前回のはなし:
松見坂交差点に建つお地蔵堂に配置されている郷土史のコピーで、このあたりに日蓮上人の石像が建っていたことを知りました。
時代は昭和のはじめ頃。。
どうやら、地元民にはなかなか目立った存在だったらしいのですが、一体どのあたりにあったのでしょうか…❓
というわけで、目黒区の図書館から借りてきた昭和10年3月作製、火災保険特殊地図の上目黒8丁目から、探してみることにしました。
淡島通りが東西に走り、新遠江橋の下には南北に空川が流れていますね。。👀
右はじが現在の松見坂交差点ですが、まだこの頃は環状線が南北に通じてなかったようです。
松見坂地蔵は、淡島通りから新遠江橋西側の階段を降りていき、旧道(滝坂道)に掛かった遠江橋ほとりの卍マークでしょう。
そして、お地蔵さんから北側に視線を動かして、鳥居の上のモニュメントを表す丸い○マークが日蓮上人像ではないかな、、と。
なんだか、割とあっさり解っちゃいましたが💧💧
確かにここなら、日蓮像が地域でも目立つ場所だったというのも納得ですよね❗️
ひとまず、古地図では納得したので、
お次は実際現地で確かめてみることにします🐾
松見坂交差点周辺は、昭和半ばの道路改修で大きく変わっているようですが、この松見坂地蔵堂と空川(暗渠)は変わらないままなので、古地図と見比べた結果、日蓮上人像があったのは、、、🤔
地蔵堂から坂を少し上がった自販機手前の歩道あたりではないかな、、と。
ま、そういうことにしておきましょう。
地蔵堂の脇には、空川に架かっていた遠江橋の親柱が、長い歴史の役目を終えて仲良く並んでいました。
目黒の郷土史コピーには、明治32年と享保11年の石柱があると書かれていますが、享保の方は年月を経て、もとの石の塊に戻ってしまったようです。
地蔵堂を裏手にまわり、空川跡もついでに眺めてみます👀
奥の階段あたりが旧遠江橋になりますが、明治の頃は煉瓦造の太鼓橋だったとか。。
因みに橋の名は、この地を所有していた宇和島伊達家藩主が代々名乗った遠江守(とおとうのかみ)からつけられたそうですが、石柱に刻まれた享保11年に在位していた将軍吉宗が駒場への鷹狩りの際に、空川の石橋普請を伊達家が幕府から命じられた経緯があったのかもしれませんね。
オリンピック然り、いつの時代もVIPのもてなしには周りがなにかと迷惑を被るものです💧
次回は、松見坂から消えてしまった日蓮像を探しに少し遠出します🐾