自我が心の時空を秩序づけようとする働きは、実に素晴らしいものですね。しかし、その秩序づけが、最深欲求に応えるものから、そこにはなかなか至らずに日頃の心の裏取引に応じるものまで、いろいろある、ということも心に留めておいてよいだろうと思います。
それで、ベラーが描き出していることは、アメリカのヴィジョンのヌミノースの側面です。それは、「ゲッティスパークの演説」以上に根っこから再確認できることはありませんし、ジョージ・ワシントン以上に計画に従って再確認できることもありません。ワシントンは、この国を、「アメリカ人民の手に託された実験」と呼びました。その日以来、私どもの大統領は、きちんと選ばれ、世界に対する1つの見方を、ずっと一新させ続けています。その一新された、世界に対する1つの見方は、「ニューディール(新たな政策)」とか、「新しい最前線(ニューフロンティア)」とか、「偉大なる社会」とかの名を帯びるように最終的になりました。それによって、アメリカ人民に対して、自分たちは、自分自身の運命を前もって準備することなく作り出すために、自分自身を選び直しているのだ、と宣言してきたのです。ベラーが指摘しているのは、1つの大切な、しかし、一見矛盾していることです。つまり、「一人の人の宗教的信念、礼拝、付き合いは、まったく個人的な出来事であると考えられているけれども、アメリカ人の大多数が共有している宗教的な方向付け(好み オリエンテーション)と共通する要素も、同時に、併せ持っています。そして、実際に、旧世界から新世界までの理想的なあの使節、すなわち、トックヴィルは、市民宗教の形式的側面ばかりではなく、なじみ深い側面にも、すでに気付いていました。彼は次のように記しています。「アメリカ人たちは、新世界に、1つの民主的で、自分たちの代表を選ぶ宗教と呼ぶ以上に、うまく言い表すことができない、1つのキリスト教を携えてきたのです。」1人の本当のネイティヴ・アメリカの作家として、メルヴィルが言っています。「政治的救済者が、アメリカ合衆国にやってきた」と。
アメリカの市民宗教というのは、実に面白いです。世俗なのに、宗教でもある。それは、いつも何度でも、世界に対する1つの見方を一新し続けている、といいます。その宗教の中にあっては、1人の人の宗教的信念などは、大多数のアメリカ人と共通するものになる、とも言います。この一見矛盾に見えることが、1つになるのが、ヌミノースの特色であり、儀式化の特色でもあります。そして、何よりも大事だと、私が考えるのは、新しいヴィジョンの中で(神の御許で、政治的救済者の元で)、自分自身を選び直すこと、です。
今日はそのことをエリクソンは、改めて教えてくれているように思います。