今回も見知った町の片隅で、普段ならば気づきもしないあるモノにたまたま目が入ったことから始まるはなしをしたいと思います。
ま、どーでもいい雑記ですね笑
先日、バス待ちをしていた淡島通りの淡島バス停横手の電柱がやけに古そうだと気づいたのです。
そこには昭和36年の国立支、、そして22番と書かれた札がついています👀
60年以上も昔の国立からの電線が今も使われているのはすごいな、、とその時はその程度で流したのでした。
その後もこの地域の古い電柱をなんとはなく見ているうちに、これは正しくはNTTの電信柱で、地域の支線とその場所を特定する番号、、つまり、電信柱の住所だとわかってきました。
例えば、このコンクリート柱は昭和53年に立てられた下北沢の北沢八幡前のメイン路線の始点から12番目だといっているわけですね。
またこれは、昭和49年に設置をされた代田二丁目支線のメイン路線の9番めの、さらに左(L)側に路地を曲がった1番めだというわけね。。なんだかややこしい💧
そのすぐそばに、吹上支線12/R5(メイン路線12番目から右(R)に曲がった5番目の柱)と記された柱を見つけたものの、吹上という地名は代田周辺にはないので、一体どこなんでしょうかね。。
ヒントはその先、小田急線世田谷代田駅前のこちらのビルにありました❗️
代田吹上館正面に飾られた立派な説明板には、ここが江戸時代から大正まで代田村字吹上と呼ばれていて、北澤川北面崖上に位置する静かな農村だったことが記されています。
つまり、川からの風が常に吹上がる地だったから「吹上」だと分かりましたが、何故NTTは支線名にしたのでしょうかねぇ。つか、その頃電話なんてあったのか⁉️
そう考えると、、🧐
振り出しに戻りますが、私が淡島通りの淡島バス停で見た「国立支線」の電信柱は、まさか国立から延々に引かれるはずはなく、今では失われた地名❓のような気がしてきました。
で、淡島通りをメイン支線の1番まで、電信柱を辿ってみると、、
そこは茶沢通りとの交差点の代沢十字路。
おそらく、この交差点(1番電信柱)から淡島バス停(22番電信柱)あたりまでに「国立」はあったものと勝手に推測してみました🕵️
そこで毎度の古地図が登場しますっ👀
この電信柱が設置された昭和30年代の地図で確かめてみると、その電信柱の間に「国立」という文字を発見しましたっ❗️
これは、クニタチと読まずに、コクリツ(国立世田谷病院)と読まなくてはいけなかったんですねー。
当然いまは影も形もなくなっている、この「コクリツ」ですが、戦前は第二陸軍病院のあった軍用地だったことから空襲で壊滅状態に。
終戦後は国立世田谷病院として再建され、のちに国立小児病院へと改称されたという経緯を持つ、かなり重厚な歴史を背負った場所だったようですね。。
これもなかなかNTTの着目点が、すごいな🤔
そんなわけで、バス待ちの間に見つけた電柱の小さな札から、一気に時代を遡らせて、古い土地のはなしへと、またもや飛躍させてしまいました笑
この無理矢理感が、足元に転がるような歴史のカケラを探すには、実はなにかと後押しになったりするのです。。