「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』
p.33 第2パラグラフから。
「その子ならではの要素」に大切な意味があるのは,人生の様々な分かち合いの中で,似た課題が繰り返し登場するからです。一連の積み木(の写真)をロバート君の幼稚園の先生等に見せたところ,1人の教員は「ロバート君は,身体は強く恵まれていて,ずっと年上の子にも負けないほどです」と言いました。そして,その教員が付け加えて「ロバート君たら,よくおかしなことをしますよ、一人ニコニコして,ツーステップのダンスを両手を大きく広げて教室をぐるっと回って、踊るんです」と言いました。その教員は、嬉しそうにロバートのしぐさを真似たからこそ(唯一「子どもが育つ」教室がこれです),両腕を広げた小さなおもちゃ全てが,何の変哲もない積み木でさえ,いのちを宿す感じがします。その教員は,「『運動とダンスがロバート君は得意じゃないの』と、ロバート君の気持ちに寄り添って褒めたんです」と続けました。でも,ロバートはガッカリした仕草で「僕は頭が悪いから」と言うと,その先生はロバートを励まして、「だからこそ、学校があるんじゃないの。身体と頭が助け合うようにするのが、学校なのよ」と言いました。
歓んで与える場面を見れば,臨床に関わる者等は,すぐさま強いイメージが湧きますね。そのイメージはさらに「うまくできてる」という別のイメージを喚起します。ビルが赤ちゃんで、男の子の人形が赤ちゃんの頭のところにいるとすれば,積み木全体が,あの教員が示した,ロバート少年を悩ませていたことを解決する祈りのような言葉,すなわち,身体と頭が一体になってうまく働くようになりますように,という言葉と響き合う,と言ってもいいでしょう。この祈りは,小さな部分すべてを一体にしたいという大事なこととして認めています。ここで私が思い出すのは,ピアジェさんが言ったことです。すなわち,「子どもが大事なことを理解するためには,その大事なことを自分自身で組み立てなくてはなりませんし,その大事なことを『再発見』しなくてはなりません」というピアジェさんの言葉を思い出します。
このように,積み木療法には,ナルシストの自己評価を大きく修正する以上のものがありますね。その子ならではの要素でも,みんなにある要素でも,細々した要素が鋭く示すのは,願いをビッタリ示すお祈りのおかげで,「一体になる」様々な大事な判断基準です。心から自由になる約束の時は,本当の自分が生きるんですよ。あるいは,心から自由になる約束の時は,共に陽気で楽しく育て合う場があれば,いのちを育て合う舞台の体験と,2人が打ち合う立ち場の経験を,慈しみ深いいのちが一巡する結界に持ってくれば,1つになる根源的な生き方に目覚めることが、心から自由な者のお務めになるはずです。そこで,ロバートが示してくれた場で遊んでみましょう。
ロバート少年の積み木の建付け全てが示しているのは,子どもの頃にある,発達の根っこにある結界です。すなわち,現在進行形で発達している人間が身に付けなくてはならないのは,自分が思い通りに自由に,2本の自分の足で真っ直ぐ立つといういのちが一巡するギフトですし,そのギフトと共に,根源的な志です。自分の2つの眼差しで,自分が立ち上がる想像力を発揮して,好意にみちた結界の中で,人間は自分の志を身に付けます。目の前のものや先にあるものを「楽しみにする」ことや,背後にあるものや裏側にあるものを振り返ることを身に付けます。人間は向きと価値を結びつけて,上のもの,自分より上のもの、最高の存在を尊敬するようになりますし,下の者,自分より下のもの、最低の存在を軽蔑するようになります。このような自分を超えた存在を認める正しい向きができれば,ハッキリと左右の区別ができますし,人の立場の差や男女差に含まれる強烈な意味も,こういった向きと深く関係しています。
私どもの事例では,自分がまっすぐ立つイメージに関係していると気付いたのは,心理性的な発達の「場から出て」と「親の真似をする」舞台ではよくあるシンボルとテーマ,それから、その強い性的な好奇心と共に,奇妙な心配事でした。赤ちゃんの頭には、有無をいわせず心配の種の悪魔がのっている積み木は,私が知る積み木遊びの中の、寝室のシーンでは、とても珍しいものです。しかし,その心配の種が何を心配しているかに関わらず,この心配の種は,昔からある立つの原型的なテーマです。ペニスのテーマが,いのちが一巡する時に目立つのは,プロフィールにブロック構造を見つけ出す場合でしょう。消防車のはしごがすいへぅ方向に延びるのを見る(大事な時には、垂直方向に延びるものですが)とき、自由な身体、すなわち、腕全体が広がっているのが光ります。反対の低みのテーマは,「下劣」と見なされる、赤ちゃんの夢悪魔の中にあるだけではなく,全ての中で「最低」な獣,地面に縛り付けられた蛇の中にもありますね。蛇は,心乱れた人間に蔑まれ,全ての他の被造物(最も高貴な獣,百獣の王ライオンに先導されて)から追い詰められ、打たれます。しかし,このような積み木の配置が示しているのは,男根期の本能的な危機と空想だとすれば,黒人の子どもが積み木の天辺に上を向いて寝かされている事実の中に、根っこにある葛藤の残り香があることが判ります。ロバート少年が証明してくれたのは,ロバート自身が両腕を大きく広げた人形をどうしたら真っ直ぐ立てる(訳注:復活させる)ことができるのかを知っている,ということです。一番上に居て,一番ウソのないおもちゃが,地獄に落っこちる一番危険なところにあるんでしょうか?
私はこの人生の舞台を,「自分の実感に従って人と関わることを善しとする心の習慣」と「自分の実感に従って人と関わるのは罪だとする心の習慣」の分かれ道としました。ダンスをする姿も,先生のお祈りも,お勉強でも遊びでも,頭も身体も,自分の実感に従って人と関わることを善しとする生き方を開くのは、明らかです。たほう,蛇の運命は,男根の罪を裁くことを示すように,夢の女悪魔は,性のテーマに加えて,上に立つ者,すなわち,お巡りさん,お医者さん,「老賢者」から,厳しく裁かれていることを示しています(「上に立つ」私が,未熟な私の上で,蛇に激しく威張り散らします)。この舞台のぶつかり合いから生じて芽生える(訳注:3つ目の)強さとは,自分の実感に基づいて人と関わる目当てがたくさんできることですし,ロバート少年の口癖「どこでやるの?」を思い出しますね。
結局,この人生の舞台を「エディプスが立つ舞台」と呼ぶことになったのならば,というのも,一番上の立つ父親の立場を奪い,母親を独占するという思い上がりが優勢になるからそう呼ぶんですが,ここで思い出すことは,自らが真っ直ぐに立つ姿勢を取る場は,エディプスの神話全体にも漲っている,ということでしょう。オイディプスという名そのものが「腫れた脚」という意味です。
エディプスの神話は、王である父が、生まれたばかりの赤ちゃんのエディプスの脚にトゲを指して、山に捨てる件が出てきます。自らの脚で真っ直ぐ立つためには、最初から不利な条件をエディプスが負っていたことになります。
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