アメリカ人のスーパー・アイデンティティは、「月まで行ける」「天地創造以来の偉大な」存在、「神のごとき」存在であるとの夢を、人々にもたらす一方で、科学技術が核を生み出し、アラモゴード(原爆の最初の実験場がある、ニューメキシコの街)ヒロシマとをもたらし、かつてない大量殺戮を可能にしました。それはまた、日々の暮らしから、目的と声を奪い去るものでした。まさに、マックス・ウェーバーの「精神なき専門人、心情なき享楽人」に、人々をしてしまう、猛烈なものでしょう。「近代人」の出現です。
このように、拡大再生産という量的な拡大だけでは、たとえそれによって、近代人はその“働きて得る”物を徐々に享受できるとしても、地域社会の暮らしの質には、かなり強いストレスももたらします。そして、アメリカ人が夢を抱くことと計画を立てることを組み合わせる時、巨大な組織と過剰な規格化、巨大な官僚政治と競争的な専門化が生じるのです。大衆化した個人は、自由になった「フリをする」ことを学び、なにがしかのものを自分自身のものにできる機会を望んでいながら、逆に、狭い、決まりきった条件下の政治で、判で押したような型通りの役割の中でしか価値を認められないのです。「被治者の同意」に含まれており、「被治者の同意」によって保たれている、無傷の個人主義に対する包括的なヴィジョンは、人口と物量が爆発的に増大する中で、どのように複雑な法と法の強制をもたらすかを、私どもはまた知っています。法が複雑になり、強制されるようになれば、多くの個人が(権力政治の一角をなす仕方をたまたましらないのならば)すぐに正々堂々と試合に臨む感じを完全に失うか、もしくは、あらゆる意味で、(そのことに関して)遊ぶ感じを完全に失うことを、私どもはまた知っています。そして、繰り返すまでもないことですが、陽気で楽しいゆとりを失ってしまえば、特に自由であることと陽気で楽しいことを、生きる姿勢にしている場合は、一定程度の停滞した感じをもたらします。しかしながら、大多数の人々は、根本的な変革を思い描くことはないでしょうし、思い描くことはできないことでしょう。というのも、もともとの無傷の個人主義に対する包括的なヴィジョンが、1人の革命的な人を基盤にしてこなかったからでしょうか?そのような1人の革命的な新しい人ならば、私どもと全世界を、より真実な形で救い出すために、いつか現れることでしょうけれどもね。
近代人の姿を、アメリカ人の当時の姿を通して、エリクソンは実にリアルに描き出してくれました。無傷の個人主義に対する包括的なヴィジョンが、複雑な法体系とその複雑な法の強制をもたらした結果、近代人は、一見自由なようでいて(テレビはリモコンで操作できるし、ドアは自動で開くし、ご飯は予定通りに炊けるし、買いたいものがあれば、あそこのコンビニに行けばいいし…)、人間にとって一番大事なゆとり=自由を失ってしまっているのです。それは、停滞した感じ、閉塞感も、きっともたらすことでしょう。
しかし、近代人の無傷の個人主義に対する包括的なヴィジョンは、そもそも、革命的な新しい人を基盤としなかった、というのは、いったいどういうことなのでしょうか?