おお泉の口よ、与える者よ、
尽きずに1つのことば、純粋なことばを語る口よ、――
流れる水の容貌によそおわれた
大理石の仮面よ。そして背後には
はるかからくる古水道の由来が。はるかに
墓地のかたえを流れ、アペニンの勾配から
水道はおまえに言葉を運んでくる。水は
やがておまえの顎(おとがい)の黒ずんだ老年をつたい、
前の水盤に落ちてゆく。
これは眠りながら地に当てられた耳。
おまえが物を言いかける、大理石の耳。
大地の耳の一つ。こうして大地は
おのれ自身とのみ語りあう。ふと水甕が漬けられるとき
大地は会話を遮られたかと思う。
(生野幸吉訳)
「はるかからくる古水道」はアクヴェドクト。ローマ時代に作られたもの。今なおイタリア、スペイン、フランスなどに残っている。
「水甕が漬けられる」は「浸けられる」ではないか?
おお 泉の口、与えるもの、口よ、
尽きせずひとつのこと 純粋なことを語っている――
おまえは、流れる水の顔がまとう
大理石の仮面。そして背後には古水道の管の
来し方はるかなつらなり。その水道は遠くより
墓地また墓地のかたわらを通ってアペニンの斜面から、
おまえのおまえが言うための言葉を運んでくる。
それはおまえの顎(あご)の黒ずんだ年暦を伝って
前方の水盤のなかへ注ぎこむ。
これは眠りながら差し出されている耳、
その大理石の耳のなかへ おまえはつねに語りかける。
大地のひとつの耳。大地はそうやって
自分自身とのみ語る。甕が水のなかに入れられると、
大地には話を妨げられたようにおもわれる。
(田口義弘訳)
前記の「第二部・14」では「花」の「無音の運動」に触れたのち、この「15」ではふたたび「聴覚」の世界に引き入れられます。
遠い過去のような場所である、さまざまな墓地のほとりを流れ、アペニン山脈(イタリア)の斜面を下ってくる水は、町々の古水道のはるかな連なりを通って、この古い泉に注がれる。その連続する水音を聴いているのは「大地の耳」としての「泉の水盤」だと。
大理石の仮面の口から、耳の形をした水盤に絶え間なく注ぎこまれる水ということを思い描くと、一枚の古い写真あるいは絵画を観る思いがします。これはローマあたりにある泉ではないか?
第1節から第3節まで「おまえ」と呼びかけられているのは「泉の口」であり、第4節には「おまえ」と呼びかけられているものはいないが、「大地」の話を妨げた人に対して語っているのではないか?しかしこの妨げは、すぐに回復してしまうもので重要な存在ではないだろう。
「14」に続き「15」でも「眠り」がうたわれています。ようやくリルケがこのソネットにおいて繰り返し描き出そうとした世界が見えてきます。「オルフォイス的空間・・・・・・と言えばいいのだろうか?」のなかでは、聴くものは同時に歌うものであり、眠って(あるいは死んで・・・)いるものも同時に聴いているものとなるのだろう。そのようにして「生」と「死」はいつでも統一された世界に在るのだと?
尽きずに1つのことば、純粋なことばを語る口よ、――
流れる水の容貌によそおわれた
大理石の仮面よ。そして背後には
はるかからくる古水道の由来が。はるかに
墓地のかたえを流れ、アペニンの勾配から
水道はおまえに言葉を運んでくる。水は
やがておまえの顎(おとがい)の黒ずんだ老年をつたい、
前の水盤に落ちてゆく。
これは眠りながら地に当てられた耳。
おまえが物を言いかける、大理石の耳。
大地の耳の一つ。こうして大地は
おのれ自身とのみ語りあう。ふと水甕が漬けられるとき
大地は会話を遮られたかと思う。
(生野幸吉訳)
「はるかからくる古水道」はアクヴェドクト。ローマ時代に作られたもの。今なおイタリア、スペイン、フランスなどに残っている。
「水甕が漬けられる」は「浸けられる」ではないか?
おお 泉の口、与えるもの、口よ、
尽きせずひとつのこと 純粋なことを語っている――
おまえは、流れる水の顔がまとう
大理石の仮面。そして背後には古水道の管の
来し方はるかなつらなり。その水道は遠くより
墓地また墓地のかたわらを通ってアペニンの斜面から、
おまえのおまえが言うための言葉を運んでくる。
それはおまえの顎(あご)の黒ずんだ年暦を伝って
前方の水盤のなかへ注ぎこむ。
これは眠りながら差し出されている耳、
その大理石の耳のなかへ おまえはつねに語りかける。
大地のひとつの耳。大地はそうやって
自分自身とのみ語る。甕が水のなかに入れられると、
大地には話を妨げられたようにおもわれる。
(田口義弘訳)
前記の「第二部・14」では「花」の「無音の運動」に触れたのち、この「15」ではふたたび「聴覚」の世界に引き入れられます。
遠い過去のような場所である、さまざまな墓地のほとりを流れ、アペニン山脈(イタリア)の斜面を下ってくる水は、町々の古水道のはるかな連なりを通って、この古い泉に注がれる。その連続する水音を聴いているのは「大地の耳」としての「泉の水盤」だと。
大理石の仮面の口から、耳の形をした水盤に絶え間なく注ぎこまれる水ということを思い描くと、一枚の古い写真あるいは絵画を観る思いがします。これはローマあたりにある泉ではないか?
第1節から第3節まで「おまえ」と呼びかけられているのは「泉の口」であり、第4節には「おまえ」と呼びかけられているものはいないが、「大地」の話を妨げた人に対して語っているのではないか?しかしこの妨げは、すぐに回復してしまうもので重要な存在ではないだろう。
「14」に続き「15」でも「眠り」がうたわれています。ようやくリルケがこのソネットにおいて繰り返し描き出そうとした世界が見えてきます。「オルフォイス的空間・・・・・・と言えばいいのだろうか?」のなかでは、聴くものは同時に歌うものであり、眠って(あるいは死んで・・・)いるものも同時に聴いているものとなるのだろう。そのようにして「生」と「死」はいつでも統一された世界に在るのだと?
リルケの前では、申し訳ありませんが、Akiはある2人の詩人から「水の詩人」「耳の詩人」という嬉しいお言葉を頂いたことがあります。
そういう意味でも、このソネットは無理なく、わたくしの心に流れこんできました。
むつかしくないときの、リルケの詩の素晴らしさが出ていると思います。万物を経巡る水のイメージの素晴らしさ。
いいなあ。言葉の美しさがあると思う。