ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

ワイドー沖縄  与那覇幹夫 

2013-02-26 00:35:41 | Poem


与那覇幹夫(よなは・みきお)氏は1939年宮古島市生まれ。83年に「赤土の恋」で第7回山之口貘賞受賞。

「ワイドー」の意味をすぐに詩集のなかに捜しました。
作品「叫び」のなかに捜しあてた時の衝撃は言葉が尽くせないほどでした。
その1部を引用します。


私は、何と詰(なじ)られようが
あの夫の〈絶叫〉を差し置くほどの
美しい叫びを、知らない。

それは戦後間もなく
降りそそぐ陽ざしに微睡(まどろ)むがごとき
宮古の村里の、とある村外れの農家に
十一人の米兵(アメリカー)が、ガムを噛みながら突然押し入り
羽交い締めに縛った夫の、その目の前で
その家の四十手前の主婦を、入れ代わり犯したが
十一人目の米兵(アメリカー)が、主婦に圧し掛かった瞬間
夫が「ワイドー加那、あと一人!」と、絶叫した
 というのだ。

あゝ私は、一瞬、脳天さえ眩む、これほど美しい
 叫びを、知らない。
(中略)

「ワイドー沖縄! ワイドー沖縄!」と
 念じつづけよと
(終連)


作品の随所に見られる「、」が痛ましい。
書き手は恐らくこの事件を作品にするまでに「躊躇い」や「恐れ」に悩んだことだろう。
しかし「書いておかなければ。」という深い思いが、ついにこの作品「叫び」となったのではないか?
「ワイドー」は「耐えろ」「しのげ」「がんばれ」という意味合いの宮古ことば。沖縄の歴史から生まれたような言葉だ。
この作品に付した「特記」には、こう書いてあります。


私はこれまで「ワイドー事件」については一切、口を噤んできましたが、
事件から半世紀の歳月が流れたので、もう時効であろうと、口を開きました。
なお「加那」は、むろん仮名です。



書かれている史実の壮絶さに圧倒されたのか?書き手の言葉の力によるものか?掴みにくいものでした。
しかし、それは史実と書き手の力関係がどうやら安定しているようだと思えた時に、この詩の素晴らしさが一気に輝いてきます。
以倉氏の「帯文」にある「深い感動」という言葉を立ちあげるまでに、与那覇氏が費やした時間は永かったことだろう。

さらに1編「あいさつ」について。(1部引用)

かつて島から、旅に出たものは、後から
きた友人や顔見知りに会うと、いきなり
「島は赤かったか、青かったか」、尋ねた。
いやそれが、それがあいさつだった。
(中略) 

それは、ほとんど毎年、干ばつが見舞う
その島では、島山が一面、赤く枯れれば
島はもう飢饉、蘇鉄地獄なので、島に残
した親兄弟や、近しい者たちの身を案じ、
明るい闇を払い除けるかのよう、それこ
そ必死に問いかけたのだ。
(後略)



「蘇鉄地獄」それは、凶作に見舞われた年に、食用として蘇鉄のでんぷん質を食用にすることです。
蘇鉄は大干ばつでも枯れないのです。
しかし蘇鉄には「毒」があって、毒抜きをするわけですが、それに失敗して
命を落とすという不幸が少なからずあったのでした。(だから、地獄。)
以前、仕事で沖縄地域の詩歌をたくさん読みました折に、「蘇鉄粥=そてつがゆ」という言葉を初めて知りました。
「蘇鉄粥」は地域によって「どがき」「なりがい」などと読ませるようです。


「形見の笑顔」は、父の死と一家離散、その後失対事業の道路補修工事の現場で働く母上に
やさしい言葉をかけられなかったことへの悔恨が激しく書かれていました。
 
29作品が収められている詩集ではありますが、以上の3編について書きました。

詩集評は苦手ですので、ほとんど書いたことはありませんでした。
自分自身が詩の書き手であるということは、批評はできない、という怖さがありました。
それが思わず詩集紹介をしてみたくなった、ということは「ワイドー沖縄」の底力のせいかもしれません。
拙い文章で申し訳ありません。

 (2012年12月 あすら舎刊)

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