虚空蔵堂
正式名は村松山 日高寺。真言宗の寺院である
日本三大虚空蔵堂の一つとされる(他は三重県の金剛證寺と福島県の圓蔵寺)
明治33年(1900年)、近隣民家の火災から堂塔伽藍すべてが類焼するが本尊は焼失を免れた
その後、堂塔伽藍が再建され現在に至る
「手水舎」
「仁王門」
昭和45年(1970)の再建
扁額には「村松山」の山号
「仁王像」
仁王尊像には「正和4年(1315)謹刻」「文禄3年(1594)塗りかへ」との記載
境内案内図は寺巡りには欠かせないものだ。三重塔の場所も確認できた
「鐘楼堂」
「開運堂」 (十二支守り本尊) 虚空蔵菩薩以外の七尊が祀られている
「本堂(大摩尼殿)」
ここでは「丑と」「寅」が守り神となっている
大摩尼殿ともいい、大正6年(1917)の再建
大同2年(807年)に空海によって創建されたとされる(円仁開基の説も)
本尊は空海作の伝承をもつ虚空蔵菩薩
御前立本尊の両側には不動明王、毘沙門天王が安置されている
外陣の天井画
「鍾馗霊神堂」 鐘馗霊神の絵馬が祀られている
「鍾馗霊神」の扁額。延宝3年(1675)に伝染病が大流行した時、鐘馗霊神の絵を奉納したところ、大流行が治まったと伝えられる
「安産地蔵尊」
「奥之院(多宝塔)」
50年に一回の開帳記念として、昭和9年(1934)に建立された
本尊の大満虚空蔵菩薩が安置されている
「三重塔」 この寺を訪れるきっかけとなった三重塔、平成10年(1998)の再建である
再興百年記念事業として享保4年(1716年)建立の塔を再建した
古塔の趣を感じた理由がわかった
塔の高さが21m、大日如来が安置されている
「水戸八景いわれ書」
「村松晴嵐」 水戸八景とは、水戸徳川家藩主斉昭が、天保4年(1833年)に領内を巡視し八つの景勝地を選定したもの
「晴嵐の碑」 烈公(徳川斉昭)が書いた「村松晴嵐」の自然石
「出世稲荷堂」
茶吉尼天尊を祀る
高い場所から見える本堂
本堂横を通り
鐘楼堂を通り
仁王門に一礼して寺を後にする
撮影 平成30年10月9日
正式名は村松山 日高寺。真言宗の寺院である
日本三大虚空蔵堂の一つとされる(他は三重県の金剛證寺と福島県の圓蔵寺)
明治33年(1900年)、近隣民家の火災から堂塔伽藍すべてが類焼するが本尊は焼失を免れた
その後、堂塔伽藍が再建され現在に至る
「手水舎」
「仁王門」
昭和45年(1970)の再建
扁額には「村松山」の山号
「仁王像」
仁王尊像には「正和4年(1315)謹刻」「文禄3年(1594)塗りかへ」との記載
境内案内図は寺巡りには欠かせないものだ。三重塔の場所も確認できた
「鐘楼堂」
「開運堂」 (十二支守り本尊) 虚空蔵菩薩以外の七尊が祀られている
「本堂(大摩尼殿)」
ここでは「丑と」「寅」が守り神となっている
大摩尼殿ともいい、大正6年(1917)の再建
大同2年(807年)に空海によって創建されたとされる(円仁開基の説も)
本尊は空海作の伝承をもつ虚空蔵菩薩
御前立本尊の両側には不動明王、毘沙門天王が安置されている
外陣の天井画
「鍾馗霊神堂」 鐘馗霊神の絵馬が祀られている
「鍾馗霊神」の扁額。延宝3年(1675)に伝染病が大流行した時、鐘馗霊神の絵を奉納したところ、大流行が治まったと伝えられる
「安産地蔵尊」
「奥之院(多宝塔)」
50年に一回の開帳記念として、昭和9年(1934)に建立された
本尊の大満虚空蔵菩薩が安置されている
「三重塔」 この寺を訪れるきっかけとなった三重塔、平成10年(1998)の再建である
再興百年記念事業として享保4年(1716年)建立の塔を再建した
古塔の趣を感じた理由がわかった
塔の高さが21m、大日如来が安置されている
「水戸八景いわれ書」
「村松晴嵐」 水戸八景とは、水戸徳川家藩主斉昭が、天保4年(1833年)に領内を巡視し八つの景勝地を選定したもの
「晴嵐の碑」 烈公(徳川斉昭)が書いた「村松晴嵐」の自然石
「出世稲荷堂」
茶吉尼天尊を祀る
高い場所から見える本堂
本堂横を通り
鐘楼堂を通り
仁王門に一礼して寺を後にする
撮影 平成30年10月9日
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