都会に越してきて、15年程が過ぎた、、と思う。
しかも、ちょっと歩けば周りはかつては軍都と呼ばれた土地だったりするので、これまでも面白そうな歴史のカケラを偶然に道端で見つけることもしばしばなのです。
で今回は、、👀
三宿の交差点から広がる陸軍用地に焦点を当てて、かつての軍人さんが出入りをしていた門の位置を特定してみることにしました。
実は以前にもこのあたりの史跡について、ブログ→世田谷下馬・裏路地歴史散歩 - マイmy巷話で触れたことがあったのですが、広すぎる土地に三つの連隊と司令部が並びあっているだけあり、やみくもに歩けば歩くほど、はなしの収集がつかなくなったような記憶🌀があるため、今回は潔く、かつ効率よく回ることで納得したいな、、というわけなのです。
そんなわけで、戦前作製で戦後まもない昭和22年補修のこの地図に記載されている各連隊の営門や通用門の合計11箇所が果たして今はどんな風景になっているのか❓を確かめに出かけてみたいと思います🐾
まず①番は、野砲重砲兵旅団司令部があった敷地の営門あたりから。。👀
当時、終戦直前の爆撃で、司令部を含めた三宿の国道246号周辺はすっかり焼失したようですが、現在ここはスタイリッシュな賃貸マンションのエントランスになっていました。
②番めは三宿中学校の門。
ここにはかつては近衛野砲兵連隊の通用門がありましたが、時を経ていまは子どもらの学舎の門へと生まれ変わっているようですね。。
続く③番は、現在世田谷区の学校給食の調理場施設の門になっていますが、ここには近衛野砲兵連隊の営門があったようです。
側道へのアプローチがやけに広く取られているのも、実はここが野砲兵連隊の正門だったからなんですね❗️
そして、近くの住民の方から聞いたはなしでは、この先の政府宿舎の場所には、戦後しばらくの時期まで砲台が幾つか放置されたままだったとか。。
今ではなかなか貴重な記憶ですね。
そして、④番め。
三宿通りから三軒茶屋方向へと真っ直ぐに続くこの道路は、駒澤練兵場から一番距離が離れていた野砲第一連隊までを繋ぐショートカット道かと思われます。
曲がりくねった昔からの道が多い池尻、三宿近辺で、意図的に真っ直ぐ続く道には、実はそんな理由があったのですねっ。
そして、⑤番めのこちらには、かつての野戦重砲兵第8連隊の営門がありました。
現在、斜めに削られた敷地の一部が公園になっていますが、その奥の店舗あたりに正門は設置されたようです。
この連隊は、重砲の牽引や兵員移動の全てを馬や人力に頼らず、牽引車や自動車、オートバイを使ったことから、当時は画期的な機動部隊だったとか。。
そして、三宿通りから右折して路地を入ったこちらにも、野戦重砲兵第8連隊の通用門があったようですが(⑥番)、道路の真ん中に聳え立つ、あの大きなケヤキの木ぐらいが、貴重な生き証人なのかもしれません。
緩いカーブの続く箇所には陸軍用地と刻まれた標石が今もふたつ並んでいます。
そして、ここが野砲第1連隊の通用門だったようですね(⑦番)
片方の標石は、ちょうど道路の角に当たるため、なんども車に轢かれたようでして、痛々しげにテープで手当てがされています。
その先、野戦重砲兵第8連隊と野砲第1連隊の敷地境界では、埋もれた標石を見つけました。
古地図を見ながら、陸軍用地に沿って西へと回り込んだ先に、かつては野砲第1連隊の営門があった広い交差点が見えてきました。(⑨⑩番)
実はここ、仕事でたびたび通るたびに懐かしい風情の銭湯♨️の建つ、ちょっと不思議な形状の交差点だな、、と気にはなっていたのですが、やはり、そーいう理由があったからなんですね。。納得っ。
すぐ先には、境界柵らしきコンクリート支柱が一本だけ何故か取り残されていました。
因みに現在、ここは政府の宿舎なんですが、実はこういう廃物って、割と公共施設や官舎にそのまま放置されていたりするんですよね。。
いよいよ最後の11番目まで来ましたが、商店街のこの一角に野砲第1連隊の通用門はあったはず❗️
どうやら、三宿から賑やかな三軒茶屋の商店街までをかつての陸軍用地に沿って、いつのまにか回ってきたようですね。。
目的のある散歩の場合、やはり時間が経つのが早いな。。。
こうして、100年近く前にたくさんの軍人さんが出入りしていた4施設、計11箇所の門の跡地を回ってみましたが、さすがに具体的な痕跡はなかったものの、その後に計画された道路の形状や残された境界標石から、納得する場所もあったのは確か。
ひとまず今回はここまで。
お疲れ様でしたー。。。🐌