引き続き、都会のなかで失われた川のあとを古地図を見ながらのご近所散歩🐾
失われた、、とはいえ、その流路は現在は下水道として生まれ変わり、わたしらの生活に欠かせない存在としてあり続けるわけですから、決して終わったわけではないんですよね。。
森巌寺川の本流を明治から大正にかけての古地図で、改めて確認しましょう👀
当時、下北沢北側の村はずれは大山谷といかにも水が湧きそうな字名がついて、T字の谷になっているようです。
そんなT字谷の片側(地図①)周辺のすっかり整地をされた住宅街の玉砂利のなかに、四角い石が幾つか並んで顔を出しているのを見つけました。
これは水路の柵跡かな。。
もう一方の谷には、いかにも等高線をなぞったかたちに整備された、さんかく公園があるんですね❗️
ちなみにここの水路はこんな感じかな。。
2箇所の源頭部からの流れは、現在の北沢中学校の校庭あたりを抜けて、井の頭通りを横切った先の旧池ノ上小学校の西側に沿った(地図②)道を、暗渠の姿を残しながら、下北沢駅まで続いているようです。
さて、お次はこちらの京王線笹塚駅南側の玉川上水の取水口から三田用水がどのように、森巌寺川へと続くのかを見ていきたいと思います👀
ブログでも何度か取り上げている三田用水ですが、ここから高輪台に至るまで、幾つかの分水口を設けて、地域の灌漑、動力水車、工業用に利用したようですが、この森巌寺川への分水口は、実は玉川上水取水口から数えて一番最初だったりします。
つまり、安定した供給源の一番近くから、真っ先に引水できたのも、森巌寺が徳川家康ゆかりのお寺で、将軍の御鷹場と下北沢本村が接していたことと、関わりがあるのかもしれません。
実は、下水道としての使用箇所以外はいまはすっかり埋め立てられた三田用水ですが、たまに裏路地のわずかな隙間に、その跡が偲ばれたりもします。
下北沢駅からずいぶん離れた北沢5丁目あたりには、昭和の懐かしい雰囲気がまだ漂っているようですね。。
商店街の交差点には下水道マークのついた古い標石が幾つか埋まっていますが、ここは三田用水に架けられた橋のあとのようです。
井の頭通りに出ました👀
かつて山谷橋があったこの場所に(地図③)、森巌寺川への分水口(三田用水 山下分水)はあったようです。
井の頭通りはむかしは水道道路と呼ばれていただけあり、河川敷のような風情がなんだか漂っていますが、道路脇の草むらのなかに、うっかり見落としがちな接道が下へと続いているのを見つけました👀
降りただけで、5箇所もヤブ蚊に刺されました💧
暗渠の部分だけは草のなかからのぞいていますが、昭和初期の地図では、ここには釣堀という文字が見えているので、その頃の三田用水は庶民のレジャーにも使われていたようですね❗️
大正時代の古地図を見ると、三田用水の分水が森巌寺川に入り込む場所に、水車記号(地図④)が描かれていますが、おそらく農業用途でしょう。
水車のあった近くの庭先には、護岸石、もしくは小屋基礎のような大谷石が幾つか積まれています。
また、戦後まもなく、このあたりには牧場もあったようです。
その先、森巌寺川は下水道という名の暗渠のもとに、道路ポールと建物の間に続いています。(地図⑤)
この道路の一部が広くなっているのは、かつては橋、もしくは三田用水からの水路が合流した場所だからでしょうか。。
暗渠をどんどん下北沢駅に近くまで歩いてきました。
この一角だけ、暗渠の上が緑地になっています(地図⑥)が、木立に憩んでいた方のはなしでは、「昭和の30年代まで水あったけど、川じゃないよ、ただのドブだよ❗️」との感想をここでも、いただきました笑
駅の手前、ますます土地が下がっていることがわかる谷底写真がここでは撮れました👏
おそらく、戦前から戦後の下北沢駅は家の周囲を側溝がずいぶんと巡っていたのでしょう。
森巌寺川の暗渠沿いに建つ、アパートの奥も、階段を上がれば水路でした。
この小さな水路の場合、下北沢駅の再開発エリアのちょうど手前で、森巌寺川と合流していたようです(地図⑦)
古地図を見ると、ここには橋(築堤)があったようですが、現在は暗渠の上に新しい舗装路が造られていました。
すぐに暗渠はいったん途切れるため、階段を上がると、目の前には下北沢の新しい名所になっている、おしゃれな場所に出てきました。。
この先、再び、暗渠は淡島の森巌寺まで緑道に続いているわけですが、そこはあまりに見慣れた生活道なので💧、今回の消えた川探しはここでおしまいにしたいと思います。
因みに今日の歩きは12000歩ほどでした。お疲れ様です。。。🐌