高齢者が、「ひどい目にもあったけど、人生は上手く出来てるね」と感じるのか? それとも、「良いこともあったけど、人生に何の望みもありゃしない」と感じるのか? という危機にある時、今まで身に着けてきた人間力は、新たな価値を帯びると言いますね。
The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p64の 10行目から。
要するに、自我が、よりスムースに働いても、自覚的な≪私≫をまとめ切ることなど、できないんですね。社会的な絆があってもね、究極的な見通しなしで済ませられるものではありませんよ。究極を見通すことは、歴史的には、宗教的な価値、あるいは、政治的な価値によって、イメージされてきたものですね。
≪究極≫は、日本人には、ほとんどなじみのないものなんですね。非常に大事なことなんですが、それを意識することは、日本人はあまりないのが残念です。
究極と言うのは ultimate は、ラテン語の「ultimatus アルティマトゥス」 に由来し、その意味は「一番遠い」、「最後の」という意味です。ですから、ultimateも、「最後の」、「根本的な」、「最高の」などという意味があります。これは、時間、歴史をどうとらえるのか、ということと結びついた ものの考え方なんですね。
ユダヤキリスト教では、歴史は神が作った「天地創造」のはじめと、「終末」がありますから、その「終末」をどう見るのか?ということが、≪究極の見通し≫になります。ところが、日本は、歴史は、「天地創造」の始めもなければ、「終末」の終わりもなく、歴史はあくまで、一本の無限の線みたいなものです。ですから、≪究極の見通し≫がありません。
ですから、過去の教訓、規範から、≪いまここ≫を点検したり、≪究極的な見通し≫やヴィジョンから、≪いまここ≫を意味づける力が、一般に日本人は、非常に弱いんですね。
詳しくは、加藤周一さんの『日本文化における時間と空間』(岩波書店)をご参照下さいね。
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