自由のために国を作ったアメリカで、科学技術が進むと、ますます自由を失ってしまう、というのは、なんという皮肉でしょうか?
ついで、ベトナム戦争がありました。それはちょうど植民地支配のもう1つの常道のように見えましたが、次第に、冒頭で引用したニュース解説者の合唱が悲しんだような行き詰まりに終わりました。新しいリアルな感じが明らかに必要としたのは、激怒の人道的源でしたね。この激怒の人道的源は、機械化された大量殺戮を良し、とすることと、たとえ、卓越しているわけではないにしても、そのような機械化された大量殺戮をする当人の客観性と道徳的中立も良し、とする、新しくて、広く受け入れられた確信に対して、対抗するものでした。なぜなら、ロバート・リフトンの言葉を使えば、「科学技術至上主義」というこの印は、ソンミの戦いや第二次世界大戦の絨毯爆撃以来、人類が得てきた主な利得を台無しにできる1つの兵器を手にしてきたのです(今や向こうさん[当時のソ連]もそれを手に入れています)。とにかく、この国が結局、知らないうちにやりだす戦争は、とってもお金がかかり、あまりに機械化されていて、しかも、どこをとっても希望のかけらもないので、勝利もなければ、何の自由もありません、あるのは、「名誉ある」撤退だけで、手近な国家目的として残されたのでした。しかし、その夢は、この(ベトナム戦争の)出来事をまさに生き延びたのですが、そこには、大きなパニックもなければ、このヴィジョンに行き詰まってしまったという圧倒的な感じもありませんでした。しかしながら、その次に、ウォーター・ゲートは、この国のトップに引き継ぐことを許された「絵空事」に対する関心が、根源的に新しい注目株となるものとして、自らを売り込むことになりました。
アメリカは国家目的を失った時、ウォーター・ゲートのような政治的スキャンダルが、国家目的の代わりに、みんなが「共に見る」対照となったのでした。「価値ある」ことが見失われると、どうでもいいことが目立つのです。