白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ161

2023年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月二十四日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

午後。駆虫剤の効果の診察に動物病院へ。結果、耳ダニ駆除終了。ただ耳垢掃除が終わり切れていないので一日一度の耳垢掃除のための投薬セットを出してもらうことに。手術後ずっと付けていた首周りのカラーは頃合いを見計らって外してもらっていいとのこと。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。アフリカン・ヘッドチャージといっても知っている人は少ない。打楽器メインといえばいえるかも。しかしところどころにチープな哀愁を漂わせて逆に微笑を引き出すような仕掛けがこらしてあってアフロ系音楽はまだまだ広い。その2。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて586

2023年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は男前豆腐店「特濃ケンちゃん」。1パックの二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食は小ぶりのサンマの焼いたのを一尾。ホウレンソウの胡麻和え。午後は相変わらず元気がない。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「HAUNTED HEART」。


Blog21・一つの習慣が思い出させた「幽閉・監視・隷属」の過去

2023年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

ゲルマント公爵はある奇癖の持ち主でもある。

 

「公爵は、夫人が自分と晩餐を共にする友人たちを招くのを許していたが、招待客たちがかならず自分よりもさきに帰ることを求め、自分が最後にオデットにお寝(やす)みを言えるようにしていた」。

 

ところがオデットはそれを少しも「奇癖」と思わない。スワン夫人だった頃、スワンがオデットに対して用いた接し方と違わなかったからである。「慣れていた」。

 

「公爵は、夫人が自分と晩餐を共にする友人たちを招くのを許していたが、招待客たちがかならず自分よりもさきに帰ることを求め、自分が最後にオデットにお寝(やす)みを言えるようにしていた。これは公爵が以前のさまざまな恋愛から引き継いだ奇癖であり、オデットはスワンが同じ奇癖を持っていてそれに慣れていたから驚かなかったが、私は自分のアルベルチーヌとの生活を想い出して動揺した」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.238~239」岩波文庫 二〇一九年)

 

スワンはオデットを愛すれば愛するほど自らの苦痛をますます深刻化させていく人間だった。だがスワンがオデットに始めて美を見出し愛するようになった契機は直接的にではなく間接的にという条件のもとに限られていたことも思い出しておかなくてはならない。

 

(1)「オデットの顔に美しさを認めるためには、たいてい黄土色にやつれ、ときに赤い小さな斑点の見える頬のなかで、バラ色のみずみずしい頬骨のところに限って頭に浮かべる必要があり、まるで理想は到達しがたく、手にはいる幸福はつまらないと想い知らされたみたいに、スワンをひどく悲しませた。見たいという版画を持って来てやったところ、オデットはすこし加減がよくないからと言いつつ、モーヴ色のクレープ・デシンの化粧着すがたで、豪華な刺繍をほどこした布をコートのように羽織り、それを胸元にかき合わせてスワンを迎えた。オデットは横に立つと、ほどいた髪を両頬にそって垂らし、楽に身をかがめるように、すこし踊るような姿勢で片脚を曲げて首をかしげ、元気がないと疲れて無愛想になるあの大きな目で版画に見入っていたが、そのすがたにスワンは、はっとした。システィーナ礼拝堂のフレスコ画に描かれたエテロの娘チッポラにそっくりだったからである。つねづねスワンは、大画家の画のなかにわれわれをとりまく現実の一般的特徴を見出すだけでなく、とうてい一般化できない知り合いの顔の個人的特徴を認めて喜ぶという特殊な趣味をもっていた」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.93~94」岩波文庫 二〇一一年)

 

(2)「いずれにしても少し前からスワンの感じていた印象の充実が、むしろ音楽を愛する心から生じたものとはいえ、絵画の嗜好までをも豊かにしてくれ、オデットとチッポラとの類似に気づいたときの喜びをはるかに深いものとし、スワンにいつまでも影響をおよぼすことになったのである。それを描いたサンドロ・ディ・マリアーノがむしろボッティチェリという通称で呼ばれるのは、通称が画家の真の作品ではなく、作品を通俗化したありきたりの偽りの見方を想起させるようになって以来のことだ。もはやスワンはオデットの顔を見ても、頬の質の善し悪しで、つまり、いつか接吻したときに自分の唇が触れる頬の純粋に肉としての柔らかさで評価するのではなく、繊細で美しい線の錯綜として鑑賞した。おのがまなざしでその線を巻きもどし、その渦巻く曲線を追いつつ、律動感あふれるうなじを流れるような髪や湾曲したまぶたに結びつけては、オデットがどのような特徴を備えているかが明確にわかる肖像画に仕上げるかのように見つめたのである。そうやってオデットを見つめると、顔にも身体にもフレスコ画の断片があらわれる。これから先スワンは、女のそばにいるときでも女のすがたを想いうかべるだけのときでも、つねにフレスコ画の断片を見出そうとした。スワンがこのフィレンツェ派の傑作にこだわったのは、オデットのうちにたしかにそれが再発見されたからにほかならないが、逆にこの類似がオデットにも美しさを授け、ますます貴重な女にしたのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.99~100」岩波文庫 二〇一一年)

 

これも「奇癖」とは言えない。漫画、映画、ビデオなどに登場するキャラクターを愛する人々は数多い。特定の俳優、声優、登場人物のマニアックなファンは数知れない。そんな愛する対象と瓜二つに重なるような実際の人物と学校や職場で出会った場合を考えてみよう。とすればスワンがオデットに美を見出した経緯のどこにも不可解な点は認められないといえるだろう。

 

だがスワンはオデットに対する嫉妬からオデットに対する自分の態度がどのような変化を遂げてしまったか、後になって悔恨とともにいう。

 

「『といってもこの手の恋愛が危険なのは、女の隷属状態がいっとき男の嫉妬を鎮めはしても、同時にその嫉妬をますます気むずかしいものにしてしまうことです。あげくの果てに、夜となく昼となく灯りをつけて監視される囚人のような生活を愛人に送らせるはめになります。それもたいてい悲劇に終わるのです』」(プルースト「失われた時を求めて3・第二篇・一・一・P.303」岩波文庫 二〇一一年)

 

そこで「私は自分のアルベルチーヌとの生活を想い出して動揺した」。ゲルマント公爵の習慣についてのエピソードがいきなり「私」とアルベルチーヌとの間で演じられた過去と共鳴する。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ160

2023年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月二十三日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

今日も遊んだ後の色鉛筆の回収から。ここ数日は寒暖の差の大きい日が続いている。しかし今のところ体調への影響はなさそうに思える。それより早くカラーが取れればいいのだが。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。アフリカン・ヘッドチャージといっても知っている人は少ない。打楽器メインといえばいえるかも。意図的かどうかはわからないが、ところどころにチープな哀愁を漂わせて逆に微笑を引き出すような仕掛けがちりばめてある。アフロ系音楽はまだまだ広い。


Blog21・《物の怪》と戦後民主主義

2023年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

大江健三郎「水死」。ウナイコは建礼門院に憑依する「物の怪」の「ヨリマシ」を演じる。「ヨリマシ」はもう一人、大黄(ダイオウ、ギシギシ)がそうだ。ただ大黄の場合は変則的であり、変則的だからおかしいのではなく、むしろこの変則性に注目したいと思う。

 

長江先生に憑依している「《物の怪》の『よりまし』を自分《から》古義人さん《へ》」という手続きであればきわめて順当に見えるのだが、そうではなく「長江先生に憑いておった《物の怪》が、いまは《わし》を新しい『よりまし』にしておるのを知りました」と大黄はいう。

 

「古義人さんが起きて来られたら、いうてください。短艇が出て行くのを隠れて見ておる《わし》は、先生の跡継ぎの古義人さんが付いて行かれると考えておった。跡継ぎが一緒に大水で死んではオシマイやないか、と思われるやも知らんが、先生は古義人さんに手伝わせてーーーここが肝要なところなのやーーー『赤革のトランク』の浮袋装置を作っておかれた。川筋の子供は水泳が達者やから、《つかまる》浮袋装置の『赤革のトランク』があれば、溺れ死ぬ心配はないのや。先生御自身は、死なれる気やが、そのあと自分に憑いておった《物の怪》が古義人さんに移動して、古義人さんを本物の跡継ぎにすると考えておられたのやろう。あの大水に親子で短艇に乗り込んで出て行かれたのは、《物の怪》の『よりまし』を自分《から》古義人さん《へ》取り替えてもらうための儀式やったと、いまの《わし》は思うよ。しかし、古義人さんは、短艇に乗り込む段にやりそこのうて(自分の意思で拒否して、であったかも知らん)大水のなかへ出て行かず、コギーの幻が父親と一緒に行くのを見送っておられたのやったーーー《わし》はさっきピストルを撃った時、片腕者やが狙いはあやまたず、長江先生に憑いておった《物の怪》が、いまは《わし》を新しい『よりまし』にしておるのを知りました。《わし》は、もうずっと遅れてしもうたけれども附いて行きますよ、長江先生の一番弟子は、やっぱりギシギシですが!」(大江健三郎「水死・P.523~524」講談社文庫 二〇一二年)

 

この手続きは古代すでに見られた。折口信夫はまずそれを「漂著石(ヨリイシ)」信仰の中に、続いて「天皇霊」信仰の中に、見ている。

 

「私の度々の旅行に、一番綿密なる研究をした地方は壱岐である。其処には対馬や隠岐などの様により石の信仰が存して居るのである。流れ寄った石を或時祠に祀ったところが、どんどん大きくなって遂に祠を突き破ったと言う話とか、石を拾って帰ったら家に著く迄に急に大きくなったなどと言う話は、諸国に数限りなく散在する。古代人はそうした石成長の信仰を有して居たが、之は既に二三繰り返した如くたましい成長の信仰と結ばれて居るものである。壱岐には不思議な巫女が居るが、彼等は其神事を行うに当って、此漂著石(ヨリイシ)を利用する。之は石にたましいが宿ると考える為に他ならぬのである。

 

記紀に天子様の御身体の事をば、すめみまのみことと申し上げて居る。すめは神聖を表す尊称であり、みまは本来肉体を称する詞であって、従ってすめみまのみことはたましいの入るべき天子様の御身体である。たましいの容れ物が、恐れ多い事であるがすめみまのみことに他ならない。

 

日本紀の敏達天皇の条に、天皇霊(スメラミコトノミタマ)と言う言葉が見えて居るが、此天皇霊とは天子様としての威力の根元の威霊、即、外来魂そのものであって、《まなあ》がすめみまの命である所の御身体に這入って、天子様はえらいお方となられるのである。この天子になられるに必要な外来魂なる天皇霊は、いつ(みいつ・稜威)と称するたましいである。

 

すめみまの命には生死があるけれども、此肉体を充す所のたましい(天皇霊)は終始一貫して不変であり、且つ唯一である。従って譬い肉体は変り異なることがあっても、此天皇霊が這入れば全く同一な天子様となられるのであって、此天皇霊を持って居られる御方の事を日の神子(ミコ)と申し、此日の神の子とならるべき御方の事をば日つぎのみこと申し上げる。故に天子様御一代には此日つぎのみこは幾人もお在りなされるのである。

 

日つぎのみこの地位に在られる御方から天皇になられる御生命は、事実上時の流れと同様継続して居るのであるけれども、形式上一定の期間、一旦藻抜けのからにならなければならないのである。すると其間に、天皇霊が其肉体の中に這入り来ると信じた。そしてこれが完全に密着すると、そのものは俄然新しい威力が備わり、神聖なる天皇の御資格を得られるのである。そのたましいは恐らく前述のいつであろう。大嘗祭に、此いつが天子の御身体に憑依するのである」(折口信夫「剣と玉」『折口信夫天皇論集・P.162~164』講談社文芸文庫 二〇一一年)

 

話は変わるようだが、ちなみに「源氏物語」を開くと「物の怪」がしょっちゅう出てくる。「今昔物語」では「物の怪」系の項目をわざわざ類別して集めてある。しかも読んでいて面白いものが少なくない。そして近代になって「物の怪」は消えたように見えはする。もっとも、かつてのような姿形ではありえないだろう。ところが姿形を置き換えた上で、戦後民主主義なら戦後民主主義空間の中で、そっくりな事態が世界中で演じられていない日はないといっていいように思えるのはなぜだろう。