マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

目黒 将軍家お鷹狩と御成道を辿ってみる

2021-07-19 | 街歩き・歴史散歩
前回の歴史散歩では、松見坂の日蓮上人像とそれに関わる2.26事件のはなしを端に、駒場の陸軍偕行社住宅周辺を、事件当時(昭和11年)の古地図を見ながら、近所をふらふらと歩いてみました🐾


さて、こちらは戦前の駒場周辺の地図…👀

偕行社住宅の北西口から帝都電鉄(京王井の頭線)の一高前駅に続く道と空川に挟まれた場所に山下とあるのが、のちの陸軍大将 山下奉文の邸宅ですね。

そんな山下邸のすぐ脇に、かつては「御成道」と呼ばれる道があったことを最近知ったのです。

おなりー、、で思い出すのは時代劇でおなじみの大奥に将軍が来た際にかかるあの言葉❗️
つまり江戸城内でなくとも将軍が通る場所は御成道✨や御成橋✨に変身しちゃうんですね。。🤔

もしかすると、マレーの虎の陸軍大将もここがそんな道✨だと知っていて、家を借りたのかもしれませんが、、とにかく何故ここに将軍がわざわざ御成になったのか❓を検索で少し調べると駒場野の鷹狩がお目当てだったことがわかりました。
これは近所の歴史散歩にうってつけですよねっ。


まずはGoogle検索だけでは覚束ないので近所の図書館で借りた目黒区郷土研究第311号の「鷹狩の話」で、コースを確認するとともに鷹狩への知識を得ることにしました。

因みに鷹狩って、🦅を狩るんじゃないですよっ。
🦅を使って、獲物を馬上から仕留めるんですよっ。念のためっ笑



どうやら、将軍家の鷹狩は時代に拠って内容が変わっているそうなので、今回は郷土研究誌の資料にある、安政6年に14代将軍家茂が行った冬の鷹狩に注目して、御成ルートを古地図上に描いてみました。

千代田のお城を出立して三宅坂〜赤坂見附と、今の246号を進んで宮益坂へ。

◯そこから渋谷川を渡り、道玄坂あたりから右折。

◯道なりに進んで、突き当たりを直角に曲がり、右手の大名屋敷を横目に左に入る。

そして三田用水の御成橋を越えて、駒場野御鷹場の御成門に到着。

ざっとしたコースはこんな感じでしょうか。



ひとまず、江戸城からではキツイ💦ので、無理せずに近場の渋谷宮益坂からスタートしますっ🐾

三宅坂からここまでの道路がやたらと広いのは、将軍の御成道だったからなんですねー。


再び資料を読むと、、👀
渋谷駅前のヒカリエ脇のビルに埋もれたこのあたりに建っていた妙祐寺という名刹で、お鷹狩前日から大老の井伊直弼はスタンバイしていたようです。

どうやら、大老も将軍同様に前年就任したばかり、、ということは、自身の威厳と年若い将軍の御為にも気合いが入りまくった大大イベント✨🦅だったろうよ。。

が、そのわずか数カ月後に雪の桜田門で首を取られてしまうのですから、、一寸先は闇ばかりの世ですね😑



道向かいのビルの隙間には御嶽神社の鳥居が見えています。

ここには江戸の頃、隣に千代田稲荷というお社も並んでいたらしく、どうやら両方のご利益にあやかって宮益という地名がつけられたそうです。

因みに千代田稲荷は、江戸城が築城の際、城内に勧請されたのがはじまりで、後にこちらに移されたらしいので、将軍も鷹狩の際は必ず参拝したのかもしれませんね。



そんな宮益坂を下り、渋谷駅のガード下まで移動してきました🐾

渋谷村と言われたむかしには、この山手線ガードに沿って渋谷川が流れていまして、その脇には彦太郎という農民宅があったようです。
どうやら、その家に大老同様に前日から4人の老中が控えていたんだとか…きっと彦太郎一家もその間は追い出されていたんでしょうね😓


そして、お鷹狩当日の早朝☀️☀️
将軍が出立した知らせを受けると、大老らは家来とともに狩場へと先回りして、野ざらし、吹きさらしの寒い駒場野の控え所で待っていたそうです。

控え所にはいくつかの厠があったとまで記録がありますが、そりゃなきゃヤバイですよね。。トイレは❗️



そんなお歴々の前夜からの苦労を他所に、いよいよ年若い将軍の華やかな行列が宮益坂を過ぎて、道玄坂まで御成になりました👏👏



古地図を見ると将軍御一行は、道玄坂109ビルを過ぎて、このあたりの道を右に入ったようですが、もしやここって、、、💧


ワタシがセンター街よりもいちばんに苦手としている道じゃないですかっ💦
御成道がまさかのカオスなこの路地だったとは…軽くショックを受けたのでした😑


さっさと抜けて💦、東急本店前の大きな通りに出てきました。

オーチャードホールや松濤美術館などが続くこの通りは、松濤文化村ストリートと現在呼ばれています。
ここも道が広くて真っ直ぐなのは、御成道として整備されたからなんですねー。
じゃ、さっきの狭くてワイ雑な路地はなんなんだっ💢



御成道もいよいよ御狩場近くの山手通りに出てきました🐾

古地図にはこの角に、長谷川久三郎の名前がありますが、この家は二代将軍秀忠の側近の頃から続く大身旗本。
鷹狩の際、秀忠から渋谷の広大な土地を拝領したそうですが、どうやら代々の久三郎は幕府の軍役に関わる役職に就いていたらしいので、お鷹狩時は警護の責任者だったのかな。。



そんな長谷川屋敷を右へ曲がって、将軍御一行は御成道(現 山手通り)を進んでいきます🐾

古地図には長谷川久三郎屋敷に続いて、水野越前守と紀州下屋敷の名が連なっていますが、御鷹場だけあり、ガードがめちゃ固かったのがわかりますねっ。

因みにこの水野越前守は、歴史で習った天保の改革でおなじみの水野忠邦の屋敷らしく、幕政で失脚した後はこの下屋敷で亡くなったそうですよー。
しかし、日頃からぶらぶら🐾しているが、少し突っ込むと何かしらのエピソードがこのあたりはいちいち出てきますねっ😅



こうして、千代田の城から御成の将軍御一行✨✨

このお寺の脇道を入れば、いよいよ御鷹場に到着なのですっ🙌



続く。。🐌


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« かたつむりの親子の対面 その2 | トップ | ブルーインパルスがやって来た »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。