白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/蟹淵と斧・水神の恩返し

2020年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
紀州の「姫蟹」について以前に二度ほど述べた。

「本邦で山男が食う蟹は、紀州で姫蟹という物だろう。全身漆赭褐色、光沢あり、行歩緩慢で、至って捕えやすい。山中の狸などもっぱらこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.312』河出文庫)

姫蟹の名にはなぜ「姫」とあるのだろう。差し当たり「蟹の恩返し」というべき説話については既に論じた。下をクリック↓

熊楠による熊野案内/「だいにっつぁん」と紀州姫蟹

童女は常日頃から蟹に米粒を与えていた。さらにいつも弱い立場に置かれている蟹の窮地を救ってくれた童女を大蛇の襲撃から守るため、約束の期日の夜に童女を襲いにやってきた蛇をばらばらに切り刻んで救ってやる。

とはいうものの中には強力な鋏を持って一定地域を我が物顔で占領している大型の蟹もいる。次に上げる昔話は隠岐島(おきのしま)に残されていたもの。

或る老樵(きこり)が登場する。樵は常に山岳地帯で暮らす山人ではなく戦後しばらくの間も東北地方の数カ所に残っていたマタギでもない。マタギは山間部に入って狩猟を主な生業とする人々。樵は山間部に入って伐った木を村に持ち帰り、薪にしたり材木として販売し生計を立てる。

さて、一人の老いた樵が川沿いに山中の奥まで入って木を伐っていたところ、誤って斧を川の滝壺に落してしまった。するとにわかに周囲が真っ暗になった。とともに、落した斧で切断されたと思われる黒い棘(とげ)の生えた棒のようなものが水中から浮かび上がってきた。周囲が真っ暗になるのは怪異譚の定石通りである。怖れを感じた樵がその場から村へ引き帰そうとすると、後ろから童女の声が聞こえて樵を引き止めた。「若いお姫様」=「童女」はいう。いつ頃からかこの淵に巨大な蟹が住み着くようになった。それからは安心して水の中で暮らすことができないでいる。ところが今、樵の爺が落してくれた斧が巨大蟹の両方の鋏の一本を切断してくれた。ありがたいことです。でも蟹にはまだもう一方の鋏が残っています。どうかもう一度斧を落して蟹の鋏を両方とも切断してくれませんか、と。

「後からまことに優しい声で、爺よ、少し待っておくれという人があります。振り返って見ると、絵にあるような美しい若いお姫様が、ちょうどその滝の所に立っておられました。私は安長姫といって、昔から、この淵に住む者だが、何時(いつ)の頃よりかここには大きな蟹が来て住むことになって、夜も昼も私を苦しめていた。今日はそなたが斧を落としてくれたによって、悪い蟹は片腕を切り落されて弱っている。今大きな刺の生えたその腕が、流れて行ったのを見たであろう。そのお礼を言わなければならぬが、まだ片方の腕が残っているので、安心をしていることが出来ぬ。蟹は今淵の底の横穴の中で、腕の痛みで唸(うな)っている。どうかもう一度この斧を、滝の上から落しておくれと言って、さっき水に沈めた斧を手渡しました」(柳田國男「蟹淵と安長姫」『日本の昔話・P.52』新潮文庫)

樵にすれば水中から出現した「若いお姫様」なのでその正体は当然「水の神」だと考える。村落共同体にとって水の神は何より大切な神だ。もし旱魃が続いて水を得られなければその村全体はたちまち絶滅に直面する。島の農耕は一挙に壊滅する。樵は水の神を助けなければと思い、もう一度高い所から滝壺目がけて斧を投げ込む。姫神はたいそう喜んでお礼を述べる。樵は村に戻るとこんなことがあったと村人に語った。樵の言う話はあまり信じてもらえなかったが何日かすると川の河口付近で、両方の鋏を失った巨大な蟹の死体が海へ流れ出されていくのを村人が目撃した。それ以来、その川は水の神が自身の名を「安長姫」(やすながひめ)と名乗った通り「安長川」(やすなかがわ)と命名し、「安長姫」(やすながひめ)を不安に陥れていた蟹がいた滝壺を「蟹淵」(かにぶち)と呼ぶようになった。

「それから幾日かの後、甲羅の周りの一丈もある蟹の、大爪の両方ともないのが、死んで海の口へ流れて出たのを、村の人が見つけまして、樵の爺の言った話を、本当だと思いました。そうして川の名を安長川、滝壺を蟹淵と呼ぶようになったのだそうです。この川の流れはどんな旱(ひでり)の年でも水が絶えませぬ」(柳田國男「蟹淵と安長姫」『日本の昔話・P.53』新潮文庫)

それ以来、「安長姫」(やすながひめ)は水の神として村への水の供給を絶やすことがないように取り計らった。山間部の川の淵にいたことから、この水の神はそもそも山の神として考えられる。さらに樵は常日頃から山間部で林業を営む杣人(そまびと)でなくてもよいのであって、決定的なのは樵がいつも持っている「斧」(おの)だ。斧は鉄製品の中でも特に山間部での必需品である。それは弁慶の七つ道具と非常に似ている。弁慶の七つ道具のうち決定的な三種のものは「義経記」に出てくる。

「武蔵房は弓を持たず、四尺二寸(約1.27メートル)の柄に鶴(つる)の装飾を施(ほどこ)した太刀を持ち、岩透(いわとお)しと呼ばれる脇差(わきざし)を腰に差していた。そして猪(いのしし)の目を彫(ほ)った鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)を添えて舟の中に投げ入れた。そしていつも身から放さぬ一丈二尺(約3.6メートル)の棒に、筋金(すじがね)を蛭巻(ひるま)きにして尖端(せんたん)を金具で包(つつ)んだ櫟(いちい)の打ち棒を小脇に抱えて小舟に飛び乗った」(「〔現代語〕義経記・巻第四・住吉大物二ヶ所合戦のこと・P.186」勉誠出版)

とあるように「鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)」である。戦記物としてばかり見ているとその意味はわからない。弁慶は京の都を出たあと、摂津国河尻(かわじり・兵庫県尼崎市)まで船を下り明石(兵庫県明石市)の浦へ着く。そこから海を渡り四国の阿波国(徳島県)へ上陸、焼山(やけやま・徳島県名西郡の焼山寺か)の剣山(つるぎさん)を礼拝、讃岐(さぬき)の志度(香川県大川郡)から伊予(いよ)の菅生寺(すがおでら・愛媛県上浮穴郡久万町、現・大宝寺)に参詣、さらに土佐の幡多(はた・高知県幡多郡)にある泰泉寺(たいせんじ)へと修験道場を次々と参拝する。修験道における山岳地帯は山神の聖地である。山神の聖地を駆け巡る弁慶の「鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)」は、ただ単なる護身具でしかないと考えると大変な勘違いになる。それらはただ単なる護身具である前に修験道における「神事」のための神器でなくてはならない。そのような次第があって始めて鉄製品としての「斧」は山間部で生業を営む樵にとってもまた山神の神器の意味を持つ。山神の神器としての「斧」ゆえに同じく山神としての水神は「斧」によって守られたわけだ。

ここで取り上げた「蟹淵と安長姫」の伝説は隠岐周吉(すき)郡に残されていたものを柳田國男が採集した。一九六九年(昭和四十四年)、島根県隠岐郡に合併編入され周吉(すき)郡は消滅した。

なお、十二月二十四日、二十五日と幾つかのニュース報道に目を通したけれども、新自由主義全面導入により二〇〇〇年代に入って出現した新しい貧困格差問題には何ら触れていない異様なニュースばかりだった点を重点的に指摘しておかなければならない。このペースで貧困世帯並びに貧困ビジネスがますます増えるとすれば、二十世紀後半、日本の高度経済成長期に裁判基準として採用されていた「永山基準」の復活さえ日程に上ってくる可能性を排除できなくなるだろう。

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熊楠による熊野案内/死人花(しびとばな)伝説と拉致問題

2020年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠はいう。

「紀州の白崎では、以前榕実熟する時、猴これを採りに群集し、田辺附近の竜神山にも、千疋猴とて、夥しき猴の団体を見た事あるも、近年一向なし。猴ごとき本来群居するものの性質行為を研究するは、是非ともその野生群居の処にせにゃならぬに、そんな所は本邦で乏しくなった」(南方熊楠「十二支考・下・猴に関する伝説・P.69」岩波文庫)

群居性が顕著な猿。その集団生活スタイルを奪い去ったのは熊楠が指摘するように神社合祀を始めとした近代日本政府の諸政策にほかならない。日本に限らない傾向だがどこへ行っても多かれ少なかれ近代は自然生態系の破壊に着手することから始めた。そのとたん近代社会は自然生態系に対する「債務者」と化す。が、近代社会というこの債務者は自ら発生させた債務が履行できなくなるたびに債権者〔自然生態系〕の側へと憎悪を向け換えて債権者を徹底的に叩き潰してしまうほか方法を知らない無知な人間集団でしかない。自然はいつも人間社会と新陳代謝している。この新陳代謝が近代的になればなるほど債権者としての自然生態系は相応のダメージを受けるため必然的に変形してきた。打ち続く異常気象はもはや異常ではなくむしろ日常と化した。それでもなお債務者〔近代社会〕の側へ向きを置き換えられた〔自然生態系が持つ〕破壊力は衰えることを知らない。高度化するテクノロジーは高度化すればするほどますます自然生態系に向けて破壊的ダメージを与え続けていく。地球規模で両者ともども壊滅が加速する。高度テクノロジー開発との新陳代謝関係にある限り、自然生態系は、債権者〔自然生態系〕自身をも自己破壊しつつとどまる勢いを見せていない。

「今や究極的な償却の見込みは、悲しいかなひとたまりもなく全く閉ざされ《なくてはならない》。今や眼は悄然と鉄の如き不可能性の前に跳ね返り、弾き返ら《なくてはならない》。今やあの『負い目』や『義務』の概念は後向きになら《なくてはならない》ーーーが一体、誰の方へ向かうのであるか。疑いもなく、まず『債務者』の方へである。今や債務者のうちに良心の疚(やま)しさが根を張り、食い込み、蔓(はびこ)って、水虫のように広く深く成長する。その結果、ついに負債を償却できなくなるとともに罪の贖(あがな)いもできなくなり、ここに贖罪の不可能(「《永劫の》罰」)という思想が抱かれることになる、ーーーがしかし最後には、あの概念は『債権者』の方へまで向かう」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.108」岩波文庫)

消滅したのはかつて「千疋猴」と呼ばれた猿の大移動ばかりでない。柳田國男はいう。

「猿の経立(ふつたち)、御犬(おいぬ)の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼(おおかみ)のことなり。山口の村に近き二ツ山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下より押し上ぐるようにしてかわるがわる吠(ほ)えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄(ものすご)く恐ろしきものはなし」(柳田國男「遠野物語・三十六」『柳田國男全集4・P.29~30』ちくま文庫)

日本狼はどこへ行ったのだろう。野良犬よりも早く滅亡した。

それはそうと二〇二〇年も残り僅か。ほとんどの報道はパンデミック関連で埋め尽くされた。日本に限ってみてもパンデミック関連が大半を占めており、残りのうち「桜疑惑」は十二月二十四日夕方に行われた前首相会見でほとんど終わろうとしている。テレビのコメンテーターらは口を揃えて後味の悪さを指摘していたがっているか、そうでなければただ単に今後予想される政界再編へ向けたスケジュールについて語りたがっている様子だった。ところが間歇的とはいえ「桜疑惑」報道はまだまだ大きく取り上げられた側に属するニュースの一つだ。なぜなら前首相がまだ父親(故・安倍晋太郎)の秘書を務めていた頃から取り組んできたはずの拉致問題に関し、何ら解決への道筋一つ示さずにもう年末を迎えることができたからである。したがって前首相は、「桜疑惑」、「拉致問題」、ともに曖昧な迷宮に封じ込めつつ議員として公約に掲げた責任を果たせないまま堂々と年末年始を安穏と過ごすことができる方向へ持っていった。一方、拉致被害者とその家族らは与党にも野党にも期待はずれを食わされ続け置き去りにされ今年もまた取り残されようとしている。

ところで熊楠は一九一四年(大正三年)から連載を始め、途中で関東大震災を挟みながらも、約十年をかけて「十二支考」を完成させた。その中で「死人花(しびとばな)」伝説に触れている。日本だけでなく一八〇〇年以上前の中国でも「茜草を人血の所化(なるところ)」と信じて疑われていなかった。

「わが邦の毒草『しびとばな』も花時葉なく墳墓辺に多くある故死人花(しびとばな)というて人家に種(う)うるを忌む(『和漢三才図絵』九二)というが、この花の色がすこぶる血に似ているのでかく名づけたのかも知れぬ、『説文』に拠ると今から千八百余年前の支那人は茜草を人血の所化(なるところ)と信じた」(南方熊楠「虎に関する史話と伝説民俗」『十二支考・上・P.45』岩波文庫)

一見するとただ単なる伝説に過ぎないと思われる民間伝承なのだが、という主旨である。熊楠はけっしてそこで話を終わらせたりしない。もちろん続きがある。

「十三世紀のマルコ・ポロ紀行にいわく尊者の墓へキリスト回々(フイフイ)二教の徒夥しく詣り尊者殺された処の土色赤きを採り帰って諸種の病人に水服せしも効験灼然(いちじるし)と十六世紀にジョアン・デ・バルロス記すらく、尊者最後に踏んでいた石に鮮血迸り懸りたるが今にあり、少時前に落ちたとしか見えぬほど生々しいと、一八九〇年版クックの『淡水藻序説』第十二章に一〇六六年英国最後のサクソン王ハロルド、ノルマン人とヘスチングスに戦い殪(たお)れた、そこに雨後必ず赤くなる地あり、これ死人の怨恨により土が血の汗を出すのだというが、実は学名ポーフィリジュム・クルエンツムてふ微細の藻が湿地に生じ、晴れた日は乾いて黒いが雨ふれば凝(かたま)った血のように見えるのだと述べ居る」(南方熊楠「虎に関する史話と伝説民俗」『十二支考・上・P.49』岩波文庫)

墓地に血の色をした真っ赤な花が咲くのはなぜか。熊楠はヨーロッパに残る文献からの引用を参照しつつ、その謎についてだんだん明らかにしていく。

「この藻は和歌山市の墓地などに多く、壁などに大小種の斑点を成して生えるとちょうど人が斬られて血が迸ったごとく見える、予年来奇異の血跡など称うる処を多く尋ね調べたがあるいは土あるいは岩石の色が赤いのもありまた種々の生物で血のように見えるのもある」(南方熊楠「虎に関する史話と伝説民俗」『十二支考・上・P.49』岩波文庫)

植物学者だった熊楠にはもう解けたも同然。こう述べる。

「十二年前予那智の一の滝下および三の滝上で浅い急流底の岩面が血を流したように赤きを見最初はその岩に鉄分ある故と思うたが念のため採り帰って精査するとヒルデプランチア・リヴラリスてふ紅藻だった、その後熊野十津(とつ)川から日高奥の諸山地で血の附いたような岩が水辺にあると見るごとに検査すると多くは同じ紅藻だった」(南方熊楠「虎に関する史話と伝説民俗」『十二支考・上・P.50』岩波文庫)

水分を多く含む土壌で繁茂する性質を持つ「紅藻」(こうそう)が「死人花(しびとばな)」の正体。那智の滝のすぐそばや山間部に多い墓地などで見かけられるのはそのためだ。種も仕掛けもある必然的産物だった。紅藻は主に岩礁地帯の高潮線付近で多く見られるが、分布域は広く、東南アジア、アフリカ沿岸部、中米、などのマングローブでも見られる。日本でも沖縄本島、久米島、宮古島、石垣島、西表島などのマングローブでは紅藻だけでなく様々な動植物が繁殖している。ところが今やマングローブ自体が絶滅危惧種とされているため、それら希少種もまた絶滅の危機に晒されている。さらに紅藻は動物にくっ付いて移動することがあり、山間部へ上ってきたまま定着したものや、オーストラリアではナマケモノの背中で暮らしているものも発見された。熊楠が「晴れた日は乾いて黒いが雨ふれば凝(かたま)った血のように見える」とある箇所を引用しているように、黒色とまではいかなくとも例えば日本で有名な温泉地・草津温泉で流泉が干上がった箇所に濃い緑色の部分が出現することがあるが、それはこの種の藻が始めから持つ特徴の一つである。

要するに、古代から相続されてきた民間伝承に過ぎないとはいえ、それにはれっきとした理由がある、と熊楠はいっているわけだ。少しずつではあるものの、研究の進展とともに生態系のシステムが徐々に解明されてきたように。

では話を差し戻そう。拉致問題。与党も野党も拉致被害者とその家族とをほとんど見放していると考えざるを得ない。何年か前に朝鮮総連幹部と日本の国家公安委員会幹部とが土地取引をめぐって仲良く会話していた事実が暴露されたが、あれからさらにネット社会の普及により逆に問題そのものが風前のともしびと化してしまう手前に立ち至っているかのようにさえ思える。だからといって、第一に憲法改正して先制攻撃可能な状態を作り出し日本側から北朝鮮を攻撃するとすればそれによって拉致被害者は本当に死んだということにされてしまうだろう。第二に憲法改正しないとしよう。小泉内閣がやったように金銭で解決するほかないだろう。地域紛争状態に持ち込めば拉致被害者は全員死亡したことにできるかも知れない。だが金銭取引であれば、少なくとも帰国希望者に限り、まったく望みが絶たれたわけではないと考えられる。かつてヨーロッパでも東南アジアでも「黙市」(サイレント・トレード)が可能だったように。

なお、拉致問題に踏み込むと公安警察から目を付けられるのではと心配してなるべく近寄らないようにしてきた人々も数多くいるに違いない。しかし北朝鮮の工作員にせよ日本の公安警察にせよ、今やネット社会の加速化によって工作員自身がさらに監視され公安警察自身もまたさらに監視されているため、下手に情報提供者を脅迫したりすればたちまち露呈してしまう世界が出来上がっている。したがって情報提供に当たって何か逆に脅迫されたり身近なところで変な事態が起こるといったことはもはやほとんど考えられない。むしろ身近な生活圏で脅迫とか変死などが起こる前に事態が暴露される高度ネットワークが世界中に張り巡らされるに至った。どこの国へ行ってみても警察(公安)が警察(公安)同士を常に監視している社会が出現した。情報提供に当たってかつてのように躊躇する必要性はもはやゼロに近いと思われる。政治政党は利権集団であって知っていても知らない態度を取るのが常だ。それより悪質なのは政治政党の票田となっている支持団体とその支持政党の推移を見なければならない。かつて日本社会党や公明党や社民党を応援していた幾つかの支持団体(解放同盟、創価学会、朝鮮総連、など)のやや半分以上は、今どの政党の支持に回っているか。政府与党である。そのような状態がふつうになってから、拉致問題は一転してあたかも未解決事件のように葬り去られようとしていることを忘れてはならないだろう。

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熊楠による熊野案内/粘菌の変態過程と帝釈天の性的多様性

2020年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠は「帝釈天」について少しばかり触れている。よく知られたものだが、説話としては一つに見えるものの、その主題は二つある。

「帝釈天が瞿曇仙人の苦行に乗じその妻を盗みしを怒り、仙人が呪すると帝釈たちまち女体に変じ、全身に千個の牝戸を生じ、始終それぞれの牝戸をやり通しに男子にやりつづけられ大いに苦しみ、とある」(南方熊楠「粘菌の神秘」『森の思想・P.162』河出文庫)

帝釈天はそもそもインドで発生した神だが中国で仏教に取り入れられ、釈迦の弟子として名を連ねることになった。ところで熊楠が注目しているのは帝釈天の「変身性」だ。というのは、この論考は「粘菌」が次々とその形態を変えていく変態過程をテーマとしたものだからである。「瞿曇(くどん)仙人」は釈迦のこと。瞿曇が屋外での難行苦行に出かけている時を見計らい、帝釈天は瞿曇に変身し瞿曇の妻を犯した。現場を見た瞿曇は怒り、帝釈天を「石に化し千の子宮を付けて水に沈めた」。千個の女性器で埋め尽くして水中へ沈めたという。要するに帝釈天は普段は男性だが時として女性に変身することができると。

この処分を憐れんだ諸神は千個の女性器で埋め尽くされた帝釈天の身体を今度は逆に「千の眼に取り替えてやった」。「〔認識する〕千の眼=千個の男性器」と置き換えてやったというのである。

「インドでも子欲しき女はハヌマン猴神の祠に往き燈明を供える。古伝にアハリアは梵天創世初期に造った女で瞿曇(くどん)仙人の妻たり。帝釈かかる美婦を仙人などに添わせ置くは気が利かぬと謀叛を起し、月神チャンドラを従え雄鶏に化けて瞿曇の不在を覘(うかが)い、月神を門外に立たせ、自ら瞿曇に化け、入りてその妻と通じた処へ瞿曇帰り来れど月神これを知らず、瞿曇現場へ踏み込み、呵(か)して帝釈を石に化し千の子宮を付けて水に沈めた。後(のち)諸神これを憐み千の眼に取り替えてやった。一説には瞿曇詛(のろ)うて帝釈を去勢したるを諸神憐んで羊の睾丸で補充したという(グベルナチス『動物譚原』一巻四一四頁、二巻二八〇頁)」(南方熊楠「十二支考・下・猴に関する伝説・P.78」岩波文庫)

インド発祥の帝釈天は「猴神」(さるがみ)である。とともに帝釈天の自由自在な変態性というテーマが明確化してくる。或る時は男性神、また或る時は女性神。帝釈天は男性と女性との《あいだ》を難なく往来する。また、釈迦が与えた罰として「去勢」=「男性器切除」があり、しかしその後すぐ、去勢された帝釈天の男性器は諸神の憐れみによって「羊の睾丸で補充した」とされる。男性器と女性器とは置き換え可能であるということは仏教が成立する以前からインドでは知られていた。とはいっても、当時は外科手術など不可能である。手術ではなく、そもそもの始めから両性具有者が少なくなかった、という事実が先にあり、後になって逆に仏教説話化されたという点が大事だろうと思われる。「羊の睾丸」とあるけれども、インド周辺の諸宗教では、牛であったり象であったりする。今の京都市「東寺」にある帝釈天像は象にまたがっており密教系の色彩が濃い。ちなみに熊楠は「十二支考」の中で牛だけを独立させて取り上げてはいない。なぜなら、牛は羊でもあるからだ。とりわけ古代ギリシアでディオニュソス神が牛になったり羊になったりすることと共通する。

そうして帝釈天は干支(えと)に引き継がれたわけだが、「ハヌマン猴神」とあるように日本では「猴(さる)」に相当する。猿を神とする信仰は古く、全国的に分布する山王社が上げられる。次の文章では猿をトーテムとした氏族は案外多かったと述べている。

「かつて熊野川を船で下った時しばしば猴を見たが船人はこれを野猿(やえん)また得手吉(えてきち)と称え決して本名を呼ばなんだ。しかるに『続紀』に見えた柿本朝臣佐留(さる)、歌集の猿丸太夫、降(くだ)って上杉謙信の幼名猿松、前田利常(としつね)の幼名お猿などあるは上世これを族霊(トーテム)とする家族が多かった遺風であろう」(南方熊楠「十二支考・下・猴に関する伝説・P.28」岩波文庫)

柿本朝臣佐留(さる)の名は確かに「続日本紀」に見える。

「四月二十日 従四位柿本(かきのもと)朝臣佐留(さる)が卒した」(「続日本紀・巻第四・元明天皇和銅元年(七〇八)年・P.103」講談社学術文庫)

千の女性器と千の男性器を兼ね備えた無類の神として、その信仰は今なお熊野だけでなく京都・北野天満宮にも相続された。

「和歌山市附近有本という処に山王の小祠あり、格子越しに覗(のぞ)けば瓦製の大小の猴像で満たされて居る。臨月の産婦その一を借りて蓐頭(じょくとう)に祭り、安産の後瓦町という処で売る同様の猴像を添え、二疋にして返納する事、京都北野の子貰い人形のごとし」(南方熊楠「十二支考・下・猴に関する伝説・P.77」岩波文庫)

なお、ここでいう「千」という数字は「数えきれないほど無数の」という意味で用いられている。粘菌がどんどん変態過程を遂げていくことと人間が持つ性的多様性という二つのテーマは、熊楠の博学な知識の中では何ら矛盾せずむしろ当たり前に属するありふれた現実だった。

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熊楠による熊野案内/民族起源神話の反復とその背景

2020年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
地域紛争に盆も正月もない。バルカン、中東、カスピ海沿岸ーーー。民族起源神話の世界が何度も繰り返し反復されていない日はないかのように感じる。かつて熊楠は平家蟹について論じた。平家蟹はなぜ憤怒の相をしているかのように映って見えるのか。その中で「武文蟹」(たけぶみがに)について論じている。

「『和漢三才図会』に、元弘の乱に秦武文(はたのたけぶみ)兵庫が死んで蟹となったのが、兵庫や明石にあり、俗に武文蟹と言う、大きさ尺に近く螯(はさみ)赤く白紋あり、と見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい」(南方熊楠「平家蟹の話」『南方民俗学・P.145』河出文庫)

以前、その由来について「太平記」を追って述べた。クリックして参照可能。

「熊楠による熊野案内/土佐日記外伝・武文蟹」

その「武文蟹」(たけぶみがに)由来の舞台となった土佐国畑(はた)。今の高知県幡多郡(はたぐん)。ここから或る夫婦が新天地を求めて船出しようとしていたところ、「白地(あからさま)」=「一時的」に浜辺に置いておいた船から離れた。船のなかには夫婦の子ども二人を乗せたままだった。子どもは十四、五歳くらいの兄と十二、三歳くらいの妹の二人。両親が目を離し兄妹が船の中で居眠っているうち、潮が満ちてきて船は波の上に浮き上がり風も吹き出した。船は沖に出ると風はますます強く吹き付けてあっという間に南海上へ流されていく。驚いて目を覚ました兄妹は周囲を見渡すが手がかりになるようなものは何一つ見当たらない。

「白地(あからさま)ト思(おもひ)テ、船ヲバ少シ引据(ひきすゑ)テ、網ヲバ棄(すて)テ置(おき)タリケルニ、此(この)二人ノ童部(わらはべ)ハ船底ニ寄臥(よりふし)タリケルガ、二人乍(なが)ラ寝入(いり)ケリ。其(その)間ニ塩(しほ)満(みち)ニケレバ、船ハ浮(うき)タリケルヲ、放(はな)ツ風ニ少しシ吹被出(ふきいだされ)タリケル程ニ、干満(みちひ)ニ被引(ひかれ)テ、遥(はるか)ニ南ノ澳(おき)ニ出(いで)ケリ。澳ニ出(いで)ニケレバ、弥(いよい)ヨ風ニ被吹(ふかれ)テ、帆上(あげ)タル様(やう)ニテ行(ゆく)。其時ニ、童部驚(おどろき)テ見(みる)ニ、懸(かかり)タル方ニモ無(なき)澳ニ出(いで)ニケレバ、泣迷(なきまど)ネドモ、可為様(すべきやう)モ無(なく)テ、只被吹(ふかれ)テ行(ゆき)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50」岩波書店)

慌てて駆けつけた子どもの両親は周辺を探してみたがもはや船も子どもたちも跡形もなくなってしまっていた。沖へ流された二人の兄妹は或る見知らぬ島に漂着する。返る方法がわからず途方に暮れる。そこで妹は先に気持ちを落ち着かせたようで、次のように兄に提案する。いつまで泣いていても喚いていても仕方がありません。船に積んできた食物があるうちに飢えをしのいで、そのあいだに一緒に積んでいた稲の苗を育ててみましょう。

「今ハ可為様(すべきやう)ナシ。然(さ)リトテ、命ヲ可棄(すつべき)ニ非(あら)ズ。此(この)食物(たべもの)ノ有(あら)ム限(かぎり)コソ、少シヅツモ食(くひ)テ命ヲ助ケメ、此(これ)ガ失畢(うせはて)ナン後ハ、何(いか)ニシテカ命ハ可生(いくべき)。然レバ、去来(いざ)、此(この)苗ノ不乾前(かれぬさき)ニ殖(うゑ)ン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50」岩波書店)

大事なのは農耕文化、とりわけ稲作は女性の手で始められたという歴史に則っている点だろう。中世になっても日本各地では税金となる米と米を用いて造られる酒の管理は女性が担っていた。柳田國男は古くからの説話を記録に留めている。

「酒の生産はもと女性の専業でありました。ーーー醸(かも)すという語の早い形はカムであって、大昔は我々もポリネシア人がカヴを作るように、また沖縄諸島の人が神酒(みき)を製するごとく、清き少女をして噛(か)ませ吐き出さしめたものを、酒として用いていたのであります。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女でなくては酒を作ることができなかったのは、何か有形無形の宗教的秘密があったからであります。ーーートジは単にマダムということであって、要するに婦人が造っていた名残であります。宮廷の造酒司(みきのつかさ)などでは神の名も刀自(とじ)、酒をしこんだ大酒甕(さけがめ)の名も刀自で、大昔以来刀自がこれに参与したことを示しています」(柳田國男「女性と民間伝承・刀自の職業」『柳田國男全集10・P.584~586』ちくま文庫)

「酒を売る者は女であります。刀自の酒造りの早くから売るためであったことは、少しも疑いがなかった上に、古くは『日本霊異記』の中にも、すでに女が酒によって富を作った話が出ており、また和泉式部とよく似た諸国の遊行女婦の物語、たとえば加賀の菊酒の根原かと思う仏御前(ほとけごぜん)の後日譚、それから前に半分だけ申した白山(はくさん)の融(とおる)の尼などが、登山を企てて神に許されなかったという話にも、酒を造って往来の人に売ろうとしたことを伝えております」(柳田國男「女性と民間伝承・酒の話」『柳田國男全集10・P.586~587』ちくま文庫)

それにしても遠くポリネシアと何の関係があるのか。あるのである。後で述べる。

船に積まれていた「馬歯(うまぐは)・辛鋤(からすき)・鎌(かま)・鍬(くは)・斧(をの)・鐇(たつぎ)」などを用いて付近の木を伐り、かろうじて家のようなものを作った。さらに漂着した島には「生物(なりもの)ノ木」=「果物」が多い。果物は実のなる季節に、そして必要に応じて、食べることにした。秋になった。妹の提案で植えてみた苗は成長し稲は大変よく実った。しばらくそうして暮らしていたが、「妹兄(いもせ)」=「兄妹」は二人とも当然成長する。歳月を過ごすうちに「妹兄、夫婦(めをうと)ニ成(なり)ヌ」=「妹兄(いもせ)は夫婦になって」子どもを産み育てることにした。

「生物(なりもの)ノ木、時ニ随(したがひ)テ多カリケレバ、其(それ)ヲ取食(とりくひ)ツツ明シ暮ス程ニ、秋ニモ成ニケリ。可然(さるべき)ニヤ有(あり)ケン、作(つくり)タル田、糸能(いとよく)出来(いでき)タリケレバ、多ク刈置(かりおき)テ、妹兄(いもせ)過(すぐ)ス程ニ、漸(やうや)ク年来(としごろ)ニ成(なり)ヌレバ、然(さ)リトテ可有(あるべき)事ニ非(あら)ネバ、妹兄、夫婦(めをうと)ニ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50~51」岩波書店)

妹兄(いもせ)が夫婦になって子どもを産み育てることは別に不思議でも何でもない。世界中で無数に残る民族創生神話の大部分はどれもそこから始まる。「日本書紀」もまた例に漏れない。伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)は兄妹として誕生するが、国造りのために夫婦(めおと)になる。

「乾坤(あめつち)の道(みち)、相参(あひまじ)りて化(な)る。所以(このゆゑ)に、此の男女(をとこをみな)を成(な)す。国常立尊より、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に迄(いた)るまで、是(これ)を神世七代(かみよななよ)と謂(い)ふ。ーーー伊弉諾尊・伊弉冉尊、天浮橋(あまのうきはし)の上(うへ)に立たして、共(とも)に計(はから)ひて曰(のたま)はく、『底下(そこつした)に豈国無(あにくにな)けんや』とのたまひて、廼(すなは)ち天之瓊(あめのぬ)〔瓊は、玉なり。此(これ)をば努(ぬ)と云ふ〕。矛(ほこ)を以(も)て、指(さ)し下(おろ)して探(かきさぐ)る。是(ここ)に滄溟(あをうなはら)を獲(え)き。其(そ)の矛(ほこ)の鋒(さき)より滴瀝(しただ)る潮(しほ)、凝(こ)りて一(ひとつ)の嶋(しま)に成(な)れり。名(なづ)けて磤馭慮嶋(おのごろしま)と曰(い)ふ。二(ふたはしら)の神、是(ここ)に、彼(そ)の嶋に降(あまくだ)り居(ま)して、因(よ)りて共為夫婦(みとのまぐはひ)して、洲国(くにつち)を産生(う)まむとす」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第二、三、四段・P.22」岩波文庫)

二人の間に産まれた子どもたちが今度はさらに夫婦になって子どもを産む。何度も繰り返し反復される。今の世界各地で絶え間なく発生している諸民族紛争のように繰り返し反復される。

それはさておき、この島では田畑を広げることができた。島民も増えた。「土佐ノ国ノ南ノ沖ニ、妹兄(いもせ)ノ島トテ有(あり)」。島の名は「妹兄(いもせ)ノ島」と呼ばれている。

「然(さ)テ年来ヲ経(ふる)程ニ、男子(をのこご)・女子(をむなご)数(あまた)産次(うみつうづ)ケテ、其レヲ亦(また)夫婦ト成シツ。大(おほき)ナル島也ケレバ、田多ク作リ弘(ひろ)ゲテ、其(その)妹兄(いもせ)ガ産次(うみつづ)ケタル孫(そん)ノ、島ニ余ル許(ばかり)成(なり)テゾ、于今有(いまにある)ナル。土佐ノ国ノ南ノ沖ニ、妹兄(いもせ)ノ島トテ有(あり)トゾ、人語リシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.51」岩波書店)

ここで出てくる「妹兄(いもせ)ノ島」は今の「高知県宿毛市沖の島」のこと。この種の民族起源神話は沖縄県八重山群島、東南アジアのインドネシア、さらにポリネシアに多く分布する。

ちなみのこの説話は「今昔物語」だけでなく「宇治拾遺物語」にもほとんど同じものが載っていることでも知られている。前者は平安時代後半、後者は鎌倉時代。芥川龍之介が「羅生門」を近代文学として甦らせたように当時の京の都は荒れ果てていた。幕府滅亡の頃には京極派の歌人・永福門院が次の和歌を詠んでいる。鴉(からす)が出てくる。

「朝戸明(あさとあけ)の軒ばに近く聞ゆなり梢のからす雪ふかきこゑ」(新日本古典文学体系「永福門院百番御自歌合・一一二」『中世和歌集・鎌倉編・P.413』岩波書店)

また「玉葉和歌集」には野良犬の夜の遠吠えが登場する。

「音もなく夜はふけすぎて遠近の里の犬こそ聲あはすなれ」(「玉葉和歌集・巻第十五・従三位爲子・P.335」岩波文庫)

「万葉集」ではただそこにいる動物として詠まれた動物たちが、その頃には打ち続く戦禍のためにうらぶれ果てた都の退廃の象徴として詠み込まれるようになったことに注目しなければならない。そのような暗黒時代の中で「妹兄(いもせ)ノ島」はあえて豊饒な農耕文化に溢れるユートピアとして描かれた。例えば、かつてあった人々の目に見える繋がりが消滅したその瞬間、やおら「糸」という物語が立ち現われたりするのとたいへん似ている。実態はいつも事後的にしか可視化されない。

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熊楠による熊野案内/童子童女そして若宮

2020年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム
人柱に関し「平家物語」から引いた。しかしその原文は余りにも淡々としていて、なぜあえて「人柱なのか」が問題とされる場面なのかよくわからない。従って「経の島」伝説について視野をもう少し広く取って述べてみよう。それがいかに残酷だったかについて、逆に熊楠はむしろ日本でもほんのつい最近まで残っていた風習であり、何をいまさら驚いて見せているだけでなく、しらばっくれているのかと告発している。

「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)

ここで参照したいのは幸若舞「築島」である。今の兵庫県神戸市兵庫区の港湾部分。かつて「和田(わだ)の岬」と呼ばれた。福原遷都に伴って和田の岬をより一層強固な埋立地に仕立て、瀬戸内海運の要衝としてその地位をさらに打ち固める方針が出された。だが工事は上手く行かない。そこで詮議の上、ついては人柱三十人を生贄とする方針が決定された。一度に三十人を拘束すれば目立つ。だから京の都へ往還する人間を少しずつ拉致して「生田(いくた)、昆陽野(こやの)の辺(あた)り」(今の神戸市中央区生田付近・伊丹市昆陽付近)の獄に隠し、生贄の声が外部へ漏れないよう警戒することとした。

「『人柱(ばしら)を一度に取(と)らば、顕(あらは)れて、路次(ろし)を止(とど)めて悪(あし)かりなん。時々(ときどき)取(と)れ』との御諚(でう)もて。生田(いくた)、昆陽野(こやの)の辺(あた)りに、いかにも人を隠(かく)し置(お)き、京より下る者(もの)、初(はじ)めて京へ上(のぼ)る者、中にて取(と)つて押(を)し籠(こ)めて、『声(こゑ)ばし立(た)つな』と縛(いま)しめて、獄定(ごくじやう)するぞ、無残(むざん)なる」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.159~160』岩波書店)

ところが世間の噂は矢のように早い。一人二人の失踪なら特に珍しくもないが二十人程が突然行方知れずとなると、「丹波(たんば)、播磨(はりま)、伊賀(いが)、伊勢(いせ)、その他近国から」身内の者らが生田周辺に集まってきた。「壁に耳、岩の物言ふ世の習ひ」というけれども真相はどんどんばれてしまい「兵庫(ひやうご)の浦(うら)の人柱(ばしら)に、ことごとく取られぬる」と、世間に知れ渡ってしまった。

そんな折、人柱として生贄にされる人間の数はすでに二十九人まで捕らえられていたところ、ようやく三十人目に諸国巡礼の一人の修行者が通りかかって捕縛された。名を「刑部(ぎやうぶ)左衛門(ざえもん)国春(くにはる)」といった。八月十五日の名月の日に生まれた女児に「名月(めいげつ)女」と名付け、周囲からはまたとない美女と呼ばれて育ったが、十四歳の頃、何を思ったのか両親に黙って家出してしまった。探しているうち、三年前に妻を失くし、そこで今は国春一人で諸国を行脚しつつ一人娘の名月女の行方を探しているという。名高い「高野山」、「熊野三山」にも登って参詣している。

「刑部(ぎやうぶ)の丞(ぜう)国春(くにはる)は、一方(ひとかた)ならぬ思ひどもに、妻女の形見(かたい)を取(と)り集(あつ)め、高野(かうや)の嶺(みね)に上(のぼ)りつつ、奥(おく)の院(ゐん)にて元結(もとひ)切(き)り、妻女の形見を籠(こ)め置(を)きて、姫が行方(ゆくゑ)を尋(たづ)ねんとて、高野の嶺(みね)を下向(かう)して、先(まづ)三熊野に参(まい)らるる」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.165』岩波書店)

一方、余りにも浮世離れした美少女ゆえに結婚相手が見当たらず、気ままにあちこちを流転して暮らしていた名月女。或る日、「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)能勢(のせ)」で「藤兵衛家包(いえかね)」という十九歳の男性と出会う。二人はたちまち愛し合い夫婦となる。と、ほぼ同時に兵庫の浦の護岸工事のために人柱三十人が立つことになったという話を耳にする。よく聞くとそのうちの一人に家包(いえかね)の妻となった名月女の父・国春の名があるという。家包・名月女夫婦は父の助命嘆願を決意、各地各方面へ奔走する。護岸工事の責任者・浄海(じやうかい)は血も涙もある男だが、平清盛じきじきの命令ゆえ工事責任者としては血も涙もとっくに捨てて仕事にかかっている。それでもなお家包・名月女夫婦は父・国春の助命嘆願を諦めない。食い下がる。

「さても丹波(たんば)の家包(いへかぬ)は、その恐(をそ)れをも憚(はばか)らで、女房(ねうばう)、乳母(めのと)を引(ひ)き具(ぐ)して、観音堂(くわんおんだう)に参(まい)り、庭上にひれ伏(ふ)し、『あら、御情(なさけ)なの御事や。ただ御助(たす)けあれと申さんにこそ、憎(にく)し共思(おぼ)し召(め)すべけれ。二人の者(もの)に一人取(と)り替(か)へさせ給(たま)はんに、何に不足(ふそく)の御座有べきぞ。然(しか)るべくも候はば、我々夫婦(ふうふ)に国春(くにはる)を取(と)り替(か)へさせ給へや』と、天(てん)に仰(あふ)ぎ、地(ち)に伏(ふ)し、流涕(りうてい)焦(こ)がれ悲(かな)しみけり」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.177~178』岩波書店)

ところで家包の出身地は「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)能勢(のせ)」とあると、さきほど引いた。やや詳しく述べると「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)」は今の京都府亀岡市付近。だが「能勢(のせ)」は今の大阪府豊能郡能勢町。随分距離がある。とはいえ山岳地帯を通して行き来することはいつでも可能である。そのまま北上すれば丹波山地へ入る。そこからさらに北東方面へ向かえば若狭湾へ出る。今でいう「鯖街道」(さばかいどう)は京の都と若狭湾とを結ぶ流通路として古代から存在感を放っていた。しかし山地から山地へ移動する人々すべてを山人と呼ぶことはできない。そういう区別では商人もまた山人になってしまう。ではサンカなのか。そうとも言えない。サンカの生活様式には定期的回遊性が顕著である。サンカの仕事は蓑・笠作りを基本としており、なかでも竹細工に長けている。竹細工で有名なのは京の都周辺でいえば圧倒的に近江である。しかし回遊民として考えれば東北地方にもサンカが暮らしていたというのは事実だろうと思われる。ちなみに近江では中山道に近い米原周辺を拠点として回遊していた一群があったというリポートが今でも聞かれる。日本列島には様々な芸能民、修験者、聖(ひじり)・遊行者・山水・歩き巫女などがいたため、それらすべてを整然と区別することは今や不可能だろう。そして当然のことながらもはやサンカは消滅した。明治近代国家成立の過程でどんどん都市労働者へと変容していき、あるいは近くの山村に溶け込んで村落共同体を形成しつつ、それまでの職業を捨てて一般的な商業へ鞍替えした。さらに、いったん資本主義に吸収されるやもう二度と元の生活様式に戻ることはできない。なので先史時代から狩猟・漁撈を主として生活を営んできた人々をすべて山人・海人あるいはサンカというカテゴリーでひとくくりにすることはもはやけっしてできないのである。なかには年中行事のように定期的に訪れる唱門師(しょもんじ)のことをサンカと間違えている人々も少なくない。昭和になってなお、或る時は修験者でありなおかつ或る時は狩猟採集で暮らし、また或る時は庭師として活躍した器用な人々もいたため、生涯一修験者とか生涯一遊行者とか、ましてや生涯一サンカいったライフスタイル自体は一九七〇年代高度成長期を決定的境界線としてもはや絶滅したと考えられる。かといって何も曖昧な伝説ばかりが残されたわけではない。彼らの手仕事と思われる蓑・笠を主とする竹細工は今なお残されており、彼らが実在し定期的回遊生活を送っていたことのまぎれもない証拠とされている。

さて、護岸工事の責任者・浄海だが、家包・名月女夫婦による国春の助命嘆願により、国春の代わりに家包が人柱に立つという条件で国春を解放することにした。さらに浄海は「松王健児(まつわうこんでい)」という童子が三十人すべての生贄に置き換わり一人で人柱となることで三十人全員の解放嘆願を受け入れる。

「かかりける所(ところ)に、浄海の御内に、三十人の童(わらは)の中に、松王健児(まつわうこんでい)と申て、見目形(みめかたち)尋常(じうじやう)なるが、観音堂(だう)に参り、申けるは、『三十人の人柱(ばしら)を皆々(みなみな)立(た)てさせ給ふとも、人の嘆(なげ)きの島(しま)ならば、成就する事候まじ。又、思(おぼ)し召(め)し立(た)ち給ふ御願(ぐわん)を、無駄(むだ)にし給(たま)ひては、君の御意にも背(そむ)くべき。所詮(しよせん)、博士(はかせ)御申(おまうし)のごとく、一万部の法花経を書写(しよしや)させられ、三十人の代官に、某(なにがし)一人立(たつ)ならば、末代、島は成就して、絶(た)えする事候まじい』と、申受(う)けたある松王(まつわう)は、上古も今も末代(まつだい)も、例(ためし)少(すく)なき心(こころ)かな」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.178~179』岩波書店)

松王健児(まつわうこんでい)の嘆願はいとも容易に受け入れられる。この童子の美しさには計り知れないものがあったらしいが、しかし「三十人の童(わらは)」という事情そのものにそもそもの要因がすでに見え隠れしている。平清盛は三百人の童子を自らの親衛隊として大変大事に身の周りに置いていた。

「入道相國(シヤウコク)のはかりことに、十四、五、六の童部(わらんべ)を、三百人そろへて、髪(カミ)をかぶろにきりまはし、あかき直垂(ヒタタレ)を着せて召しつかはれけるが、京中に満ち満ちて往反(ワウヘン)しけり。をのづから平家の事をあしざまに申(まうす)者あれば、一人(いちにん)聞き出(いだ)さぬほどこそありけれ、余党(ヨタウ)に触廻(フレメグラ)して、其家(ソノイエ)に乱入(ランニウ)し、資財雑具(シザイザウグ)を追捕(ツイフク)し、其奴(ヤツ)を搦(カラメ)とッて、六波羅へゐて参(まい)る。されば目に見、心に知るといへど、詞(コトバ)にあらはれて申(まうす)なし。六波羅の禿(カブロ)と言ひてンしかば、道井を過ぐる馬車(ムマクルマ)もよぎてぞ通(とを)りける。禁門(キンモン)を出入(シユツニウ)すといへども、姓名(シヤウミヤウ)を尋(タヅネ)らるるに及ばす。京師(ケイシ)の(チヤウリ)、これが為(ため)に目を側(ソバム)と見えたり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・禿髪(かぶろ)・P.13~14」岩波書店)

松王健児の申し出により三十人の生贄は無事解放される。

「三十人の人柱(ばしら)、『不思議(ふしぎ)の命(いのち)助(たす)かるは、難波入江(なにはいりえ)の国春(くにはる)の姫(ひめ)故(ゆへ)なり』と喜(よろこ)び、我(わが)国里(さと)へ帰て、或(ある)ひは兄弟、孫(まご)、子共に、取付(とりつき)々々喜(よろこ)ぶ事、浦島(うらしま)がいにしへ、七世の孫(まご)に逢(あ)ひぬるも、是(これ)にはいかでまさるべき」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.179』岩波書店)

また次の文面を見ておきたい。

「丹波(たんば)の国(くに)の家包(いへかぬ)が、舅(しうと)が命に替(かは)らむと思ひ切(きる)こそ、やさしけれ、禁野(きんや)、交野(かたの)、能勢(のせ)の庄、八百町を取(と)らする」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.179~180』岩波書店)

名月女の夫となった家包(いへかぬ)がその「舅(しうと)」の代わりに人柱に立つと名乗り出たことである。親の代わりに子が死ぬという風習は明治時代になってなお山間部では残っていた。柳田國男は述べている。

「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)

さらにこの逆もあった。子を生かす代わりに親が死ぬ方法であり、なかでも深沢七郎「楢山節考」は有名な作品として残されている。とはいえ深沢は日本列島の至るところで見かけられた歴史の古層の半分しか述べていないように思う。古層といっても見えている以上、それこそ問題は依然として表層に刻みつけられており、表層こそ見ないわけにはいかないはずなのだが。いずれにしろ明治近代になってしばらくの間も貧乏な山間部の村落共同体では「子殺し・親殺し」は日常茶飯事だった。

また「築島」の文体は「女語り」の典型的な形式を取っているので、次のようにどのような人々が全国各地を廻って語り伝えたかは一目瞭然である。

「吉日を改(あらた)め、七月十三日に定(さだ)めさせ給(たま)ひて、一万部の法花経を、洛中(らくちう)、洛外(ぐわい)の寺々(てらでら)へ、日記をあげて書写(しよしや)させらる。程なく御経取(と)り集(あつ)め、数(かず)の御幣(へい)を切立(きりた)てて、船(ふね)押(を)し浮(う)かめ、打乗(うちのつ)て、遥(はる)かの沖(おき)へ押(を)し出(いだ)し、御経沈(しづ)め、御幣(へい)を振(ふ)つて、経釈(きようしやく)、祝詞(のつと)を申さるる。まことに松王望み申(まうし)ける間、彼(かれ)一人(にん)人柱(ばしら)に立(た)てられけるぞ、殊勝(しゆせう)なる。『読誦(どくじゆ)の御経あるべし』とて、一千余(よ)人の御僧達(そうたち)を、洛中(らくちう)、洛外(ぐわい)より請(いやう)じ下(くだ)し給ひて、渚(なぎさ)に御経遊(あそ)ばせば、大小軸(ぢく)の結縁(けちゑん)の竜神納受(なふじゆ)あるによつて、島は成就する。十四町の所なり。経(きやう)の島(しま)と申て、平相国の興立(こうりう)の、今に有とぞ、見えにける」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.180』岩波書店)

熊野比丘尼とそこから様々に分派した「語り部」たちの十八番だったのはこれでわかるだろう。そしてまた、松王健児について、柳田國男はこう述べている。

「人柱の企てが最初犠牲(いけにえ)となるべき者の暗示に基づき、その暗示は多分歌の形をもって与えられたことと、親子夫婦というがごとき関係にある者が二人以上、同時にこの運命に殉じたというのが、上古以来の伝説に一貫した要素であったらしいことが、『築島寺縁起』のごとき近世の一例からでも、幽(かす)かながらこれを推測し得るのである。松王健児が不意に現われて三十人の命に代り、それが実は大日王の化身であって、島成就のためにしばらくこの奇瑞(きずい)を示されたと説くのは、すっかり伝統の型を破ったもののようだが、なお彼がいたいけな童形であり、また惜み悲しまるる人の子であったという点において、弘く東西の諸民族に共通なる犠牲説話の条件を守っているとも見られ得る。そうしてあるいは偶然かも知らぬが、注意すべきは八幡神の信仰をもって、その遠い記念を包んでいるのである」(柳田國男「妹の力・松王健児の物語」『柳田國男全集11・P.145』ちくま文庫)

なぜ「八幡」なのか。やや詳しく述べると「《若宮》八幡」の「若宮」を指す。紀州・熊野でいえばそれこそ「若王子」(にゃくおうじ)信仰にほかならない。永遠に若いこと。蛇が脱皮して若さを更新しながら永遠に存続していくことが目指されている。「梅若忌」もまたそうだ。

「梅王子という神様は関東諸国にもあって、今ではたいてい菅原天神と結び付けられている。そういう名の起りはおそらくは春の末、すなわち梅の若枝の伸び立つ盛りに、これを手に執って舞うことから出ているのであろうが、これがまた同じ季節の送り祭の一つになっていたとすれば、ここに美しい童児の死を主題とした、悲劇の結構せられる余地は十分にあったのである」(柳田國男「歳時小記・梅若忌」『柳田國男全集16・P.74』ちくま文庫)

熊楠はいう。

「隅田川の梅若(うめわか)塚は徳川中世の石出帯刀の築きし所にして、その神像は大工棟梁溝口九兵衛の彫るところ、鴨立庵は三千風より名高くなり、その大磯の虎の像は元禄中吉原の遊人入性軒自得の作という。そんなものすら、それぞれ古雅優美なる点もありて、馬琴、京伝すでにそのことを追考し、立派に考古学の材料となりおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.430』河出文庫)

謡曲「隅田川」については既に以前こう述べた。

日本でも中世は人買い(人身売買)が横行した。とりわけ子どもは長い目でみれば男女問わず労働力として大人よりも高値で売れ転売もされた。善悪は別として「人買い(人身売買)」がなければたちまち食っていけなくなる家々が続出するほかない時代だったからだ。謡曲「隅田川」はその頃を背景に描かれたもの。ただ「隅田川」の設定は、子(梅若丸)の母が人買い(人身売買)に同意したわけではなく、知らぬ間に誘拐されたことになっている。そこで母は子(梅若丸)を探しに京都から江戸まで出てくる。謡曲の定石通り、旅の僧が子どもの消息について語る。

「扨(さて)も去年(きよねん)三月(さんぐわち)十五日、しかも今日(けふ)に相当(あひあたり)て候、人(ひと)商人(あきびと)の都より、年(とし)の程(ほど)十二、三計(ばかり)なる幼(おさな)き者を買(かひ)とつて奥へ下(くだ)り候が、此幼(おさな)き者(もの)いまだ慣(なら)はぬ旅の疲(つか)れにや、以外(もつてのほか)に違例(ゐれい)し、今は一足(あし)も引(ひ)かれずとて、この川岸にひれ伏(ふ)し候を、なんぼう世には情(なさけ)なき者の候ぞ、此幼(おさな)き者(もの)をば其まま路次(ろし)に捨(す)てて、商人は奥(おく)へ下(くだ)りて候、去間(さるあいだ)此辺(へん)の人々、この幼(おさな)き者の姿を見候に、由(よし)ありげに見え候程に、様々にいたはりて候へ共(ども)、前世(ぜんぜ)の事にてもや候ひけん、たんだ弱(よは)り、すでに末期(まつご)と見えしとき、おことはいうくいかなる人ぞと、父の名字(みやうじ)をも国をも尋(たづね)て候へば、我は都北白河に、吉田の某(なにがし)と申(まうし)し人の唯独こ(ひとりご)にて候が、父には後(をく)れ母計(ばかり)に添(そ)ひ参らせ候ひしを、人商人に拐(かど)はされて、か様(やう)に成行(なりゆき)候、都の人の足(あし)手影(かげ)も懐(なつ)かしう候へば、此道の辺(ほとり)に築(つ)き込(こ)めて、しるしに柳を植(う)ゑて給はれと、おとなしやかに申(まうし)、念仏四、五反(へん)唱(とな)へ終(つゐ)に事終(ことをは)つて候」(新日本古典文学体系「隅田川」『謡曲百番・P.342』岩波書店)

慣れない旅の疲れゆえか相当疲労している様子で死んでしまった。放っておくわけにもいかず、故郷のことを尋ねた後、近隣の人たちが集まってすでに塚を築いて弔ったとのこと。梅若丸を訪ねてやって来た母はいう。

「今迄はさりとも逢(あ)はむを頼(たの)みにこそ、知(し)らぬ東(あづま)に下(くだ)りたるに、今は此世になき跡の、しるし計(ばかり)を見る事よ」(新日本古典文学体系「隅田川」『謡曲百番・P.343』岩波書店)

子を探して遥々江戸までやって来たものの、母に残されていたものは既に死んだ子の塚ばかりだった。とはいえ、熊楠はいたって冷静。人身売買は中世どころか、日本の地方へ行けばほんのつい最近まで、半ば公然と行われていたからである。例えば水上勉が幾つかの小説で描いているようにその風習は昭和に入ってなお存続していた。また、人身売買と関係あるのかどうかもはやわからなくなっているが、なぜこんなところにわざわざ「海岸沿いの道」があるのかと考えさせられる文章もある。

「越前と若狭(わかさ)の境界にある敦賀(つるが)の町から、北海岸を杉津(すいづ)の方へ入りこむと、山が海に迫って、断崖(だんがい)の切り立った、いわゆる河野断層といわれる荒々しい海岸につき当る。敦賀から今庄(いまじょう)へぬける北陸街道は、この断層海岸にむけて山中を通るから、海岸の道は、まったく人絶えてうら淋しかった。道は、断層をわけ入り、山間地にかくれるようにしてある孤村へ通じていた」(水上勉「棺」『越後つついし親不知・P.102』新潮文庫)

なぜ山陰地方にはそのような陰々滅々たる道筋が多いのか。様々な情報が錯綜するサンカについて大いに語っている有名な論客らもそのことについてはまるで無視してよい話であるかのように振る舞っている。言いようのない不可解さが残る。そこで再び折口信夫「花の話」を引いてみたい。

「三河の奥で、初春の行はれる祭りに『花祭り』といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであった。其時、山人の持って来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木(丹生木〔ニフキ〕か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.468』中公文庫)

三河の奥=三河と信濃との境界線にあたる山間部。山人について考える時、熊野と三河そして若狭という三角形がやおら出現する点を見逃してはならないと思うのである。この三角形は日本列島でもかなり古くから伝わる伝統的な芸能の道を構成していたのではと考えられる。

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