新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

新車の試運転を兼ねて久しぶりに行田へ

2016-06-19 19:15:29 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

休日にはクルマで出かけない私ですが、昨日納車された愛車の試運転に出かけてきました。

出かけた先は久しぶりの行田

埼玉県さいたま市の名前の由来となった「埼玉(さきたま)」は、もともと武蔵国最北の行田辺りの地名だったという説があるそうです。

で、まずはさきたま古墳公園を目指したのですが、せっかく行田まで来たのだから、前回(記事はこちら)パスした忍城址にも行ってみようと思い立ちました。土日祝日市役所の駐車場も使えるそうでしたから。

そんなわけで、さきたま古墳公園を通り過ぎてブランチを摂ったのち、行田市役所の駐車場にクルマを停め、忍城址へ。

忍城の幟には成田家の「横三つ引き」紋が描かれていました。
豊臣秀吉の小田原攻めの後、成田家が忍城を明け渡した後は、東条松平家大河内松平家阿部家奥平松平家と城主(藩主)が変わったのですが、やはり「忍城主は成田家」のイメージですよねぇ。

ちなみに復元された御三階櫓(いかにも徳川系)の瓦には松平家三つ葉葵の紋が印されていました。

忍城址にある行田市郷土博物館を見物いたしました。

むくりのついた屋根が印象的です。城跡に数寄屋風? と一瞬思いましたが、そういえば二条城の本丸にも数寄屋造りの建物がありましたっけねぇ。

もっとも二条城のお屋敷は、

京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を,明治26年から27年にかけて本丸内に移築したもの

だそうで、どうりで違和感が漂っています…

それはともかく、行田市郷土博物館のエントランス脇に「のぼうの城」のポスターを発見

予想していたとはいえ、目の当たりにすると、やはりうれしい

そりゃそうだよねぇ~、のぼうの城=忍城ですから

行田市郷土博物館の展示は、さすがに忍城の水攻めに関する展示が充実していましたが、それだけでなく、行田市の歴史全般について、なかなか惹き付けるものでした。
行田が足袋の町だったなんて、まったく知りませんでした
様々なメーカーの個性豊かな足袋のラベルの展示が、レトロ素敵でした。

   

行田市郷土博物館の次は、途中で通り過ぎたさきたま古墳公園

前回、さきたま古墳公園に出かけたときは「のぼうの城」のことはまったく知らず、忍城にも興味を持てず、

実際に丸墓山古墳から忍(行田)の街を眺めると、ほとんど真っ平らな地形です。これを水攻めするなんて、普通は考えないでしょう。

なんて書いたのですが、文政6年(1823年)といいますから「水攻め」250年近く後、城下町が整備された時点の地図を見ても、

忍城は、沼地の中のあるいくつかの小島を繋いだ縄張りだったことが判ります。
行田市郷土博物館のリーフレットによれば、

永正6年(1509)に、忍城を訪れた連歌師宗長の書いた日記によれば、城の周囲は四方沼水で、霜で枯れた葦が幾重にも重なり、水島が多く見えたとあります。

だそうで、そうした情景を想像すれば普通に攻めるのはかなり難しく水攻めを考えたのは変な話ではない気がしてきます。

それでは、治部少輔・石田三成率いる豊臣軍本陣から忍城はどのように見えたのか、この目で確かめなければ気が収まりません。

というわけで、「石田堤」を通って、

丸墓山古墳に登り、

忍城址を眺めてみました。

良い眺めだぁ~

葦が茂る沼地の中に「浮かぶ」忍城、、、、 忍城攻めの司令部として、丸墓山古墳最高の場所ですなぁ。
一方で、見えすぎるがゆえに、城攻めが遅々として進まない状況を目の当たりにした佐吉こと石田治部殿は、さぞかし歯がゆかったんでしょうねぇ…

う~~ん、楽しかった

そういえば、今夜の真田丸、遂に北条秀吉降参するんですな。

   

こうして試運転を実施したマイカー、今日のような走り方(エアコンを使って、チマチマ信号待ちのある一般道の走行)だとあまり燃費は良くない
クルマが表示する「走行可能距離」600kmちょっとだそうで(きょう一日で約100km走った)、このペースだと、今週一週間保たない計算になります。

そしてそして、やはり自宅の車庫入れ大変
ホント、ぎりっぎりだもの

さぁ、どうなりますことやら…

コメント
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