから見物をするための御立場が合計5箇所(⭕️)、そして、大老、老中の控え所も最北西(★赤マーク)に設営されていたようです。




そんな御鷹場口の御成橋がこのあたり…👀

早朝にお城を出立した将軍は、宮益坂から道玄坂を抜けて、現在の山手通りの本法寺角を入り、ここに到着したらしい。。

御成橋は、御成門手前の三田用水に掛かっていた石橋なのですが、よく見ると横切る道がわずかに盛り上がっているのが用水路跡なんですね。

そして、御成門を抜けた将軍御一行は、華やかな幕が張られた内で、前夜から泊まりの大老井伊直弼はじめ、老中、家臣一堂のお目見えを受けたそうです(御成懸け)🎌🎌

ま、そんなハレの場も、今じゃ見てのとおり気配どころか、人影も何にもないただの路地裏なんですけどね…😅



それから、小休止後、御一行は道路の突き当たりの駒場東大方向に移動を始めるのです🏇🏇🏇

しかし、、
将軍って実際はどの時点で籠を降りて、馬に乗ったのでしょうか❓
幕府も後半になると、病弱な将軍が続き、颯爽とした馬駆で、見事に獲物を狩るとは到底思えないような気がするし、、



移動した先は、この門の奥🏇
東大先端科学技術研究センター内の六本松御立場(古地図①)なのです。


国家機密の技術開発を進めているからか笑❓、ここは今でもなかなか立ち入ることの出来ない場所でもありますが、将軍の前で臣下一同は馬を下りて整列敬礼(下乗)したそうです。
これは、開会の儀みたいなものかな❓


で、お次。
いよいよメインイベント会場に移動しますっ🏇

それが中丸御立場(古地図②)で、お鷹狩がやっとはじまるわけですね❗️
現在の駒場公園内の旧前田公爵邸あたりがそれ。
ここ、今は気軽に見学できる地元民の憩いの場なのです。。😌


加賀といえば百万石✨
芝がよく手入れされた旧前田家屋敷の庭園も、御鷹場の頃は赤松が点在する草深い地だったらしく、将軍も馬上で草を分けつつ、狩を楽しんだのでしょうか。

どうやら、駒場野の鷹狩といえば、鶉狩が有名だったそうでして、勢子と呼ばれた追い立て役が、あらかじめに飼育された獲物を将軍の御立場に向かって追いやり、各々配置された大勢の役人や農民らが声を挙げて、場が最高潮になったところで、いよいよ将軍が登場🏇✨✨

…と完璧にヤラセだったそうですよ❗️

しかも獲物だって、草むらに潜んだ黒装束の鷹狩専属の役人(綱差)が、あらかじめ翼を傷つけた鳥を絶好のタイミングで将軍の前に放したらしく、これじゃあ、幕府がまもなく斜陽を迎えるのもわかる気がします。。。


その間、大老や老中のお歴々は狩には同行せず、今の三角橋交差点そばの東大宿舎あたりに幕を張り、寒中を待っていたそうです。寒そうっ❗️


狩も終わると再び移動🏇🏇
最後は臣下の最大の見せ場となる、前丸御立場(古地図③)での馬術演技がはじまります👏👏

図のように、将軍は高さ6メートルの壇上から臣下の馬術を観覧したそうですが、その場所が、いまの駒場東大の正門広場あたり。

かつての幕府御鷹場のほとんどを占める東大キャンパスも、少し前ならば地元民にオープンな場所でしたが、昨今の事情で全く入れなくなったのはとても残念ですね。

…と、ここまでが駒場野のお鷹狩のおおよそのスケジュール。


🏇

🏇


その後、一堂集まって、御鷹場南側の柵門、いまの駒場東大の梅林門を出るのが12時半🕜

全行程2時間の寒中イベントになりました❗️


門を出た将軍御一行は、井の頭線の踏切を渡り(笑)、南下していきます。


今も残る一直線の御成道は、静かな住宅街のなかにあります。

きっとむかしは見渡す限りの畦だらけを、ここだけが「何人も踏むべからず」の、セレブ専用道だったんでしょうね笑


そして話を戻すと、この御成道の傍に、山下奉文の邸宅があったってわけなんですねー!


滝坂道(現 淡島通り)に出ました。

ちょうど道路向かいの駒場高校正門あたりに、幕府御用屋敷の御成門はあったそうです。

この御用屋敷で将軍は、菓子やお酒で臣下を労ったそうですが、ここには将軍の御膳所や御休憩所のほか、鷹狩全般を管理した鳥見役所、そして幕府直轄の御薬園もあったそうでして、広さは五万五千坪…

今でいえば、淡島通りと246号に挟まれた目黒区大橋から世田谷区池尻四丁目までの広大な敷地だったようです。


もはや、そんな江戸歳時記の風景は全く失せてしまいましたが、淡島通りの駒場幼稚園門脇のケヤキの古木と、、




246号の大橋病院入り口から入った先の駒場高校運動場脇の立派なアカマツ。。




そして、目黒区の御鷹場説明板の背後に聳える、警視庁第三機動隊門脇の大ケヤキ、、

あたりが、将軍の時代の貴重な生き証人かもしれませんね。



…というわけで、またもや近所で新たな発見👀❗️
楽しいご近所散歩になりました。


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目黒 将軍家お鷹狩と御成道を辿ってみる

2021-07-19 | 街歩き・歴史散歩
前回の歴史散歩では、松見坂の日蓮上人像とそれに関わる2.26事件のはなしを端に、駒場の陸軍偕行社住宅周辺を、事件当時(昭和11年)の古地図を見ながら、近所をふらふらと歩いてみました🐾


さて、こちらは戦前の駒場周辺の地図…👀

偕行社住宅の北西口から帝都電鉄(京王井の頭線)の一高前駅に続く道と空川に挟まれた場所に山下とあるのが、のちの陸軍大将 山下奉文の邸宅ですね。

そんな山下邸のすぐ脇に、かつては「御成道」と呼ばれる道があったことを最近知ったのです。

おなりー、、で思い出すのは時代劇でおなじみの大奥に将軍が来た際にかかるあの言葉❗️
つまり江戸城内でなくとも将軍が通る場所は御成道✨や御成橋✨に変身しちゃうんですね。。🤔

もしかすると、マレーの虎の陸軍大将もここがそんな道✨だと知っていて、家を借りたのかもしれませんが、、とにかく何故ここに将軍がわざわざ御成になったのか❓を検索で少し調べると駒場野の鷹狩がお目当てだったことがわかりました。
これは近所の歴史散歩にうってつけですよねっ。


まずはGoogle検索だけでは覚束ないので近所の図書館で借りた目黒区郷土研究第311号の「鷹狩の話」で、コースを確認するとともに鷹狩への知識を得ることにしました。

因みに鷹狩って、🦅を狩るんじゃないですよっ。
🦅を使って、獲物を馬上から仕留めるんですよっ。念のためっ笑



どうやら、将軍家の鷹狩は時代に拠って内容が変わっているそうなので、今回は郷土研究誌の資料にある、安政6年に14代将軍家茂が行った冬の鷹狩に注目して、御成ルートを古地図上に描いてみました。

千代田のお城を出立して三宅坂〜赤坂見附と、今の246号を進んで宮益坂へ。

◯そこから渋谷川を渡り、道玄坂あたりから右折。

◯道なりに進んで、突き当たりを直角に曲がり、右手の大名屋敷を横目に左に入る。

そして三田用水の御成橋を越えて、駒場野御鷹場の御成門に到着。

ざっとしたコースはこんな感じでしょうか。



ひとまず、江戸城からではキツイ💦ので、無理せずに近場の渋谷宮益坂からスタートしますっ🐾

三宅坂からここまでの道路がやたらと広いのは、将軍の御成道だったからなんですねー。


再び資料を読むと、、👀
渋谷駅前のヒカリエ脇のビルに埋もれたこのあたりに建っていた妙祐寺という名刹で、お鷹狩前日から大老の井伊直弼はスタンバイしていたようです。

どうやら、大老も将軍同様に前年就任したばかり、、ということは、自身の威厳と年若い将軍の御為にも気合いが入りまくった大大イベント✨🦅だったろうよ。。

が、そのわずか数カ月後に雪の桜田門で首を取られてしまうのですから、、一寸先は闇ばかりの世ですね😑



道向かいのビルの隙間には御嶽神社の鳥居が見えています。

ここには江戸の頃、隣に千代田稲荷というお社も並んでいたらしく、どうやら両方のご利益にあやかって宮益という地名がつけられたそうです。

因みに千代田稲荷は、江戸城が築城の際、城内に勧請されたのがはじまりで、後にこちらに移されたらしいので、将軍も鷹狩の際は必ず参拝したのかもしれませんね。



そんな宮益坂を下り、渋谷駅のガード下まで移動してきました🐾

渋谷村と言われたむかしには、この山手線ガードに沿って渋谷川が流れていまして、その脇には彦太郎という農民宅があったようです。
どうやら、その家に大老同様に前日から4人の老中が控えていたんだとか…きっと彦太郎一家もその間は追い出されていたんでしょうね😓


そして、お鷹狩当日の早朝☀️☀️
将軍が出立した知らせを受けると、大老らは家来とともに狩場へと先回りして、野ざらし、吹きさらしの寒い駒場野の控え所で待っていたそうです。

控え所にはいくつかの厠があったとまで記録がありますが、そりゃなきゃヤバイですよね。。トイレは❗️



そんなお歴々の前夜からの苦労を他所に、いよいよ年若い将軍の華やかな行列が宮益坂を過ぎて、道玄坂まで御成になりました👏👏



古地図を見ると将軍御一行は、道玄坂109ビルを過ぎて、このあたりの道を右に入ったようですが、もしやここって、、、💧


ワタシがセンター街よりもいちばんに苦手としている道じゃないですかっ💦
御成道がまさかのカオスなこの路地だったとは…軽くショックを受けたのでした😑


さっさと抜けて💦、東急本店前の大きな通りに出てきました。

オーチャードホールや松濤美術館などが続くこの通りは、松濤文化村ストリートと現在呼ばれています。
ここも道が広くて真っ直ぐなのは、御成道として整備されたからなんですねー。
じゃ、さっきの狭くてワイ雑な路地はなんなんだっ💢



御成道もいよいよ御狩場近くの山手通りに出てきました🐾

古地図にはこの角に、長谷川久三郎の名前がありますが、この家は二代将軍秀忠の側近の頃から続く大身旗本。
鷹狩の際、秀忠から渋谷の広大な土地を拝領したそうですが、どうやら代々の久三郎は幕府の軍役に関わる役職に就いていたらしいので、お鷹狩時は警護の責任者だったのかな。。



そんな長谷川屋敷を右へ曲がって、将軍御一行は御成道(現 山手通り)を進んでいきます🐾

古地図には長谷川久三郎屋敷に続いて、水野越前守と紀州下屋敷の名が連なっていますが、御鷹場だけあり、ガードがめちゃ固かったのがわかりますねっ。

因みにこの水野越前守は、歴史で習った天保の改革でおなじみの水野忠邦の屋敷らしく、幕政で失脚した後はこの下屋敷で亡くなったそうですよー。
しかし、日頃からぶらぶら🐾しているが、少し突っ込むと何かしらのエピソードがこのあたりはいちいち出てきますねっ😅



こうして、千代田の城から御成の将軍御一行✨✨

このお寺の脇道を入れば、いよいよ御鷹場に到着なのですっ🙌



続く。。🐌

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