このタイトルは今日の朝日新聞の「オピニオン」における、詩人の谷川俊太郎(1931年生まれ)のインタビュー記事です。聞き手は鈴木繁。この種の問いかけは、戦後の詩の歴史のなかで、ほぼ10年間隔で行われてきました。
例えば一応詩壇の中心的な雑誌とされる「現代詩手帖」創刊50年祭の報告書とも言える、今年の8月号では、討論「これからの詩どうなる」でした。さらに9月号では「現代詩の前線・ゼロ年代の詩人たち」と続き、この「前線」ということもほぼ10年間隔で繰り返し企画されてきたように思います。さらにこの9月号の後半は「復刻版」でありまして「現代詩手帖・1982年11月号・・・詩はこれでいいのか」でした。これもその時代を代表する詩人たちです。すでに鬼籍にはいった詩人もいらっしゃいました。
さてさて、この繰り返される問いかけ、彷徨う詩人たち(わたくしも???)それ自体が詩の歴史だったのではないでしょうか?誰も明確な答は出せないのです。今後もそうかもしれないと思っていました。
しかししかし、ほぼ空白期間もなく60年間詩作を続けられ、(職業詩人として、商品としての詩を書くとまで明言できた唯一の詩人です。)の言葉は、わかりやすく、深く、やっと彷徨うことからひととき大樹の下に立ったような思いでした。
谷川俊太郎は自らの詩人としての生き方を正しかったのだとは言っていません。批評の基準が共有されていない今日において、人気者である立場もよしとはしていません。詩は権力や財力のようなマスを相手にするものではなく、ミニマルな微小なエネルギーで働きかけていくものだとおっしゃいます。そして「ウイリアム・ブレイク」のこの詩を紹介しています。
一粒の砂に 世界を見
一輪の野の花に 天国を見る
* * *
以下は、新聞に書かれた谷川俊太郎の言葉の抜粋です。
『詩は宇宙内存在としてのあり方にふれようとする。言語に覆われる以前の存在そのもをとらえようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩はことばを使っているのに、ことばを超えた混沌にかかわる』
『ぼくは詩を書く時は、アホみたいに待ってるだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっとことばが出てくる瞬間を』
『まず、「社会的存在」として、経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることは難しい』(←これは聞き手からの「詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいいんでしょう。という質問に答えたものです。)
フロントとアヴァンギャルドでは、大いに違うな。
フロントは、英語の言葉の使い方を見ていると、いまその時代のそこにある現場という意味のようだし、アヴァンギャルドは、前衛と訳したように、守るべき領地の最っとも前の位置という意味なのでしょうね。
今は、守るべきものもよくわからず、あるいは全然なく、ただ今あるそこに居ることで精一杯ということなのかも知れません。
かつての前衛詩と問われれば、「昭和モダニズム」の安西冬衛や北川冬彦たちの同人誌「亜」の活躍ではないでしょうか?
言っていることがその通りで。
なんばらさんによれば、批評が不在ということだから、詩も不在なのだな。
ポエジーはあるのにな。いたるところに。本当に、ブレイクのいう通り、小さなところに。
あ、それから、酒と共に。
久しぶりに、腑に落ちる(←こういう言い方あったかな?)谷川さんのお話でしたね。
批評が不在ということではなくて、詩を超える批評が待たれる時ではないかなぁ?福間健二さんの柔軟な批評性はいいなぁ~といつも思います。
お酒と詩は仲良し♪
「詩はどこから来ないで、どこへ行かないのか」と問うと、このインタビューのモチーフとその真摯な応え全体への陰画が出現しますね。
問題をずらしてみて、それで済む問題でもないのですが、…
最近、難解詩に悩まされていましたが、谷川さんのインタビューを読んで、1つだけわかったことがあります。それは「言葉が開かれている」詩であれば、難解でも理解に辿りつくことができます。「開かれていない言葉」は、これは単に「わけのわからない詩」ではないか?と思うようになりました。
谷川さんも北村さんも「言葉を開いた」詩人なのですね。