翻訳:田口義弘
このソネットは、第一部26編、第二部29編、合計55編で構成されています。「ドゥイノの悲歌」が書かれた時期と大分重なっているようですが、ただし「悲歌」のように第一次大戦の多大な精神的打撃のなかで、ペンが進まず10年の歳月がかかったしまったことに比べて、比較的順調に書かれたようです。第一部の1~20編までは3日間で書かれています。
このソネットに大きな影響を与えたものは、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」でした。この詩は手書きで紹介するのにはあまりにも長いので、ここにリンクさせていただきました。この翻訳者の方は存じ上げません。リルケ自身はこの詩を独訳していますが、この「海辺の墓地」との類想と対峙が「オルフォイスへのソネット」にはみられます。
このポール・ヴァレリーの詩は、堀辰雄の「風立ちぬ」のなかで引用されている1行「風立ちぬ いざ生きめやも」でも有名な詩ではありますが、どうもこの1行だけが1人歩きしているような気がします。
「ドゥイノの悲歌」のなかで呼び出される「天使」は、彼岸でも此岸でもなく、この大きな統一体に凌駕するものとして存在しましたが、この「ソネット」のなかでの「オルフォイス」は、神話のなかに登場する比類なき楽人のことです。神ではありますが、絶対化されていながら、無常な一個の人間としての姿も見えかくれします。
第一部・1
すると一本の樹が立ち昇った。おお 純粋な超昇!
おお オルフォイスが歌う! おお 耳のなかの高い樹よ!
そしてすべては沈黙した。 だが その沈黙のなかにすら
生じたのだ、新しい開始と 合図と 変化とが。
静寂より動物らが押しよせてきた、澄んだ
解かれた森のねぐらから 巣から
そしてわかった、かれらがそんなにも静かだったのは、
企みや、不安からではなくて
じっと聴きいっているからだった。叫びも 吠え声も
かれらの心のなかで小さく思われていた。
そしていまさっきまで これを受け入れるための小屋も、
暗い欲望からの、戸口の柱が揺れうごく
隠れ家すらほとんどなかったところ――そんなかれらの
聴覚のなかに神殿を創られた。
ここでは「オルフォイス」の姿は見えません。彼の歌声あるいは竪琴の音色だけが聴こえています。それによって、1本の樹が超昇するのですが、これは耳のなかに聳立つ樹なので、あくまでもここでは聴覚の段階です。その耳のなかにまたもや見えない神殿もつくられています。それらがあたりに沈黙を拡大して、その声と静寂との対比のなかで、なにかが起きるであろうという予感です。大変すぐれたプロローグとなっています。
「超昇」という漢語が使われていますね。訳者の言葉への真摯な姿勢がここに見られます。これ以外に該当する日本語はない、というところまで考え抜いた結果ではないか?と思います。
(2001年・河出書房新社刊)