エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

目的を失えば、どうでもいいことが目立つ

2013-09-25 03:00:14 | エリクソンの発達臨床心理

  自由のために国を作ったアメリカで、科学技術が進むと、ますます自由を失ってしまう、というのは、なんという皮肉でしょうか?

 

 

 

 

 

 ついで、ベトナム戦争がありました。それはちょうど植民地支配のもう1つの常道のように見えましたが、次第に、冒頭で引用したニュース解説者の合唱が悲しんだような行き詰まりに終わりました。新しいリアルな感じが明らかに必要としたのは、激怒の人道的源でしたね。この激怒の人道的源は、機械化された大量殺戮を良し、とすることと、たとえ、卓越しているわけではないにしても、そのような機械化された大量殺戮をする当人の客観性と道徳的中立も良し、とする、新しくて、広く受け入れられた確信に対して、対抗するものでした。なぜなら、ロバート・リフトンの言葉を使えば、「科学技術至上主義」というこの印は、ソンミの戦いや第二次世界大戦の絨毯爆撃以来、人類が得てきた主な利得を台無しにできる1つの兵器を手にしてきたのです(今や向こうさん[当時のソ連]もそれを手に入れています)。とにかく、この国が結局、知らないうちにやりだす戦争は、とってもお金がかかり、あまりに機械化されていて、しかも、どこをとっても希望のかけらもないので、勝利もなければ、何の自由もありません、あるのは、「名誉ある」撤退だけで、手近な国家目的として残されたのでした。しかし、その夢は、この(ベトナム戦争の)出来事をまさに生き延びたのですが、そこには、大きなパニックもなければ、このヴィジョンに行き詰まってしまったという圧倒的な感じもありませんでした。しかしながら、その次に、ウォーター・ゲートは、この国のトップに引き継ぐことを許された「絵空事」に対する関心が、根源的に新しい注目株となるものとして、自らを売り込むことになりました。

 

 

 

 

 

 アメリカは国家目的を失った時、ウォーター・ゲートのような政治的スキャンダルが、国家目的の代わりに、みんなが「共に見る」対照となったのでした。「価値ある」ことが見失われると、どうでもいいことが目立つのです。

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“近代人”のウソの自由と停滞

2013-09-24 03:00:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 アメリカ人のスーパー・アイデンティティは、「月まで行ける」「天地創造以来の偉大な」存在、「神のごとき」存在であるとの夢を、人々にもたらす一方で、科学技術が核を生み出し、アラモゴード(原爆の最初の実験場がある、ニューメキシコの街)ヒロシマとをもたらし、かつてない大量殺戮を可能にしました。それはまた、日々の暮らしから、目的と声を奪い去るものでした。まさに、マックス・ウェーバーの「精神なき専門人、心情なき享楽人」に、人々をしてしまう、猛烈なものでしょう。「近代人」の出現です。

 

 

 

 

 

 このように、拡大再生産という量的な拡大だけでは、たとえそれによって、近代人はその“働きて得る”物を徐々に享受できるとしても、地域社会の暮らしの質には、かなり強いストレスももたらします。そして、アメリカ人が夢を抱くことと計画を立てることを組み合わせる時、巨大な組織と過剰な規格化、巨大な官僚政治と競争的な専門化が生じるのです。大衆化した個人は、自由になった「フリをする」ことを学び、なにがしかのものを自分自身のものにできる機会を望んでいながら、逆に、狭い、決まりきった条件下の政治で、判で押したような型通りの役割の中でしか価値を認められないのです「被治者の同意」に含まれており「被治者の同意」によって保たれている、無傷の個人主義に対する包括的なヴィジョンは、人口と物量が爆発的に増大する中で、どのように複雑な法と法の強制をもたらすかを、私どもはまた知っています。法が複雑になり、強制されるようになれば、多くの個人が(権力政治の一角をなす仕方をたまたましらないのならば)すぐに正々堂々と試合に臨む感じを完全に失うか、もしくは、あらゆる意味で、(そのことに関して)遊ぶ感じを完全に失うことを、私どもはまた知っています。そして、繰り返すまでもないことですが、陽気で楽しいゆとりを失ってしまえば、特に自由であることと陽気で楽しいことを、生きる姿勢にしている場合は、一定程度の停滞した感じをもたらします。しかしながら、大多数の人々は、根本的な変革を思い描くことはないでしょうし、思い描くことはできないことでしょう。というのも、もともとの無傷の個人主義に対する包括的なヴィジョンが、1人の革命的な人を基盤にしてこなかったからでしょうか?そのような1人の革命的な新しい人ならば、私どもと全世界を、より真実な形で救い出すために、いつか現れることでしょうけれどもね。

 

 

 

 

 

 近代人の姿を、アメリカ人の当時の姿を通して、エリクソンは実にリアルに描き出してくれました。無傷の個人主義に対する包括的なヴィジョンが、複雑な法体系とその複雑な法の強制をもたらした結果、近代人は、一見自由なようでいて(テレビはリモコンで操作できるし、ドアは自動で開くし、ご飯は予定通りに炊けるし、買いたいものがあれば、あそこのコンビニに行けばいいし…)、人間にとって一番大事なゆとり=自由を失ってしまっているのです。それは、停滞した感じ、閉塞感も、きっともたらすことでしょう。

 しかし、近代人の無傷の個人主義に対する包括的なヴィジョンは、そもそも、革命的な新しい人を基盤としなかった、というのは、いったいどういうことなのでしょうか?

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権力の勝利 ≒ 目的も声も見失った暮らし

2013-09-23 03:03:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 アメリカ人のアイデンティティが、スーパー・アイデンティティと呼ばれ、一括取引の中で生じるといいます。それは、科学技術の勝利によるものですが、ひとりびとりにとっては、「破壊的」なもののようです。今日は、そのことが話題になります。

 

 

 

 

 

 アメリカの科学技術の勝利は月にはるばる到達することで頂点に達しました。1人の宇宙飛行士が、自分のゴルフ・クラブを持っていったことによって、古い勝負と新しい勝負を結びつけました。しかし、その勝利は、幾分うぬぼれの強いものになったのは、大統領が人類に向かって「これは『天地創造以来最も偉大な瞬間です』と述べ、「宇宙飛行士諸兄は『神が地球を見る』ように、今地球を見ています」と言ったためです。一方で、新しい科学技術的な「死に方」、つまり、冷徹に大量殺戮を行うことは、すでにヒロシマで頂点に達しました。しかし、この国の人々がなかなか自覚しないのは、ローレンス・アイズリーが「宇宙の破滅的要素」と呼んだものの現代版を始める運命に選ばれて来た、という事実です。アラモゴードやヒロシマにおいて(それに、月の上でも)、この夢は、どうしてか、それ自体理解されません。アラモゴードやヒロシマが明らかにした権力の勝利は、現代の暮らしによって、あまりにも多くの人が、境界線のない青写真の元では、目的も自分自身の声も失ってしまったロボットと貶められている、という感じを補うことはできませんでした。1枚の青写真の調整が行われるのは、計画を理解する知恵によってではなしに、容赦のない変化にずっとあわせつづけることによることが多いのです。この容赦のない変化は、意義深い代替案もなく、また、再儀式化を活気づけるのではなしに、形ばかりの応答だけを良しとするのです。

 

 

 

 

現代は大量殺戮という悪夢に脅かされているのですが、悪夢はそれだけではないのですね。科学技術の発展は、人々の暮らしを、目的も声も見失ったものにしてしまう、という恐ろしくも、非常に退屈でもある、また1つの悪夢をもたらすのでした。

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実用の神様 スーパー・マーケットとスーパー・アイデンティティ

2013-09-22 03:00:24 | エリクソンの発達臨床心理

                                                  台風一過の朝顔

 アメリカ人のトラウマは、アメリカ人の生き方が「拡大」を前提としている以上、拡大が止まった時と拡大してもまとめきれない時がトラウマになるようです。いわば右肩上がりの経済を前提していた生き方が、右肩上がりのできないでいる、今の日本がトラウマになる(かもしれない)のと同様です。

 

 

 

 

 

 時間と共に、自主独立のアメリカ人は、科学技術のノウハウと世界市場のモデルにもなりました。「メイド・イン・アメリカ」のものを輸出することは、夢を提供しているように思われました。その夢は、実用の神の節理によって計画もされた(誰がそれを疑えるでしょうか? いいえ誰も疑えません)、いっそう圧倒的な物質的確証と共に提供されました。自由な企業心と無謀な拡大は、つけ込まれたと感じたり、仲間はずれにされたと感じたり、汚された田舎に追いやられたと感じる人たちに対して、謝る必要がありませんでした。また、新たな帝国主義だと受け取られることもないのは、アメリカのノウハウが広まっているところならどこででも、1つの新しい、自分を確かにするバカでっかい道(スーパー・アイデンティティ[スーパー・マーケットが「あちら側の人(共産圏の人)」さえ羨む、自分を確かにするバカでっかい道(スーパー・アイデンティティ)にピッタリの象徴になりました])が一括取引の中に生じる時なのです。

 

 

 

 

 

 アメリカは、物質的な圧倒的な力という感じでしょう。なんでも豊富にそろい、しかも、安いスーパー・マーケットが、その力の象徴であるのもうなずけます。それが、拡大を旨とする、自分を確かにする道(スーパー・アイデンティティ)にピッタリの象徴ということには、気付きませんでしたね。でも、「スーパー・アイデンティティ」というと、スーパー・マーケットの商品が安いように、安っぽく聞こえるのはなぜなんでしょう?またここでいう「一括取引」とは何なのでしょう?

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アメリカ人の2つのトラウマ

2013-09-21 03:00:00 | エリクソンの発達臨床心理

 

 アメリカ人の生き方には、「新しいこと」や「大きいこと」は良いことだ、という信条があることが分かりました。日本でもコマーシャルで、「新発売」という言葉が使われることがありますが、これも「新しいこと」は良い、という信条の表明の1つでしょう。また年齢がばれてしまいますが、一昔前に、チョコレートのコマーシャルで、そのものずばり「大きいことは良いことだ」というフレーズが、山本直純さんの音楽と指揮する姿と共に、流れていたことも、その信条の吐露と考えてよいのでしょう。そういう意味では、日本も、敗戦後、アメリカの影響下の元に、アメリカ人の生き方の影響を受けてきた、と言うべきでしょう。

 さて、今日は、アメリカ人の生き方にある、2つのトラウマがテーマです。

 

 

 

 

 

 しかし、次の提案に戻りましょう。すなわち、歴史的真実は、データが検証可能だという感じがある、事実であることに基づいており、説得力のあるリアルさを感じることにも基づいており、さらには、人々がやり取りをする努力によって実現することにも基づいている、という提案です。限りないゆとりという国家的な感覚の、一番の現実的(事実に関わる)基盤は、もちろん、空間(不動産)の広がりであり、その大地の資源の、その境界の安全に対する関係です。このようなすべての点で、アメリカは比類がないほど恵まれており、ほとんど揺るぎないほど恵まれています。しかし、「アメリカ人の夢」をこのようなすべての点で研究するならば、この「アメリカ人の夢」には、不意にヴィジョンのゆとりの限界に突き当たる特異なトラウマが含まれざるを得ないでしょう。個人の生活の中でトラウマは、そのゾッとするような経験があまりにも突然で、あまりにも強いので、1人の人の「遊び」という日常的な感じが一時的に働かなくなることです。さらには、トラウマがダメージを与える状況がとめどなく続いてしまうかもしれません。トラウマの繰り返しを、大なり小なり意識的に予期するという形で、一番上手に一時の適応を取り戻すことができないのです。生き方の中で新しさと大きさを強調することは、2種類のトラウマを招くこととなります。1つは拡大が突然休止するトラウマですし、もう1つは拡大しすぎてうまく適応できないことがハッキリしてしまうトラウマです。歴史的にトラウマがダメージを与える1つの見本は、私どもに悪夢を見るような性質をもたらします。この悪夢を見るような性質は、国家的な夢が、周期的に帯びるもので、いわば、潜在意識に維持されています。平和な時や日常生活においては、アメリカ人が暮らしているのは、アメリカの豊かさゆえにほとんど忘れている膨大な努力と苦労が、実際には、安全と限りない機会を、「良くなろう」とし続ける人々にもたらしているという希望においてです。しかし、大不況が、原材料中心の企業心の限界を示しました。それに、この国はいつでも開かれた、「外側の」空間にあるバカでっかい大きさを当てにしてきました。それは、最初、「荒野の西部」にありましたし、次には、外国の境界線上にありました。そこでアメリカ軍は、有害な価値の力がアメリカ大陸を侵略する位置にならないように防ぐために、海外に送られた「派遣」軍です。それに、私どもは覚えておかなくてはならないのですが、この遠征に加わる男たちは、侵略する同じ「旧世界の国々」に直面しました。この「旧世界の国々」は、派遣軍の男たちの祖父母やさらにその親たちの父となり、母となったのでした。しかし、核の時代という究極兵器の出現が、初めはアメリカが拡大する夢と華々しく一致しているように見えましたが、あらゆる境目を、それが自然なものでも、工事をしたものでも、無意味なものにしました。

 

 

 

 

 アメリカ人の生き方にある「新しさ」と「大きさ」をよいとする信条は、拡大を前提としています。拡大には、常に境目が必要です。核の時代は、その境目が消滅させました。ですから、核の時代のアメリカは、拡大が突然止まるトラウマに直面し続ける時代でもあるのです。

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