第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第3節 「アインシュタインのパズル」も実に面白かったですね。アインシュタインの相対性理論が、初めはイメージとの遊びから始まっているのは、実に愉快です。それが、普通は結びつくことがない、対極にあるもの、時間と空間、粒子と光波、慣性と重力などを結びつけることになったというのですから。
また、意識は自己中心でなければならないのに、科学によって、人間の意識が中心ではないことがますます明らかになっているので、現代人は、宇宙の孤独も体験しなくてはならないのです。耐え難い孤独というべきでしょう。逃げ出すのが普通、と言っても過言ではないかもしれません。しかし、その逃げは、権力の全体主義に向かう傾向を助長し、ナチや日本のような全体主義を作ってしまいます。それでは元も子もありません。人間存在の本質と言ってもいい、自由、を失うからです。私どもは、エリクソンが教えてくだすっているように、もう一度人間の再生を実現するために、日常生活を再儀式化する方向に生きていきたいものですね。
さて、今日からは、第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第4節 「国家(民族)の1つの夢」です。
私どもは、科学的な、世界に対する見方から、政治的な、世界に対する見方へと進む時、明らかなのは、平凡な個人は、ヴィジョンを自分で創りだすこともなければ、夢幻の全能に支配されることもありませんが、世界の中心に自分がいる感じと行動の自由に誇りを持てるのは、その人が、検証済みの、やり取りのある現実の世界に対する1つのイメージ(仕事にまつわるいろいろな活動や、親密な協力関係や、地域と地域の有力者たちの政治活動のやりとり)に参加するときだけ、ということです。1人の良い指導者は、その代わりに、「 ピチピチ、キラキラ、生きているということは、こういうことですよ」、と徐々に教えることができる人であり、自分を指導者に選んでくれた、まさにそのことによって、自分に従っている人々に対して、「自分は選ばれているんだ」という感じを吹き込むことができる人でもあります。
しかし、「ヴィジョンを『共に見る』ことが、個人がやる気を起こす心の世界で、政治の、大小の舞台で、働くことに対して、どんな言葉を当てたら最高なのでしょうか? 多分、「世間の常識 world view」なら、役立つに違いありません。そこで私が疑問に思うのは、ドイツで私が文科系の教育を受けたことの面影です。そこでは、その「ヴィジョンを『共に見る』」ことに対して、言葉がたった一つしかありませんした。それは、若いころのアインシュタインにとってと同様に、あらゆる学生にとっても馴染みのある言葉ですが、「Weltanschauung 世界観」です。しかし、それまでは、この言葉は、それ自体が、ドイツのkultur 文化の中で、一種の儀式的な一番になっていましたし、帝政期には、国家の敗北の中で、「千年王国」という残忍な漫画に屈するほど、かなり骨の折れる立場であるように思われるものでした。
「ヴィジョンを『共に見る』」働きは、平凡な人が、生活の場でやりとりに参加し、同時に、その参加を通して、1つの世界に対するイメージも共有することによって、自分が世界の中心で生きていて、自由に行動できている、と実感するために、必要なことです。指導者はそのイメージを使って、人々に「ピチピチ、キラキラ生きるとは、こういんことですよ」と教えてくれますし、「自分は選ばれているんだ」という感じも人々に与えることができます。
しかし、ここでも、「ヴィジョンを『共に見る』」は、非常にアンビバレントなことが分かります。