アメリカの市民宗教では、いつも新しいヴィジョンの元で、自分自身の選び直しが行われているというのは、いつもカウンセリングを受けているようなものです。そうです。カウンセリングこそ、非日常の守られた自由な空間で、神はいなくとも、自分自身を選び直すことを行うことなのです。
しかし、それでは誰が、それ(1つの民主的で、自分たちの代表を選ぶ宗教)にふさわしい新しい人であり、どこに、新しい自由があるというのでしょうか?ワシントンが実験と呼んだことは、節理によって、この実験にために予約済みの大陸で、新しい国家を確かにする道(アイデンティティ)を創りだすという、最も大規模な歴史的試みとして計画されうるものです。その自分を確かにする道(アイデンティティ)は、世界中のいろんな国々やいろんな文化圏からやってきた、入植者たち、開拓者たち、何派にもわたる移民たち、それぞれの自分を確かにするいくつもの道(アイデンティティ)を素材にしているのです。建国者たち(一定の文化的で、信仰箇条に関して、その時までにまとまりをつけた人たち)のヴィジョンの力を代弁するものは、まさに、建国者たちが憲法の枠組みと文化の枠組みを創り出したことです。しかも、それが、量的にも、質的にも、予想もつかない多様性の下でさえ、新しい人がいつも期待され、1つの歴史的な脆さが幅の広い強さと認められ、預言の正しさが証明されるという基盤に基づいていたことです。もしこれが、「るつぼ」と呼ばれるようになるのであれば、そして、それが、ブクブクと泡立つほど力強い混ぜ合わせを意味するのならば、私どもは、この当世風の、とても安直な言い回しがもう1つ意味するのは、原形をとどめない程、しかも、その混ぜ合わせが、すべての人に共通する1つの未来を示す、1つの優れた混ぜ合わせになるだろうという確信もまったくないままに、まぜこぜになる危険に対する、1つの警告である、と考えるべきでしょう。古来からの自分を確かにする道(アイデンティティ)を排除する危険があることは、多大な情緒的な不確かさを、歴代の「第一世代」が我慢を強いられた信じられないくらいの困難に、もたらしました。その結果は、いつまでも続く、いつくかの民族が、内輪での民族的連帯はあるものの、その民族間で対立が生じたことです。1つの対立は、国を確かにする非凡な道(アイデンティティ)を作り上げる多くの対立の中にあります。私が数年前に記したように、国を確かにする非凡な道(アイデンティティ)は、歴史がいわば、一定の対立する可能性を浮き彫りにする方法から導き出されるのです。つまりは、国を確かにする非凡な道(アイデンティティ)は、歴史がその対立する可能性を、1つのその国ならではの文明にまで引っ張り上げる方法から出てくるものなのです。
国を確かにする非凡な道(アイデンティティ)も対立を生かすことから生じるというのは、面白いですね。それはちょうど、アインシュタインが、相対性理論と言う非凡な道を、普通は結びつきようもない両極端(時間と空間、粒子と波動など)を結びつけることから生じたのと、同じです。