白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー100

2020年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
パリで男性同性愛者としてデビューしたときすでにディヴィーヌはよいセンスの持ち主だった。要するに下品なのだ。しかし下品なのはディヴィーヌが選ぶ高価な香水があたりかまわず巻き散らす強烈な匂いである。異性愛だけを当たり前と信じ込んで疑っていない人々が同じ香水の匂いを撒き散らしていても周囲はなかなか忠告できないし、本人たちも容易にそれを下品だとはわからないし知らない。むしろ美しいとさえ思い込んで陶酔していたりする。だがしかし美貌の美女をも凌ぐ美貌の男性同性愛者ディヴィーヌが身につけると、逆にその香水の香りが実はどれほど下品なものなのか、年齢性別国籍に関係なく知らしめるという貴重で勇気ある賞賛すべき態度をディヴィーヌは自分の《身体において》示した。

「彼女の香水は強烈で下品である。それによって、彼女が下品好きであるのをすぐに知ることができる。ディヴィーヌは良い趣味、確かな好みをもっているのだから、そしてかなり憂慮すべきことに、人生はこの傷つきやすい彼女をつねに下品な境遇に置き、あらゆる卑劣な行為と接触させる」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)

そしてその下品さに仲介される形でディヴィーヌはさらにどんどん穢(けが)らわしい世界との接点を連結させていく。上流階級の社交界では上品とされるその同じ匂いが上層社交界では「聖なる香り」とされ、他方、ディヴィーヌたちの世界に置かれると「穢れた臭い」とされるのか。香水の構成成分は同じである。このような同じものの二極分化という現象について、とりわけ二極が左右ではなく上下へと分化し上層では「聖」として下層では「賎」として取り扱われる奇妙な傾向について、文化人類学を始めとする様々な学術研究が発表されている。そしてこの傾向はほかならぬ貨幣において、遠い昔から貨幣が「聖」かつ「賎」の合成物として取り扱われてきたことは興味深いと言わねばならない。ところでディヴィーヌの好みの相手は「ボヘミアン」である。ボヘミアンになろうと思ってもそう簡単になれるものではない。暑さ寒さ、突然の風雨、政治的社会変動、食物の確保、などなどありとあらゆる事情の変化に即して生きていくことができる体力が何より必要だ。誰にでも可能だというわけではない。そしてヨーロッパだけでなくボヘミアンは非定住型生活を原則としており、当然日焼けしていて肌の色は北欧系に比べれば黒い。性別を問わずアマゾネス系タイプを愛する人々にはたまらなく魅力的である。

「彼女が下品を慈しむのは、彼女の最大の愛が黒い肌をしたひとりのボヘミアンに向けられたものであったからだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)

ジュネ作品の中でボヘミアンとジプシーとの違いは明確になっていない。なっていないので少し述べておくと、ジプシーの場合、ただ単なる放浪者に過ぎないとはけっしていえない。特にジプシーと呼ばれる人々には独特の移住民系芸能集団といった色合いが強い。また、両者の違いが明確でないのは両者がしばしば混合されて用いられたからというだけでなく、実際に両者のあいだで付き合いがあったためだろうと考えられている。共通項はどちらも非定住民であるということと芸能を生業とした点で重なる部分だろう。

「彼の上になったり、下になったり、彼女のからだを貫くジプシーの歌を、口を彼女の口にはりつけて彼が歌っていたとき、彼女は、ふしだらな連中にはぴったりの絹と金モールといった、下品な布地の魅力をこうむる術を学んだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)

しかしなぜジュネのいう「下品」な人々は絹のドレスや特に「金モール」を好むのか。あるいは今でいう「金の延板」を。作品「ブレストの乱暴者」の中で、セブロン少尉が自分の制服に刺繍された「金モール」を見つめ見とれつつ海に向かって心の叫び(《臭くしてやる!臭くしてやる!世界中を臭くしてやる!》)を喚き散らす印象的なシーンがあったが。ところが彼らの心身を賭けた生きざまの凄絶さにもかかわらず、世間一般では、とりわけ現代社会の政治において、ジュネたちのように自分の生涯を自分自身で引き受けるといった生を抜きにして、なぜか下品な行為が下品とされずにまかり通っているのは余りに不自然ではないだろうか。不自然さの余りにかえってそこにある「不思議なもの」が目についてしまうのである。

たとえば多額の金品授受について。質問がなされる。答える側は質問自体が「抽象的」だとして答えなかったり「わからない」と答える場合がある。けれども「抽象的」だとする態度は、質問が抽象的なのではなく、自分に向けられた質問から逃亡するのでもなく、逆に質問を取り上げて「抽象化」する切迫した必要性が生じているために「抽象的」だと言うほかなくなるのだ。ベイトソンはそれを「抽象化のパラドックス」と呼ぶ。どういうことか。

「われわれのプロジェクトの中心テーマは、抽象化のパラドックスが起こる《必然性》を探ることだといっていいだろう。人間はパラドックスを排し、<論理階型理論>にしたがってコミュニケーションを遵守すべきだとする考えがあるが、これは人間の精神の自然(ネイチャー)からまったく目をそらした考えである。それが遵守されないのは、単に無知や不注意によるものではないのだ。そればかりではない。われわれの信じるところによれば、単なるムード・シグナルのやりとりより複雑なすべてのコミュニケーションで、抽象化のパラドックスが必然的に姿を現わすのである。パラドックスが生じないようなコミュニケーションは、進化の歩みを止めてしまうのだとわれわれは考える。明確に型どられたメッセージが整然と行き交うだけの生には、変化もユーモアも起こりえない。それは厳格な規則に縛りつけられたゲームと変わるところのないものである」(ベイトソン「精神の生態学・P.276」新思索社)

ところがまさにその行為は、議会で質疑応答がなされている時間帯に限り、問題の同一性が憲法の手続上保障されている時間帯に限り、「厳格な規則に縛りつけられた」議会の場に限れば限るほど、けっして既定のコンテクスト(社会的文脈)をずらしてはならず、ずらすことはますます不可能となる。さらにまた質疑応答において既定のコンテクスト(社会的文脈)をずらすことはそもそも違法である。議会内での質疑応答はあくまで規定のコンテクスト(社会的文脈)の中で行われなければならない。議会での質疑応答のために設けられている場は、政治家が自分の芸術的創造性を発揮し虚偽答弁を披露して見せる場ではまったくない。そのような行為は期待されていない。そしてもし質疑応答が規定のコンテクスト(社会的文脈)の中で、それに則って厳格に行われない場合、その言動はすでに「抽象化のパラドックス」へ身を委ねて問題を議会の中でなく外へ丸投げし、暴力的に規定のコンテクスト(社会的文脈)をずらそうとしているか、手前勝手に規定のコンテクスト(社会的文脈)を破棄し「抽象化のパラドックス」を生じさせて問われている問題を自分本位にどのようにでも歪曲できるような状態のまま放り出してしまっているかどちらかだろう。職務放棄に等しい。ところでその場合、次のようなことが生じてくると考えられる。

「われわれがゲームをするときーーー<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながらーーー規則を変えてしまう場合もあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・八三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.84』大修館書店)

脱線なら元に戻してもう一度やり直すのが結果的に良好なケースが少なくない。だがコンテクスト(社会的文脈)そのものを「抽象化」してしまう暴力は言葉の暴力の中でもかなり荒っぽい、仲間のあいだであっても周囲をひきつらせる、大顰蹙(ひんしゅく)の上にさらなる大顰蹙を上積みする行為としてますます過積載化していくであろう。というのは、数字によって示すことができるにもかかわらず、何の準備もなしにあるいは準備を無視して、あえて「抽象化のパラドックス」の必然性の中へ叩き込んでしまえば、他の仲間たちが発行したかこれからするはずの手形=信用にとって大打撃となって跳ね返ってくるからである。
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さて、アルトー。シェイクスピアの名が出てくるけれども、差し当たり重大な関係項としての意味を持たない。むしろ大事なのは、シェイクスピア演劇は近代社会の産物であり、したがって現代人には大変痛切な問題提起の場であるにもかかわらず、観衆はなぜ舞台上から放たれた無数の、知性を困惑させるイメージから、「生体組織のなかに動揺を引き起こすことも、もはや消えることのない刻印を残すこともなく、この観念は、演劇の上演が観客を無傷のまま」無事に帰宅し終えることができるのか、とアルトーは問いかける。

「この錯誤とこの堕落、この演劇の無関心な観念についてはシェイクスピア自身に責任があるが、投げつけられたイメージが生体組織のなかに動揺を引き起こすことも、もはや消えることのない刻印を残すこともなく、この観念は、演劇の上演が観客を無傷のままにしておくことを望んだのである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.124』河出文庫)

観衆がそう「望んだ」。市民社会はそう《欲した》。「無傷のまま」がよいのだと、何と観衆の側がそう意志するという事態が生じてきた。アルトーはこの事態を正当にも人間本来の力への低下として読み取る。人間は明らかに価値下落を起こしているのにそれに気づいていないということ。

「未知なものを既知のものに、すなわち日常的なものや月並みなものに追いやることに夢中になる心理は、エネルギーのこの低下とこの恐るべき消失の原因であるが、私にはそれがいよいよ最後の段階に達したかのように見える」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.125』河出文庫)

まず「未知なものを既知のものに、すなわち日常的なものや月並みなものに追いやることに夢中になる」ことがどれほど危険極まりないことか。アルトーはなぜ「この錯誤とこの堕落」と指摘するのか。

「《因果性による解釈は一つの迷妄である》ーーー『事物』とは、概念や心象によって総合的に結合されたその諸結果の総計のことである。じじつ、科学は、因果性という概念からその内容を抜き去り、この概念を比喩のための定式として残存せしめたが、この定式においては、いずれの側を原因ないしは結果とみなすかは、根本においてどうでもよいこととなってしまった。二つの複合状態(力の位置関係)においては力の量は等しさを保っているということが、主張されている。《生起を算定しうるのは》、それが或る法則に従っているとか、ないしは或る必然性に服しているとか、ないしは或る因果の法則を私たちがあらゆる事物のうちへと投影するとかということのためではないーーー、それは《『同一の場合』が回帰する》からである。カントが思いこんでいるように、《因果性の感覚》なるものはない。驚いて、不安をおぼえ、たよりにできる何か既知のものをもとめるのであるーーー新しいもののうちに何か古いものが指摘されるやいなや、私たちの心は鎮(しず)まる。いわゆる因果性の本能は、《なれていないものに対する恐怖》にすぎず、そのもののうちに何か《既知のもの》を発見しようとの試みにすぎない、ーーー原因の探求ではなく、既知のものの探求である」(ニーチェ「権力への意志・第三書・五五一・P.84」ちくま学芸文庫)

しかし必ずしも「科学」はそうではないのではないか、という殺人的なまでに素朴な疑問について。

「科学の発達は、『既知のもの』をますます未知のもののうちへと解消する、ーーーしかるに科学は、まさしく《逆のことを欲し》、未知のものを既知のものへと還元する本能から出発している。要約すれば、科学が準備するのは、《主権的な無知》、すなわち、『認識』は全然あらわれることはないとの、それがあらわれると夢みるのは一種の驕慢であったとの感情、それのみならず、『認識』を一つの《可能性》としてみとめるだけの概念をすら私たちはなんら保有してはいないとの、ーーー『認識』とは一つの矛盾にみちた考えであるとの感情である。私たちは人間の太古の神話や虚栄をきびしい事実のうちへと《翻訳する》が、『物自体』と同じく、『認識自体』もいまだ概念として《許容されて》はいないのである。『数と論理』による誘惑、『法則』による誘惑」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六〇八・P.144」ちくま学芸文庫)

科学の発展。それはできる限り予断を排して、さらにどんな拘束も受けずに探求することだが、それでもなお科学的研究従事者は「真理」の究明という「信仰」に取り憑かれているとニーチェは指摘する。

「なるほど彼らはどの点においても格別に拘束されてはいない。だが、真理に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.193」岩波文庫)

ゆえに不可避的逆説が生じてくる。にもかかわらずこの逆説が逆説と捉えられず、かえって順説として転倒され正当化されて受け止められているところに人間の破滅的傾向を見ることはもはやたやすい。実際はどうなのかという原因の《探究》は逆に「阻止」され「排斥」さえされているのだから。

「私たちのたいていの一般感情ーーー交感神経の特殊な状態におけると同じく、器官の作用と反作用におけるあらゆる種類の阻止、圧迫、緊張、爆発ーーーは、私たちの原因衝動を刺戟する。すなわち、私たちは、おのれが《かくかく》の情状にあることの、ーーー気分がわるいないし気分がよいことの《根拠》をえようと欲するのである。たんに、かくかくの情状にあるという《事実》だけを単純に確かめるだけでは、私たちはけっして満足しない。私たちがはじめてこの事実をみとめるーーーそれを《意識する》ーーーのは、この事実に一種の動機づけをあたえおえた《とき》であるからである。ーーーそのような場合に知らずしらず活動しだす回想が導きだしてくるのは、以前の同種の諸状態や、それとからみあった因果的諸解釈であって、ーーーこれらの状態や解釈の原因では《ない》。もちろん、諸想念、随伴的な諸意識現象が原因であったという信仰も、回想をつうじていっしょに持ちだされてくる。かくして特定の原因解釈にこだわる《習慣》が発生するのだが、実はこの習慣が原因の《探求》を阻止し、排斥さえする」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.62』ちくま学芸文庫)

人間は保守的なものだ。アルトーはそれを知っている。知っているがゆえになおのことアルトー自身の持つ保守性も含めて否定したくなる。読者にとってその気持ちはたいへんよくわかる。しかしただ「わかる」といって同意しているばかりでは済まなくなったのも事実だ。アルトーは「狼少年」ではない。かといって「狼中年」でもないが。ともかく、人間は近代社会を打ち立てたが、打ち立てれば打ち立てるほど急速に、人間自身から人間が本来的に持つ「エネルギー」が「低下」しなおかつ「消失」していく。この傾向について「最後の段階に達したかのように見える」とアルトーはいう。ところが事態は「最後に達し」てその「段階」に留まっているどころかますますより一層強力に人間から強度とその物質性を奪い取り、人間をほとんど無化しつつ現代社会の下僕として活用することを覚えたことは見間違いようのない事実となった。現代社会にとって人間はもう必要ないというのなら、いっそのことありとあらゆる人間を地上から抹殺してしまえばよい。しかし現代社会はそうはしない。そうするほど馬鹿ではないのだ。というのも、現代社会といおうが資本主義的市民社会といおうがいずれにせよ剰余価値を生むのは人間が自然力として持っている労働力を前提するほかないからである。資本主義は自己目的のために資本主義的生産様式を貫徹するが、資本主義的生産様式を貫徹させるためには人間の労働力を必然的に必要とする。どれほど人間のエネルギーが低下し消失しほとんど無力化したとしても、資本にとって最低限度必要な労働力を保存しておく必要性までが失われてしまうわけではない。むしろ最低限度必要な労働力さえも消失させてしまった場合、資本も同時に破滅する。自明の理だ。むしろ資本自身がそれを自明の理として、そして同時に前提として自覚的に立ち働いているのだから。ところが資本の人格化としての資本家は生身の人間なのでともすれば鈍感でいられる。そんな鈍感な資本家とは違い、資本主義は自己目的貫徹のためよそ見などしている暇がない。何かあればただちにすべての関係諸機関を瞬時に叩き起こして資本主義的公理系を改めて調整し更新する必要性がある。そしてそれは改変され更新される。資本家が晩酌を済ませて眠りこけているあいだにも資本主義的公理系は絶え間なく作動し続けており、資本主義的現代社会の秩序とその維持存続のために全力を上げて対処する。だから資本主義の脱コード化と公理系の創設とは一つの同じ動作だと言われるのだ。

「資本主義は《脱コード化した流れのための一般公理系》とともに形成される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)

さらにいえば、その瞬間以前に資本主義は《ない》。

「資本主義は、質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合されるとき形成される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)

ドゥルーズとガタリがそういうように「質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合されるとき形成される」状態を指して、差し当たり「資本主義」と呼ばれているに過ぎない。「質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合され」ることがなければ「資本主義」は「形成され」《ない》。

もっとも、今の世の中は資本主義社会である。だからほとんどすべての人間はどこへ行っても行かなくても資本主義は常に作動しているかのように信じ込んでいる。しかし資本主義は可視化できるだろうか。資本主義は富の流れと労働力の流れを出会わせ両者の利害を調整し更新する公理系を次々と生産し付け加えていく作業に忙殺されている。それは資本主義自身が死滅してしまわないためにそうしているのであって、生産資本、流通資本、金融資本が死んでしまっても資本主義自身まで一緒に死んでしまわないための事前的準備動作に過ぎない。資本主義にとって個々の製造業者や流通業者、さらに金融関連業者の倒産など実をいえばまるでどうでもよいことだ。むしろ資本主義的公理系の調整更新機能にとって無駄と判明すれば、それがどれほど巨大な製造メーカーであっても一挙に倒産させ、そのメーカーが拠点を置いていた地方都市を丸ごと廃墟化することにしている。アメリカを例に取ると、一旦は途轍もなく荒廃したラストベルト。とりわけデトロイト。しかしかつては自動車産業で潤うアメリカでも有数の産業資本都市だった。ちなみにキッスの楽曲にデトロイトを舞台にした“Detroit Rock City”というヒット曲がある。一九七六年発表。時期に注目しよう。小型、軽量、燃費の良さ、手ごろな価格、等々を武器に日本車が徐々にアメリカ市場を席巻していく初期に当たる。資本主義においては、致命的な事態の悪化が目に見える頃にはすでに手遅れなのが通例だ。ラストベルトという事態の発生はアメリカ型資本主義を推し進めたがゆえに生じてきた当然の帰結である。米国製自動車が「商品《として》無駄」になったのはなぜか。

「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)

ところが今やアメリカはラストベルトを再建したと豪語している。実は誰もが知る通り再建どころか、世界的自由貿易競争から撤退し他国の自動車メーカーを排除してなされた逃亡劇でしかないにもかかわらず。しかしそれを可能にした理由はしっかりあるのだ。一体どのようにしてなされたか。

「貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない(古典的古代に関する百科事典のなかでは次のようなばかげたことを読むことができる。すなわち、古代世界では、「自由な労働者と信用制度とがなかったことを別とすれば」資本は十分に発達していた、というのである。モムゼン氏も彼の『ローマ史』のなかでたびたびはき違えをやっている)。労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.294~295」国民文庫)

さらに第二点として次の事情が原則として貫かれていることに留意する必要がある。

「貨幣所持者が労働力を市場で商品として見つけだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。

ある人が労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。彼は革なしで長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活手段も必要である。未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできない。そして、人間は、地上に姿を現わした最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない。彼が生産を始める前にも、生産しているあいだにも。もし生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産されてから売られなければならないのであって、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させることができるのである。生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのである。

だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.296~297」国民文庫)

さてここではまた、賃金労働者の「自由」あるいは「自立」という問題が提出されている。今日的問題として今なお解決への過程の見えない課題だ。しかしなぜ、課題を提出することはできるにもかかわらず、それがよく見えないものとしてしか認識され得ないか、マルクスは明確に論じている。

「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)

そんなわけで、再びアメリカ人労働者はほどなく自分で選んだアメリカ型資本主義のためにせっせと働けば働くほど、逆にまた違った業種においてラストベルトを発生させずにはおかないだろう。また日本のマスコミは、諸外国に対する今のトランプ政権の手法、とりわけ経済制裁について、「次期大統領選勝利へ向けたアメリカ国民へのアピール」だと報道している。そうだろうか。イランの側を持ち上げるわけではないし、かといってイランに恨みがあるわけでもない。といよりむしろ、アメリカかイランかが問題なのではないようにおもえて仕方がない。トランプ政権の外交手法を見ていると、日本のマスコミが自動的に言い立てているような対内的な「次期大統領選勝利へ向けたアメリカ国民へのアピール」というよりも、遥かに暴力的で高圧的な、同盟国を含む全世界に対する対外的な恫喝行為に見える。

「ランボーやジャリやロートレアモンその他に対するわれわれの文学的称賛は、二人の男を自殺に追いやったが、しかし他の連中にとってはカフェの無駄話にすぎず、文学的な詩、超然とした芸術、中立的な精神活動というあの観念の一部であり、何も為さず、何も産み出しはしない」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.126』河出文庫)

何も生産しない演劇あるいは広い意味での芸術。そこにもはや驚きはなく、むしろ予定調和が準備されているばかりだ。ニーチェが危惧したニヒリズム、ドイツにアウシュヴィッツ強制収容所を出現させた危険なニヒリズムの兆候はアルトーの目にはすでに明らかだった。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM


言語化するジュネ/流動するアルトー99

2020年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
神と悪魔とのあいだに明確な境界線を引くことは可能だろうか。善悪はつねに確実だろうか。むしろそれはしばしば移動していないだろうか。移動しているとすれば善悪のあいだに境界線はあると同時にないということになる。少なくとも移動可能である。ジュネは生涯の半分を刑務所で過ごした。善悪のあいだには明確な境界線があるとされる風土で生まれ育ったわけだが、刑務所に収監されるよりずっと前、すでに孤児として生まれ捨てられた。しかし幸いというべきか好奇心旺盛だったジュネは刑務所を自らの知性開拓のための学校に変えた。もっとも、年少者だった頃のジュネは年長者の側が圧倒的多数を占める刑務所の中でそうとう苦痛に満ちた痛々しい経験を繰り返し味わったわけだが。

「この物語をでっち上げている私にとって、いったい何が問題になっているのか?」(ジュネ「花のノートルダム・P.34」河出文庫)

その通り。どんな小説であれ、それが小説という形式に還元される限り、少なくとも一滴の「でっち上げ」を含む。ところがジュネは小説が創作であることを知っている。「創作すること」と「でっち上げること」との間に、何かこれといった差異が存在するのだろうか。言葉は同じでもまったく別のことを意味する場合の逆であって、別々の言葉を用いて同じことを意味しているに過ぎない。さらにジュネは創作という「でっち上げ」がとても好きで、性格的にも合っており、刑務所内で囚人たちが書く詩や作文をまとめた文集でも非凡な文才を見せていた。この文才は小説において遺憾なく発揮される。ジュネの書く小説の登場人物はどれも「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に向けてジュネがそうあってほしいと願うような様々な衣装にまとわれて登場する。宮中を行ったり来たりする貴族の衣装であったり、襤褸(ぼろ)をまとってアンダルシア地方をよろよろとさまよう物乞いの衣装だったりする。そしてそれらはしばしばパッチワークと化して混ざり合う。混ざり合った衣装は襤褸(ぼろ)ばかりを組み合わせただけなので変てこだと言われ馬鹿にされたりする一方、たまたま逆に軽妙洒脱で粋な衣装に見える場合、仲間たちの賞賛と畏怖の的になったりする。まず最初に賞賛し畏怖するのはジュネなのだが、賞賛し畏怖の念を表明するやいなや、というよりその前すでに、自分から発した賞賛や畏怖にもかかわららず、むしろそれゆえに、賞賛や畏怖の念に泥を塗りたくり徹底的に汚辱まみれにするための何か最適な方法はないか、しきりに身悶えする。そしてこの身悶えからさらなる悦楽を手に入れる。極めて入念で緻密で計画的な欲望の生産に励むのである。次の文章でジュネは創作に当たって「人生を取り戻す」と述べるが、そのために惜しげもなく用いられる言語とその手品は、ジュネの人生を徹底的な汚辱のどん底へ叩き込むために用いられる。そうすることこそジュネにとって「人生を取り戻す」ことにほかならない。

ジュネはパリを始めとするヨーロッパの都会の華麗な繁華街に出る。出て、その足ですぐ裏側の薄暗く塵だらけの街路へ向かう。華麗な繁華街の裏側に位置する薄暗く塵だらけの街路というものは、世界中いつどこでもそうであるように、凶暴な静寂に支配された色鮮やかなタペストリー溢れるもう一つの繁華街でもある。その華麗さはーーージュネの生きた時代ーーー安下宿で暮らすジュネたちの身体を棲み家とする虱(しらみ)がどれほど大量に繁殖したかによって計測される。隠しようのない臭いも漂っている。もっとも、この臭いはただ単なる裏街の臭いばかりでない。犯罪と犯罪者との接点が微妙で繊細な弧を描くときにあたかも立ち小便のように不意に垂れ流される独特の臭さが混じっている。単に裏ぶれただけの裏街ではほとんど漂うことのない画期的な犯罪のみが発する微妙この上ない犯罪の線。この線は他の臭いに隠されつつなお臭うのである。ジュネたちは特に敏感だが読者もまた敏感かもしれない。ジュネはそこで小説を書く。最底辺として書く。それがさらなる至福でもある。

「私の人生を取り戻し、その流れを遡ることによって、私の独房を、ほんのちょっとしたことがなければ私が危うくそうなりかけたものになるという快感で満たし、そしてまるで黒い穴のなかに身を投じるために、地下の天空の落とし穴によって入り組んだ仕切りを通りぬけて私が彷徨っていたあれらの瞬間を再び見出すこと」(ジュネ「花のノートルダム・P.34~35」河出文庫)

現実は二度とない。わかりきったことだ。とすれば小説において反復されるのは一体何なのか。

「悪臭のする空気の容積をゆっくり移動させ、ブーケの形をした感情がそこにぶら下がっている糸を断ち切り、星で一杯になったどの河かはわからない河から、濡れて、苔の髪をした、ヴァイオリンを弾き、ナイトクラブの緋色のビロードでできたドアカーテンによって悪魔のように隠された、私の探しているあのジプシーが恐らく突然現れるのを見ること」(ジュネ「花のノートルダム・P.35」河出文庫)

そして「ジプシー」はいつも「突然現れる」。用心するに越したことはないだろう。
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さて、アルトー。次の一節はありふれた言葉だろうか。

「精神のなかには、非合法の性的交渉のためにあるような専用地区などない」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.120』河出文庫)

もちろん、ない。だからアルトーはたぶん古代ギリシア悲劇「オイディプス」について語ろうとしているのだと、読者は考える。あるいは乱行に関して。ところがアルトーの試みは「オイディプス」が傑作であろうとなかろうと、実際は、全然観客がいないというのはなぜなのか、と足下の現実に目を移動させてみることである。

「大衆が傑作に見向きもしないのは、これらの傑作が文学であり、要するに固定されていて、時代の欲求にしか応えない形式のうちに固定されているからだ」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.123』河出文庫)

だからといって、大衆と演劇との間に置かれている遮蔽物を問題視し、それを取っ払ってしまえば済む問題でもまたない、とアルトーはいう。問題は古代ギリシア悲劇が「傑作」であるのは確かだとしてみても、それをただ単なる「偶像崇拝」の次元へ棚上げしてしまったばかりか、さらになお実際に棚上げできてしまえたという事情について、アルトーは絶望している。

「大衆と観客を非難するどころか、われわれはわれわれと大衆の間にわれわれが置いた形式の遮蔽物を非難すべきであり、この新しい偶像崇拝の形、この固定された傑作の偶像崇拝を非難すべきであるが、その偶像崇拝はブルジョワ的順応主義の諸様相のひとつなのである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.123』河出文庫)

アルトーのいう「ブルジョワ的順応主義」はなるほど様々な仕方で蔓延している。そしてそれはすべての世界を覆い尽くしているのだが、覆い尽くしている世界を構成しているのはほかでもない個々別々の人間である。人間というものもまた「ブルジョワ的順応主義の諸様相のひとつなの」だ。もっとも、「偶像崇拝」はアルトーのいうように、「ブルジョワ的順応主義の諸様相のひとつなのである」には違いないけれども、この種の「偶像崇拝」が成立したのは「ブルジョワ的順応主義」の世界的蔓延と別々に進行したわけではない。「ブルジョワ的順応主義」の世界的蔓延と「偶像崇拝」の成立は同時である。この場合の「ブルジョワ」、「ブルジョワ的順応主義」というときの「ブルジョワ」は、資本主義的市民社会の一員というほどの意味しか持たない。今や人間は資本主義的市民社会の一員として「ブルジョワ的順応主義」に沿って日常生活のすべての動作に従事している。ニーチェのいう「俳優としてのユダヤ人」はもちろん、すべての市民社会は、その胎内からつねに「ユダヤ人」を生み出す。

「市民社会はそれ自身の内蔵から、たえずユダヤ人を生みだす」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.62』岩波文庫)

だからといってすべてのユダヤ人が俳優だというわけではなく、ましてやブルジョワだというわけでもない。ただ、ほとんどすべての市民社会はもはや「ブルジョワ的順応主義《者》」ばかりしか生み出すことができない機械装置と化したことは明白だというべきだろう。慣習化がその方向をさらに強固なものへと打ち固める。次のような事態が生じてきた。

「大衆が劇場に行く習慣がなくなったのは、われわれが演劇を低級な芸術、世俗の気晴らしの一手段と見なすようになってしまったのは、しかもわれわれの悪しき本能のはけ口としてそれを利用するようになったのは、それが演劇であり、すなわち嘘と幻想でできているとあまりに言われすぎたからである。四百年前から、すなわちルネッサンス以来、純粋に描写的で、物語る演劇、心理を物語る演劇にわれわれが慣らされてきたからである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.124』河出文庫)

慣習化を加速させた要因のなかに、観衆の側が強迫神経症的切迫感をもって要請してくる観衆自身の「身元確認」という欲望がある。バルトはこういっている。

「いかなる文化からも排除されているプロレタリアートと、『文学』そのものをすでに問題化しはじめた知識階級のあいだにいる、小中学校的な凡庸な文学愛好家。つまり大まかに言って、プチ・ブルジョア階級である。彼らはだからこそ、自分の身元を明白に分かりやすく見せる記号すべてをもった『文学』という特権的なイメージを芸術-写実主義的エクリチュールーーーそこから多くの商業小説が生まれることになるーーーのなかに見いだそうとする」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.86』みすず書房)

文学、演劇、絵画、音楽、漫画、映画、等々、どこかに自分の分身たる「鏡像」を見つけることで自分で自分自身に安心を与えたいという病的欲望の反復が顕著に見られる。もっとも、バルトのいう「身元確認」欲望は一八四八年二月革命での衝突によって発生した欲望であるが。というのは、その衝突の瞬間、三つの階級(資本家、土地所有者、労働者)は始めて目に見えるものとして強烈な分裂を起こし、諸階級として出現したからである。市民社会の構成員はどの構成員であろうとなかろうと文学の中に自分の分身を発見することで自分自身が今どのような社会的位置に置かれているのかを確認するとともにそこに描かれた言動をそっくりそのまま何度も繰り返し反復することに習熟した。するともう自分が置かれている位置からしかものを見たり考えたりすることができなくなる。文学や演劇は舞台上に市民社会の構成員を登場させて観衆に対して、観衆自身が今現在どのような社会的位置にいるのかいつも計測させておくための測度機と化した。計算すること、鏡像に合わせて行動すること、俳優であり仮面であること。社会的規範の内部に収まっておくこと。それらを定期的かつ無意識的に繰り返し登録しておくこと。さらにこれらをより一層大規模に再生産すること。

「それは一方ではスペクタクル、他方では観客とともに、もっともらしいが浮世離れした人物を舞台の上で生かすことに何かと工夫を凝らしたからであるーーーそしてもはや大衆に対して大衆がそうであるところの鏡しか示さなくなったからである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.124』河出文庫)

自分で自分の似姿を映し合い安心して憩っている姿はあたかも「9.11」で崩壊する以前の、互いが互いの鏡となり、向き合い、互いが互いの似姿を日々映し上げて互いが互いを誇らしげに思いながら深い安堵のうちに世界を支配していると思い込んでいられた幸せな建築物、二棟の世界貿易センタービルの酔い心地に似ている。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM


言語化するジュネ/流動するアルトー98

2020年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネが「ドラマのシステム」と呼ぶもの。ステレオタイプ(固定観念、常套句、お約束的ストーリー)的なもの。その慣習化に伴う既成事実路線に従って整えられる舞台装置。

「計画されたそれぞれの殺人を司っているのは、予備のしきたりと、つねに、後からは、贖罪のしきたりである。両者の意味は殺人者の意識にはのぼらない。すべては整えられている。彼女にはちょうど火刑裁判所に出廷する時間がある。彼女は引き金を引いた」(ジュネ「花のノートルダム・P.28」河出文庫)

ドラマのシステムが立ち働いている社会の中では必ず習慣がもたらす悲劇あるいは悲喜劇が例外なく発生する。繰り返し反復されることでパターン化しステレオタイプ化し慣習化してしまった悲劇の濫用。古代ギリシア悲劇はこうではなかった。何がこうも容易に濫用され落ちるところまで価値下落しそれでもなおドラマ作りのための舞台装置は休みなく創設されようとしてばかりで止まることを知らないのか。ところでしかし、逆説的だが、近現代以降のドラマの視聴者は本当に悲劇あるいは悲喜劇を見たい聴きたいと思っているのでは《ない》。悲劇かどうかが問題ではまったく《ない》。逆に悲劇あるいは悲喜劇に触れるやいなやそれに伴って全身を駆け抜ける快楽の反復を《欲する》。視聴者は「悲劇への意志」ではなく「快楽反復への意志」として情動化している。そしてもし視聴対象から一定あるいは一定以上の快楽を得られたと感じた場合に限り、自分が視聴しているものは悲劇あるいは悲喜劇であると、後になって、あくまで事後的に承認する。あるいは絶賛する。時系列的には転倒している。快楽の享受とその承認以前にはどんな悲劇、喜劇、悲喜劇も存在しない。たとえばネットゲーム。勝利することが目的とされているが実状はそうでない。勝利にともなって湧き溢れる快楽の感じ、「増大する力の感じ」で満たされる全身、それを得るために勝利するのであって、それを得るために勝利しなければならず、さらにそれを何度も繰り返し反復して「増大する力の感じ」を保っておかないと不安におちいるため、そうする。ただそれだけのことだ。

しかしただそれだけのことでしかないにもかかわらず、人間の脳は快楽を繰り返し反復させようと脳自体の作用機序を脳自体が変形させる。依存症発症過程の決定的転回点はどこにあるか。それは人間の脳が或る種の快楽を繰り返し反復しなければならないというシグナルを脳自身の作用機序に従って創設し、脳が脳自身によって脳機能を《書き換え》てしまうやいなやたちまち発生する。しかしギャンブルにしてもネットゲームにしてもアルコールや薬物のように直接身体に摂取していないではないかという問いが発生する。ところがギャンブルにしてもネットゲームにしてもその興奮過程においてドーパミンを始めとする様々な物質が全身を駆け巡るようにできている。

人間は普段であれば、何か差し迫った危険に追い詰められたときドーパミンを分泌する。ドーパミンはただちにノルアドレナリンへ変化しノルアドレナリンはアドレナリンへ変化し人間の身体を極めて高度な緊張感で一杯に漲らせる。それはそのような危険な状態に置かれたときにのみ作動する身体の変容であり、もともと人間の身体に備わっている動作である。アルコールや薬物を直接摂取しなくても外部からの刺激の種類によって、なおかつ刺激の種類に即して、身体は様々な物質を分泌するようにできている。ギャンブルにせよネットゲームにせよ、なるほど外部からは何らの脳内伝達物質も摂取されてはいない。ところが逆に外部刺激によってもともと内部で発生する種々の脳内伝達物質が生産され、その反復が依存症発症を加速させるわけである。もちろん脳機能の変化は脳の形態をも変化させる。アルコールや薬物の場合、CTスキャンを見れば脳の一部が破壊され変形も顕著であるため、一目瞭然、そこに水が溜まって黒く写っている部分を見つけることができる。さらに脳機能の損傷は人格を変化させる。「別人のようだ」という表現があるけれども、それどころかまるで「別人」になってしまっていることも稀ではない。その点で自然と人間とは大いに異なる。

「自然は何も欲しないが、しかし自然はつねに何かを達成する。ーーー《私たちは》何かを欲して、《つねに何か別のものを達成する》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七二五・P.356」ちくま学芸文庫)

エルスティーヌが放った弾丸は部屋のあちこちにぶち当たって散乱した。子どもは死なずに済んだ。キュラフロワ(彼)は生き残り、パリでディヴィーヌ(彼女)として変身する過程が開かれた。

二〇年後、ミニョンはディヴィーヌのことを思い返す。ディヴィーヌは、したがってその母エルスティーヌの狂態もまた、「美しかった」。二人とも美女だった。美の前でミニョンは自分の美男子ぶりが脅威にさらされていると感じる。

「ミニョンはこんな風に悲劇に酔い痴れた彼女を見た。彼は気おくれした、というのも彼女は美しく、狂っているように見えたからだが、どちらかといえば彼女が美しかったからである。彼自身美男だったのに、彼女を恐る必要がどこにあったのだろうか?」(ジュネ「花のノートルダム・P.29」河出文庫)

人間は「美しい」ものを見ると、その瞬間、何か「普通でない」閃光に出くわしたと感じるものだが、それはあらかじめ予告されていない不意打ちという形を取って出現すると、とつぜん狂気に襲われでもしたかのようにありもしない「つっかい棒」を手探りする。身振り仕ぐさを用いて何か「これ」といったものを見つけようと立ち振る舞う。なぜそうするのだろう。目に見える身振り仕ぐさでなくても頭の中で何か「これ」といった根拠を得ようとすべての記憶を動員して原因を究明しようとする。が、そんなものはどこにも見あたらない。予告された美は不意打ちにならないしなれない。あらゆる予告は不意打ちとしての美から美の諸要素を必ず幾分か損なう。逆に予告以上の動揺を受けたとき、そのとき突然到来する不意打ちはあらゆる予告にもかかわらず、すべての予想を裏切って、予告されていたどんな予想も叩き潰してしまわずにはおかない。しかし閃光には何か確固として主体があり、その主体が何か閃光のようなものを発するという作用機序を持つわけではない。閃光という主体は存在しない。閃光は閃光としてしか捉えることができない。

「あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎないーーー作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。ーーーあらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.47~48」岩波文庫)

閃光《としての》美もまたそうだ。あらかじめ準備された美女がそこらへんの道端で待機しているわけではない。或る人間の動作がそれを取り巻くすべての条件によってたまたま偶然的に整えられた瞬間、その《身体において》美という閃光としてそう見える。そしてそう見えた瞬間、逆に或る人間が美しい閃光として見えるという転倒した現象が起こる、という事情でなくてはならない。目に見えたときすでに事態は転倒した後なのだ。次の文章はジュネ作品の中でしばしば出てくる人間同士の相関関係の鏡のような変容について。力の自在な流動性については作品「葬儀」の中で、またとりわけ「ブレストの乱暴者」の中で、たびたび触れた。

「私は、美しくて、自分たちがそうであることを知っている存在たちの秘密の関係について、あまりにもわずかなことしか(何も)知らないのだ。美少年たちの、友好的に見えているが、しかし恐らくは憎しみに満ちた接触については何ひとつ」(ジュネ「花のノートルダム・P.29」河出文庫)

小説に目を通す場合、「知らない」ということには有り余るほどの魅力があるけれども、なぜなのかということも合わせて考えていきたいとおもう。
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さて、アルトー。バリ島演劇の破壊力について語るアルトー。しかしそれが破壊力を持って見えるのはアルトーが近代欧米の目でしか事物を捉えることしかできないという文化的差異による壁がそそり立っている限りにおいてである。

「戦士たちは恐怖の轟音とともに心の森へと入っていく、とてつもない戦き、磁気を帯びたかのような分厚い回転が彼らをとらえ、動物や鉱物の流星がなだれ込むのを感じる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)

世界はインターネットによって制覇された。ネット社会を作ったのは人間である。もっとも、始めは人間がネットを利用した。次第に人間はネットなしに暮らしていけなくなってきた。今やネットの側が人間を利用しネットに依存することなしには何もできないような社会を打ち立てた。この流れは不可逆的でありもはや元に戻すことはできない。溶け始めた北極圏の氷を以前と同じように復元することはできない。そこでもし、今の悪循環を作ったのは大人のやったことだと喚き散らして、もう一度、今度は子どもの目線に合わせて再構築することが許されるとしよう。ところがそれはどのような結果を生むだろうか。

「たとえば為政者が、心の描く理想社会の実現を目指し、その妨げとなるような傾向を一掃するために、子供たちを仕込んで親の行動を見張らせたとしたら、事態はどのように進んでしまうだろう。その子たちは人間であるために、教えられたふるまいを身につけるだけで終わりはしない。その経験の上に立って、世の中に対する構えの全体を築いていくはずである。権力からそのように使われたという経験が、その後の生きる姿勢にことごとくはね返ってくるのだ。人間は、自分が遭遇した状況を、それ以前に慣れ親しんでいるパターンにしたがって構造づける。そしてそれを習慣化していく。子供たちを道具として使うやり方は、はじめのうちはその目的を果たしたとしても、結局、その子たちの心の中に不都合なプロセスを引き起こすことで挫折に終わる公算が高い」(ベイトソン「精神の生態学・P.243~244」新思索社)

一九四一年アメリカで発表された論文の一部である。日本が米国に宣戦布告した太平洋戦争勃発の年に当たるが、欧米の専門家らは第二次世界大戦後の世界を見据えた上ですでにそのような逆説発生の不可避性について知っていた。だがまだその時点で逆説的に働くはずのパターンが妥当しない事例としてナチスドイツの生成過程が上げられている。無限に多様な諸条件(政治的、経済的、地理的、等々)があのような事態を結果したと述べるのはたやすい。ただ、通常なら出現するはずのパターンが妥当しなかった例として、なぜナチスには妥当しなかったのかについて、後にドゥルーズとガタリはこう述べている。

「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫)

ところで、ナチス党にイデオロギーと呼ぶに足るような十分な思想内容はあっただろうか。もし確固たるイデオロギーが一貫して貫徹されていたとしよう。とすればベイトソンらの研究通りにナチスドイツも例外なく途中で逆説におちいっていたのは明らかである。しかしそうはならなかった。というのも問題はイデオロギーではないからだ。では何がナチスドイツを駆り立てたのか。戦時用語である。「死に栄光あれ!」。日本の戦時用語「死して護国の鬼となれ」もそれに近い。ただ単に死んで終わり、ではなく、死んでなお何度も繰り返し戦場へ舞い戻ってきて国家のために死を反復させるところに独創性があるとジュネには思えた。ゆえにパリで小説執筆に打ち込んでいた一人の「泥棒、裏切り者、性倒錯者」でしかなかった頃のジュネの目に止まった。作品「葬儀」はドイツ軍占領下のフランスを舞台としているにもかかわらず、そのラストを飾る言葉としてはドイツの戦時用語ではなく日本の戦時用語「死して護国の鬼となれ」が引用されるに至った。ヒットラーを演じるヒットラーは西部戦線の戦況悪化と同時に考える。政治の美学化は美としての自己破壊を正当化する。ゆえにもし連合軍がパリを奪還しドイツがパリを引き渡すことになるのなら、そのときパリは廃墟として引き渡されねばならないと電信を打っている。ヨーロッパの美の殿堂たるパリにとって廃虚化こそが、廃墟と化して死臭でむせ返る黄金色の落日だけが美と呼ぶにふさわしい。イデオロギー以下のキャッチコピーが、あるいはどこにでもあるような言語の組み合わせが、諸外国の緻密なイデオロギーに支えられた戦争を遥かに凌駕する破局的惨事を欧州全土にもたらした。

バリ島演劇に戻ろう。

「それは物理的な嵐以上のものであり、精神の粉砕であるが、彼らの手足と彼らの転がる目玉の散乱する震えがそれを意味している。かれらの逆立った頭の音響的周波数は時おり恐るべきものである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)

注目すべきは「音響的周波数」として捉えることができるというアルトーの言葉だろう。どんな音響なのか。音楽の研究は電子音楽や実験音楽の研究を通して世界各地でなされている。以前述べたように、そもそも統合失調症者の幻覚に関する研究から、その一部分の研究室内でほんのたまたまLSDは発見された。ところがLSDが精神にもたらす作用が統合失調症者の幻覚と一致するかというとほとんどの場合、そうではない。病者の見る幻覚は余りの多様性に満ちているからである。そして病者の幻覚/幻聴がなぜ病者にとって苦痛なのか。それは幻覚/幻聴がたいへん苦痛や苦悶に満ちたものだからであって、LSDのような多幸感を催すものではけっしてないからである。その意味でLSDは失敗だった。しかしLSDのもたらす精神状態を音楽を用いた別の方法で再現することは可能になりつつある。音楽にはまだまだ未知の世界が開かれているといえる。また、そのような特異的精神状態をもたらす物質は色々とあり医学的分野ではその特定と応用も進んでいるのだが、接種するものが薬物の場合、一般的には「副作用」と呼ばれる症状、俗に「バッド・トリップ」はつねに発生の余地を持つ。ところがバリ島演劇研究の中でアルトーがバッドトリップしてしまい、繰り返し襲いかかる悪夢と何度もこみ上げてくる嘔吐や糞便にまみれ果てるということはない。古来から伝承されてきた儀式を、遊びではなく、その儀式性が有する尊厳に則って正確に反復するかぎりでのみ、演劇を演じる俳優は不自然にではなくニーチェのいうように「宇宙の全実存と共演」することができるのであろう。

ふだん人間は自然との絶え間ない新陳代謝の中にいる。けれども近代以降の社会ではどのように振る舞うとしても直接的に自然と交感することはできない。できると主張する人間はいるが、そのような場合はただ単なるカルトに過ぎない。自然との直接性はすでに失われてしまっているからだ。失われてしまっていてすでに《ない》からこそ逆に《ある》と称するカルト教団が発生してきたのであってその逆ではない。だからもし自然との直接的新陳代謝を目指すというのであれば、仕方なくではあるものの何らかの薬物を介入させなければ不可能である。そしてそれができたとしても本当にそれは直接的なのかどうかを証明することはできない。この実験的作業を延々続けていくことは可能だが、それは証明の証明の証明のーーーというふうにいつまで経ってもきりのない計算問題を生じさせるばかりだ。メタレベルのメタレベルのメタレベルのーーーと、どこまで行っても終わらない。終わる必要はないと乱暴に決めてかかることもまたできない。もし本当に終わらない場合、実験台になった人間はおそらく永遠に元の状態に戻ることができなくなる恐れがあるからである。それではただ単なる無責任なだけであって少なくとも医療とはいえない。だが問題はなぜ、資本主義上陸以前のバリ島演劇にはバッドトリップという概念がなく、むしろ自然と人間との区別を消去すること、「無意識のまま魔力のまっただなかを通り過ぎ」つつ、身体がそのような身振り仕ぐさを取って過酷な状況のただなかを通り過ぎているということさえ「まったくわかっていない」でいられたのか、という問題は検討に値するだろう。

「そしてすさまじい宇宙嵐によって逆毛立った戦士の背後に『分身』がいて、それは子供じみた嘲笑の他愛なさへ委ねられて胸をそらし、ざわめく嵐の余波を受けてもち上げられ、無意識のまま魔力のまっただなかを通り過ぎるのだが、彼にはその魔力がまったくわかっていないのである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)

ただ思うのは、「トランス状態」という言葉は同じでも資本主義上陸以前と以後とでは「トランス状態」そのものの内容が大きく変化したのかもしれないということである。人間身体は実に器用に変化するものなのだから。

「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー97

2020年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
実際に死んだわけでもないのに、なぜか村の中では、ルイ・キュラフロワはもう死ぬのだということになってしまっている。それにともなう友人知人らの来訪を次々と受ける。知らせを聞きつけてやって来た神父がいう。

「『奥さん、若くして死ぬのはひとつの幸福ですよ』」(ジュネ「花のノートルダム・P.24」河出文庫)

神父に悪気はない。ただ幼く病気で重体におちいったキュラフロワを亡くそうとしている母エルネスティーヌに与える言葉として妥当だろうとおもわれる語彙を選択したに過ぎない。エルネスティーヌは答える。

「『それじゃあ、私は葬送の歌のまわりを踊ります』」(ジュネ「花のノートルダム・P.25」河出文庫)

まだ死んでいないというのに。なぜそんなことになるのか。二十世紀も半ばになると、「ドラマというシステム」はすでに不動のステレオタイプ(固定観念的ストーリー)として社会の中に君臨していた。村の誰もが葬儀を前提として展開するありきたりで陳腐で根拠のない「ドラマ」の参加者として登場しその役割をこれまたステレオタイプ(固定観念)に合わせて演じていく。するとドラマはもう自動的に進行してしまう。母エルネスティーヌは言語トリックにおちいる。「若くして死ぬのはひとつの幸福」、「私は葬送の歌のまわりを踊ります」、そして続々と駆けつける友人知人たちの厳粛な面持ち。それらはどれもアナロジー(類似、類推)に基づく想像の連鎖を形成してエルネスティーヌを拳銃との連想へ結びつける。「引き出しの奥」の「リヴォルバー」はただ単なる「事物」に過ぎず人間のように言葉を話すわけではない。ところがステレオタイプ化されたドラマの中ではものの見事に「ある行為を教唆」する「囁き」へ変化する。

「引き出しの奥にでかい制式リヴォルバーがあるということだけで、彼女にその態度を強いるには十分だった。事物がある行為を教唆し、ある犯罪の、軽いものではあるが、恐るべき責任をもたらすことになるのはこれがはじめてのことではない」(ジュネ「花のノートルダム・P.25」河出文庫)

この場合「制式リヴォルバー」が果たしている役割は、作品「葬儀」でエリックが殺人を儀式化する過程で有効に用いられたフェチ商品の系列と同様である。「背後」、「化粧」、「花」、「香水」、「鉄兜」、「厳粛な顔付き」、「革や銅や鉄の鎧」、「黒い喪章」、「真紅の旌旗(せいき)」、「荘厳な行進曲(マーチ)」等々。

「背後からは、化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たちが、殺害された少年の開いた胸からぞくぞくと繰り出され、笑顔で或いは厳粛な顔付きで、素裸で或いは革や銅や鉄の鎧に身をつつんで、黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)を押し立て、沈黙の世界の荘厳な行進曲(マーチ)に導かれて行進を開始するのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)

さらに。「革具の音」、「革紐」、「バンド」、「鉄の締め金」、「御者の鞭」、「長靴」等々。

「革具の音からの連想だろうが、特殊な娼家でよく黒いカーテンのかげにかくされているのを見かける、革紐や、バンドや、鉄の締め金や、御者の鞭や、長靴など、例の道具一式をひそめた不吉な布地の下で息づき、死の魅惑をたたえているところから、その太腿はますます神秘的なものに思えるのだった」(ジュネ「葬儀・P.220~221」河出文庫)

しかしそれらは普段ならどれも個々別々の物でしかない。本来ばらばらな物品を一つの系列のもとに統合したのはほかでもないハーケンクロイツという一つのデザインである。記号という意味ではただそれだけでしかないものが、死の象徴であり死が魅力的なものでもあるとする意味を持ち得たのはなぜなのか、というより、死の象徴であり死が魅力的なものでもあるとする意味を持ち得たがゆえにハーケンクロイツはドイツ帝国の象徴になり得たのである。たった一つのデザインとそれへの服従が何千万人もの死を正当化する。小説の舞台はナチスの黄金時代ではない。ナチスに黄金時代があるとすればそれはむしろ一九三〇年から一九三九年までだろう。後は徹底的な自己破壊ともいえる奇妙な戦争の連続であって、ただひたすら死の祝宴が続くばかりである。そしてその頃には何事もドラマ化しなくては気が済まない「ドラマというシステム」は社会の中に抜きがたく根を張っていた。死さえも、ではなく、死ゆえに是非とも「ドラマ化」しなくては気が済まない社会が出来上がっていた。登場人物はみな、少年キュラフロアの周囲に寄ってたかってドラマティックな自己陶酔に耽る。とはいえ、まだ死んでいないというのに、死から生じる連想の系列の中に「制式リヴォルバー」が置かれるやいなや、母エルネスティーヌの手《は》リヴォルバーによって延長されたかのように見える。ジュネは拳銃リヴォルバーを母エルネスティーヌの手の延長として捉える。死へ誘うフェチとして描く。ジュネとして確実な重量感を持つ拳銃ははただ単なるフェチであって何ら構わないし、実際にも機械は人間の身体の延長なのだから。ただ生じていることはそう単純でなく、逆に、母エルネスティーヌの手《が》リヴォルバーの延長へと変化するのである。母エルネスティーヌが拳銃リヴォルバーを《所有している》のではもはやなく、母エルネスティーヌは拳銃リヴォルバーの一部分としてリヴォルバーに《所有されている》。

「このリヴォルバーはーーーどうやらーーー彼女の身振りには不可欠な付属品になっていた。それは女主人公の伸ばされた腕を受け継いでいて、要するにそれは、そう言わねばならないからだが、乱暴に彼女に取り憑いていたのだが、その乱暴さは彼女の頬を燃やし、その乱暴さで、ポケットをふくらませるアルベルトの分厚い手は村の娘たちにつきまとっていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.25~26」河出文庫)

次の文章はジュネ的感性においてそのシーンについての思いを述べた部分だ。何の注釈もなしに前の文章から続いているのでややこしい。ともかく、殺人にはその意義の深さと等価をなす「華麗」な衣装あるいは物腰をもって、精一杯豪華に着飾って臨まねばならないというジュネ固有の思想がくっついている。

「私自身、その死から一個の屍骸を、だがまだ温かくて、抱きしめるのにちょうどいい影である屍骸を誕生させるために、ただひとりの柔らかな若者を殺すことにしか同意しないように、エルネスティーヌは、現世が必ずや彼女にかきたてる嫌悪(痙攣や、子供の打ちのめされた目による叱責や、噴き出す血と脳みそ)と天使的な彼岸への嫌悪を回避するという条件でしか、あるいは恐らく直ちにさらなる華麗さを与えるためにしか殺すことを受け入れなかったので、彼女は宝石を身に纏ったのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.26」河出文庫)

とはいえ、ジュネのいう華麗な衣装や宝石で彩られた身体というのは、作品「泥棒日記」にあるように、悪臭まみれの襤褸(ぼろ)をまとっていても何ら差し支えない。むしろできるかぎり醜怪極まりない屈辱の産物があらんかぎりの襤褸(ぼろ)をまとってのろのろとやって来ること。そのとき世間は一斉に道を開けるではないか。ジュネたちはただ出現するだけで「海を割って見せたモーセ」にも似た唯一性として出現するのだ。
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さて、アルトー。演劇の中で力の状態はつねに変化する。それらがどの身振り仕ぐさであったとしても舞台上で現わされるとき、「線的な身振り」に「変わる」と述べられている。たいへん興味深い現象だといえる。

「われわれは心の錬金術を目撃しているのであって、それは精神の状態を身振りに変える、しかもわれわれの行為が絶対を目指すならそのすべての行為がもち得るかもしれない、乾いて、まる裸にされた、線的な身振りに」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.108』河出文庫)

線的な身振り仕ぐさというのは、欧米のロマン主義的で感動主義的なものの対極にあると考えられる。たとえばヨーロッパ経由のロマン主義的音楽はベートーベンを経てヴァーグナーに至り、ナチスドイツの荘厳化のために測り知れない役割を果たしたことはすでに述べた。しかし欧米とは根本的に異なる少数民族のあいだでは、欧米化されていない「線的な身振り仕ぐさ」の儀式化によって古来から受け継がれてきた村落共同体の維持存続が可能だったことは注目に値する。

「大気のなかや、視覚的であって音響的でもある空間のなかに、物質的で生気ある囁きを合成する」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.108』河出文庫)

物質と強度との「合成」ということ。演劇は高純度であればあるほど、にもかかわらず、モンタージュ(奇妙な合成物)という形で出現するだけでなく、そのような方法でしか出現することはできない。「器官なき身体」とアルトーがいうとき、それは「強度にしか占有されない」。さらに「器官なき身体」は「一定の強度をもって空間を占める物質なのだ」。そして強度ゼロから出発するとして、その都度その都度の「強度の大きさとして現実が生産される」。バリ島演劇を通してアルトーがその中に見た強度の現実化としての身体言語。それは「強度の大きさとして」《生産された》「現実」以外の何ものでもない。

「器官なき身体は強度にしか占有されないし、群生されることもないように出来ている。強度だけが流通し循環するのだ。器官なき身体はまだ舞台でも場所でもなく、何かが起きるための支えでもない。幻想とは何の関係もなく、何も解釈すべきものはない。器官なき身体は強度を流通させ生産し、それ自身、強度であり非延長である《内包的空間》の中に強度を配分する。器官なき身体は空間ではなく、空間の中に存在するものでもなく、一定の強度をもって空間を占める物質なのだ。この度合は、産み出された強度に対応する。それは強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない。否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の。それゆえ、われわれは器官なき身体を有機体の成長以前、器官の組織以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵として扱う。この卵は軸とベクトル、勾配と閾、エネルギーの変化にともなう力学的な傾向、グループの移動にともなう運動学的な動き、移行などによって決定されるのであり、《副次的形態》にはまったく依存しない。器官はこのとき純粋な強度としてのみ現われ、機能する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.314」河出文庫)

それはまた、欧米の論理とはまたちがった《別様の仕方》で生き残っていた《他者の言語》だといえる。欧米では近代社会の成立と同じくして壊滅した。排除され破滅させられた。ニーチェはいう。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

始めて世界制覇を成し遂げたのはなるほど欧米人である。しかしそれを遂行するに当たって《別様の仕方》で生き残っていた《他者の言語》が解体されたか、どれほど無数の他者が抹殺されたかは想像を絶する。ところが、このホロコースト的絶滅を「正しい行為」として推し進めたのは何か。人間の「理性」である。ナチスドイツ、絶滅収容所、ソ連、原爆、東西冷戦、軍拡競争、等々、これらはすべて人間の「理性」から生まれた。そして「理性」は「道徳」と名づけられ絶賛されてもいた。ただ、二度にわたる総力戦以前、「理性」への問いはそれら取り返しのつかない事態が現実化する前の十九世紀すでに、とりわけニーチェによって「道徳への問い」として繰り返し反復され警告されてはいた。

ところでアルトーはバリ島演劇における身振りについて面白い表現を用いている。

「ジェスチャーは身体の運動競技的で神秘的な働きの機能であるーーーそして舞台の、あえて言うなら、波状の使用法の機能であり、その巨人の螺旋は面から面へとあらわになっていく」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.108~109』河出文庫)

舞台で演じられる身振り仕ぐさについて、「あえて言うなら」という条件つきではあるものの、その動きが「波状」であり「面から面へ」の移動を発生させるという点に注目したい。ラヴクラフト作品の中でランドルフ・カーターが遭遇した状態である。

「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)

この場合、「面から面へ」の移動は「或る次元から他の次元への移動」とその交錯として考えられている。しかし重要なことの一つは、ランドルフ・カーターがそれを経験したということではなく、第一義的には、その経験を可能にした認識とは何かということでなくてはならない。経験を可能にするのはあくまでも言語だからである。

「認識とは、《経験》を可能にすることなのだが、このことは、現実的な出来事が、影響をおよぼす諸力の側においても、私たちの形態化する諸力の側においても、途方もなく単純化されることによって、なされるのであって、《この単純化の結果、類似した諸事物や等しい諸事物が存在するように見えるのだ。認識とは、多種多様な数えきれないものを、等しいもの、類似したもの、数えあげうるものへと偽造することなのである》。それゆえ《生》はそうした《偽造装置》の力でのみ可能である。思考するとは或る偽造的変形のはたらきであり、感ずるとは或る偽造的変形のはたらきであり、意欲するとは或る偽造的変形のはたらきであるーーー。これらすべてのうちには同化作用の力があり、この力は、何かを私たちと等しいものにしようとする或る意志を前提する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一九〇・P.114~115」ちくま学芸文庫)

ところがカーターの経験は一般的言語に還元されない。還元不可能であるということを言うために一般的言語を使用して反語的に語る。神秘主義ではなくあえてSFという形式を取って、「三次元/四次元/五次元」そして「n次元」というほかない「到達不可能な」多次元への過程があることを物語る。アルトーがバリ島演劇の中に見たものもまた「n次元」というほかない「到達不可能な」多次元への過程なのかもしれない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー96

2020年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
重体であることが伝わると村の友人知人たちがキュラフロワの枕元に駆けつける。それらは文学に登場する「天使とニグロと兵士」が変身した姿として現われる。しかしジュネ的感性の所有者である男性同性愛者は当時の文学からも拒否されていた。だからどの友人知人もキュラフロワが根底から望んでいる「蛇捕りのアルベルトの顔に」《なる》ことはない。

「天使とニグロと兵士は、かわるがわる彼の仲間である小学生や、農民の顔になっていたが、けっして蛇捕りのアルベルトの顔にはならなかった。星をちりばめた肉の口でもってその酷熱の渇きを鎮めるために、キュラフロワが彼の沙漠で待っていたのはこの男だった」(ジュネ「花のノートルダム・P.22~23」河出文庫)

蛇は歴史以前的時代から世界中の諸民族共同体の中で男性器の象徴として取り扱われてきた。信仰の対象として今なお崇め奉られていたりする。しかしそれは一方で蛇が男性器の象徴でありもう一方で蛇の穴かそれに相当するものが女性器の象徴を果たしている限りにおいてという条件つきだった。男性器に似た巨石があり、そのすぐそばに女性器に似た巨石があるような場所は、ただそれだけで「神聖」な場とされ聖地とされてきた。古代信仰ゆえそれを信じるも信じないも見る人それぞれで構わないのだろう。しかし信仰の持つ排他性というものの残酷さは一方で、様々な性的指向性の持ち主を徹底的に排除し、間接的に自殺へ追い込む装置として機能してきたことも事実である。少年キュラフロワは瀕死の状態で漠然とおもう。「蛇捕りのアルベルト」がやってこない世界など「心地よいところが何もない」にもかかわらず「幸福」と呼ばれていることについて。それこそ「人の住まない、荒涼とした場、蒼穹や砂だけの場、優しさと色彩と音はもはや何ひとつ存続しないような、磁気を帯びた、乾いた、物言わぬ場」でしかないと。

「それから立ち直るために、彼はその年齢にもかかわらず、心地よいところが何もない幸福とは何なのかを解明しようとしていた、純粋で、人の住まない、荒涼とした場、蒼穹や砂だけの場、優しさと色彩と音はもはや何ひとつ存続しないような、磁気を帯びた、乾いた、物言わぬ場が何なのかを」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)

ジュネ独特の錯綜した文章が続く。ジュネは混乱する理由を自覚している。文章力が足りないのではなく逆に申し分ない。有り余るほどある。その豊富さがかえって錯綜した文章に見えるというに過ぎない。ただ単にすっきりした文章なら他の小説家がもっと昔からさんざん用いている。が、そのような文章あるいは文体をどのように器用に駆使したとしても文学の中で「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に凱歌を歌わせ、音楽を到来させることに成功してきただろうか。成功してきたとは到底いえない。実現されてこなかった。世界は、文学においてさえも、逆に「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に音楽を与えることを拒否してきたばかりか、音楽から遠ざけておくことに専念してきた。「蛇捕りのアルベルト」を待ち望む瀕死の少年キュラクロワが感じる孤独もそのような「文学という制度」からはじき出された者が必然的に持たざるをえない絶望によってもたらされた孤独だ。病気の深刻さがもたらした孤独ではない。

「それよりすでにずっと前に、霜に覆われた若い羊飼いのように、粉だらけになった金髪の粉屋のように、あるいは後に彼が知ることになる、そうしてある朝ーーー彼の顔は眠たげで、石鹼の泡の下で薔薇色をしていて、髭ぼうぼうだったーーーここ独房のなかの便所のそばで私自身が、そのヴィジョンをずらしているところを見た花のノートルダムのようにきらめく、黒いドレスを纏い、だが白いチュールのヴェールにくるまれた、村の街道に現れた花嫁の幻が、ポエジーとは優しさについての曲線のメロディーとは別のものであることをキュラフロワに明かしたのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)

ジュネはもっぱら先に述べておく。キュラクロワ(彼)がパリに出てディヴィーヌ(彼女)として生きていくとはどういうことかを。そこではなるほど類稀な詩(ポエジー)が出現することもあるだろう。しかしこの種の詩(ポエジー)は世間一般から見たロマン主義的な詩(ポエジー)でなく、「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の側から見たときのみに限り、ロマン主義の極地に位置して見えるような詩(ポエジー)であると。言葉にすれば詩(ポエジー)という同じ言葉なのだが、しかし「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としてロマン主義の極地を体現する詩(ポエジー)は、けっして「優しさについての曲線のメロディーとは」似ても似つかない。それは「別のものである」。やさしげな「曲線」ではなく逆に極めて鋭角的な剃刀の「冷やかなカット面」のようなものだ。

「というのもチュールは、切り立って、鮮明で、厳格で、冷やかなカット面となってちぎれていたのだから。それはひとつの警告だった」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)

このようにパリの街頭のあちこちに散乱した「冷やかなカット面」から切り出される種々の音楽。しかしもちろん、それらすべてが音楽として出現するわけではない。鮮やかに切り出されることなく不器用に終わった犯罪のほうがどれほど多いか。マリー・アントワネットの処刑やマリー・アントワネットを処刑したロベスピエールの処刑のような燦然たる「冷やかなカット面」が織りなすギロチンの芸術品は、それこそ数えるほどしかないのである。
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さて、アルトー。「純粋演劇」とアルトーはいう。しかし純粋な演劇というものはどういうものなのか、実際は誰も知らない。そこで演劇が舞台で演じられるとき、舞台化されるときに見られる「密度の高い平衡」ということについて見てみる。

「バリ島の演劇は純粋演劇の主題をすべてそろえてわれわれに示しもたらすのであって、舞台化が密度の高い平衡や、完全に物質化された重力をそれに付与する」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.106』河出文庫)

バリ島演劇の俳優はたいへん機械的な動きを取るとアルトーは述べている。高純度の平衡感覚が重視されているとも言えるだろう。しかしなぜそうかのか。バリ島の絵画研究でベイトソンは次のように述べる。

「バトゥアン画派の絵画はほとんどそうであるが、この絵にも背景に濃密な葉の繁みが描き込まれており、そこに基本的ではあるが高度の訓練された技能が発揮されている。ここで冗長性は、まず葉形の均一性ないしリズムカルな繰り返しという形で得られている」(ベイトソン「精神の生態学・P.223」新思索社)

葉形は別にどの葉っぱの形でも構わないとおもわれるわけだが、それが描かれる対象として絵画化される場合、その規則性、周期性、回帰性の重視はとりわけ顕著である。ベイトソンはそれは「均一性ないしリズミカルな繰り返し」という。

「彼らの身振りは、じつにうまい具合に木やうつろな太鼓のあのリズムにしたがって落ち、そのリズムを区切り、じつに確実に、まるで稜線に沿うかのように、飛んでいくリズムをつかまえるので、この音楽が節をつけて歌おうとしているのは彼らの手足の空洞であるように思われる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.107』河出文庫)

演劇を演じる俳優の身振り。それは「リズムを区切り、じつに確実に、まるで稜線に沿うかのよう」な振る舞いとして要請される。俳優の側が、ではなく、逆に演奏される音楽の側が俳優の身体を用いて、俳優らの「手足の空洞」を用いて何かを達成させようとしているかのようなのだ。言い換えれば、俳優の身振り、ダンス、動き、は極めて「制御」されていると十分に言いうる。ベイトソンの言葉を用いれば、それは「第一のレベル」を確実に遂行することである。

「実際のところ、第二のレベルを成立させることこそ、第一のレベルにおける制御の必要性と機能があるのだ。この絵かきは、その気になれば葉を均一に描くことができる、という情報を鑑賞者が受信できなければ、その均一性が変奏されることの意味が消えてしまう」(ベイトソン「精神の生態学・P.224」新思索社)

その意味で演劇の鑑賞者は演劇の中に巻き込まれていなければならない。しかしただそれだけではまだ無意味に等しい。さらに古代から延々と続く儀式における演劇について、バリ島の人々が一九六七年にこれを発表したベイトソンのように「第一のレベル/第二のレベル」などと考え使い分けていたわけではない。というのは、古来からバリ島の人々は欧米的知性の観点からものを見る能力を持っていなかったためにそのように考えることができなかった、というのではなく、そのように考える必要性がそもそもなかったからである。

ベイトソンのいう「第一のレベルにおける制御の必要性と機能」としての絵画。そしてアルトーの目には非常に機械的で計算されたリズミカルな身振りとして演じられる演劇。なぜそれらは「幾何学的」でありなおかつ繰り返し反復されるのか。古来のバリ島の人々は、知らず知らずのうちに「第二のレベルを成立させる」が、わざわざ「第二のレベルを成立させる」ために「幾何学的」な動作を反復させるわけではない。そうではなく、ベイトソンのいう「第二のレベル」はメタ・レベルを意味しているのであって、メタ・レベルからの要請に従って忠実に振る舞おうとすればするほど、「第一のレベル」が極めて「幾何学的」な規則性、周期性、回帰性《として》反復されるのは必然的帰結なのだ。

ではメタ・レベルとしての「第二のレベル」とは何か。バリ島ではバリ島独特の自然環境のことであり、バリ島の人々が生きていくためになくてはならない自然の環境循環の法則性を意味する。そしてこの法則性はバリ島におけるコンテクスト〔社会的文脈〕を根底から規定している。さらに演劇あるいは絵画にはたった一つのパターンしかないわけでなく、一つの演劇あるいは絵画において、演劇あるいは絵画としての《身体において》、様々な変奏がなされる。そのように一つの形式的パターンの反復から発して様々な変奏を生じさせるのは極めて厳格で「幾何学的」な主題が厳密に反復されることによってである。

「つねに一定の音色を出せるバイオリン弾きだけが、音色の変化を芸術的効果のために使うことができる」(ベイトソン「精神の生態学・P.224」新思索社)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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