エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「出エジプト」を経て、晴れて自由

2013-09-15 03:17:41 | エリクソンの発達臨床心理

 

 アメリカは、自主独立の人を創りだす遊び場であり、実験場である、というのは、新しい国ならでは、なのかもしれませんね。

 そのアメリカに渡ることの意味を考えます。

 

 

 

 

 

 大海原をわたってアメリカにつくことは、誕生を意味することが多いのです。初期のアメリカは、実際、イスラエル国民と同一視されました。なぜなら、この国に本気で来るために、あるいは、新天地を征服することで自分には値打ちがあると感じるためにどこかの「エジプト」の圧政から、天が命じたとおりに、脱出し、そして、海を渡ったはずです。共同の過去を、神話のように繰り返することは、旧世界の国々から様々な形で脱出することに、飛びぬけて素晴らしい、自分の自由意思を重んじる考え(自発的行動)を授けました。他方で、それは、1つの選ばれた人民に仲間入りしなくてはならない人々、あるいは、そうなりたいと願っている人々で、しかも、それゆえに、1つの家族、1つの国、1つの文化、あるいは、1つの言葉を見捨ててしまったり、追い出されてしまったりしたことに関して、罪責感もなく、非難されるべき点もないのです。

 

 

 

 

 

 

 アメリカにわたることが、旧約聖書にある「出エジプト」になぞらえられる、ということ自体が、芝居がかっている、と感じませんでしょうか?しかし、当時のアメリカ移住を実行した人の多くが、自分自身の「出エジプト」を実現しようとしていたことが分かります。

 ですから、アメリカに移住することは、 過去の母国での圧政から、脱出することになります。自分の脱出が、聖書の「出エジプト」を繰り返すことになるのですから、それは神をも味方につけた心強さがあったはずです。それはまた、人から指図されるのではなく、自由意思を重んじる考え方に基づくものでした。そこに移住した人々は「選ばれた人民」となれるばかりではなくて、母国などをすてたり、母国から追い出されたりしたことに対して、罪責感もなければ、非難されるべき点もないのですから、移住先の労働は楽ではなかったでしょうけれども、晴れて自由という感じだったでしょう。

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巨大な遊び場 自主独立の人になる場

2013-09-14 04:11:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

アメリカの国を確かにする道(アイデンティティ)は、対立に和解をもたらすことから生じるというのは、実の希望に溢れています。今日は、その続きです。

 

 

 

 

 

 もちろん、新しいタイプの人間は、「自主独立の」人と呼ばれるようになりました。すなわち、1人の人の、そして、国のセルフ・イメージが、巨大で、しかも、共同の即興劇のために用意された広々とした大陸で続いている・・・その大陸は、1つの遊び場であることが分かりました。しかも、たくさんな人々にとっての遊び場です! (その遊びが結局は、ユーモアの中で反映されました。1人の人が自主独立の人であることを自慢した時、もう1人の人はその人のことを、非熟練労働者の人目に付く生産物の1つと呼びました。国会の誰かが、アンドリュー・ジョンソンを自主独立の人と呼んだとき、サディウス・スティーブンスは「私がこの言葉を喜んで聞いたのは、それがとてつもない責任のある神を安心されるからです」と言いました。)そして、実際問題、自主独立の人は、「創造主その人」と競い合っていること、少なくとも、創造主と協力していることを示す以上のものがあります。したがって、自分自身を作り、作り直す人たちは、自分の父の、母の、父祖の国々と母なる国々を暗に否定することにならないのか? 彼らのあいのこは、生まれたことに対する特別な罪悪感を自分たちの国々に課さずに済むかもしれないのか? 別の人種に生まれれば良かった、別の宗教のグループに生まれれば良かった、別の親から生まれたかった、いろんな独特のやり方で生まれればよかった・・・

 

 

 

 

 今日のところは、ちょっと不思議な感じのところです。飛躍がとても多いからでしょう。少なくとも私にはそのように感じました。

 アメリカの大陸は、多くの人が自主独立の人になるための、でっかい遊び場だった。そのことも不思議な感じがしますね。しかも、この自主独立の人は、創造主と力を合わせている、とも言いますからね。余計に不思議な感じが増します。それに、生まれてきたことに罪悪感もない。

これはメモ的に次のようにまとめておきます。

1)遊び場

2)神様と一緒

3)罪悪感もなく、自由

4)自主独立の人のなる

こうすると、これもカウンセリングの場だと分かります。

何故なんでしょうか?

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アメリカの新しいヴィジョン 対立に和解をもたらす見方

2013-09-13 03:15:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 アメリカの市民宗教では、いつも新しいヴィジョンの元で、自分自身の選び直しが行われているというのは、いつもカウンセリングを受けているようなものです。そうです。カウンセリングこそ、非日常の守られた自由な空間で、神はいなくとも、自分自身を選び直すことを行うことなのです。

 

 

 

 

 

 しかし、それでは誰が、それ(1つの民主的で、自分たちの代表を選ぶ宗教)にふさわしい新しい人であり、どこに、しい自由があるというのでしょうか?ワシントンが実験と呼んだことは、節理によって、この実験にために予約済みの大陸で、新しい国家を確かにする道(アイデンティティ)を創りだすという、最も大規模な歴史的試みとして計画されうるものです。その自分を確かにする道(アイデンティティ)は、世界中のいろんな国々やいろんな文化圏からやってきた、入植者たち、開拓者たち、何派にもわたる移民たち、それぞれの自分を確かにするいくつもの道(アイデンティティ)を素材にしているのです。建国者たち(一定の文化的で、信仰箇条に関して、その時までにまとまりをつけた人たち)のヴィジョンの力を代弁するものは、まさに、建国者たちが憲法の枠組みと文化の枠組みを創り出したことです。しかも、それが、量的にも、質的にも、予想もつかない多様性の下でさえ、新しい人がいつも期待され、1つの歴史的な脆さが幅の広い強さと認められ、預言の正しさが証明されるという基盤に基づいていたことです。もしこれが、「るつぼ」と呼ばれるようになるのであれば、そして、それが、ブクブクと泡立つほど力強い混ぜ合わせを意味するのならば、私どもは、この当世風の、とても安直な言い回しがもう1つ意味するのは、原形をとどめない程、しかも、その混ぜ合わせが、すべての人に共通する1つの未来を示す、1つの優れた混ぜ合わせになるだろうという確信もまったくないままに、まぜこぜになる危険に対する、1つの警告である、と考えるべきでしょう。古来からの自分を確かにする道(アイデンティティ)を排除する危険があることは、多大な情緒的な不確かさを、歴代の「第一世代」が我慢を強いられた信じられないくらいの困難に、もたらしました。その結果は、いつまでも続く、いつくかの民族が、内輪での民族的連帯はあるものの、その民族間で対立が生じたことです。1つの対立は、国を確かにする非凡な道(アイデンティティ)を作り上げる多くの対立の中にあります。私が数年前に記したように、国を確かにする非凡な道(アイデンティティ)は、歴史がいわば、一定の対立する可能性を浮き彫りにする方法から導き出されるのです。つまりは、国を確かにする非凡な道(アイデンティティ)は、歴史がその対立する可能性を、1つのその国ならではの文明にまで引っ張り上げる方法から出てくるものなのです

 

 

 

 

 

 国を確かにする非凡な道(アイデンティティ)も対立を生かすことから生じるというのは、面白いですね。それはちょうど、アインシュタインが、相対性理論と言う非凡な道を、普通は結びつきようもない両極端(時間と空間、粒子と波動など)を結びつけることから生じたのと、同じです。

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ヌミノース 神の御許(新しいヴィジョンの中で)で自分自身を選び直すこと

2013-09-12 03:09:28 | エリクソンの発達臨床心理

 

 自我が心の時空を秩序づけようとする働きは、実に素晴らしいものですね。しかし、その秩序づけが、最深欲求に応えるものから、そこにはなかなか至らずに日頃の心の裏取引に応じるものまで、いろいろある、ということも心に留めておいてよいだろうと思います

 

 

 

 

 

 それで、ベラーが描き出していることは、アメリカのヴィジョンのヌミノースの側面です。それは、「ゲッティスパークの演説」以上に根っこから再確認できることはありませんし、ジョージ・ワシントン以上に計画に従って再確認できることもありません。ワシントンは、この国を、「アメリカ人民の手に託された実験」と呼びました。その日以来、私どもの大統領は、きちんと選ばれ、世界に対する1つの見方を、ずっと一新させ続けています。その一新された、世界に対する1つの見方は、「ニューディール(新たな政策)」とか、「新しい最前線(ニューフロンティア)」とか、「偉大なる社会」とかの名を帯びるように最終的になりました。それによって、アメリカ人民に対して、自分たちは、自分自身の運命を前もって準備することなく作り出すために、自分自身を選び直しているのだ、と宣言してきたのです。ベラーが指摘しているのは、1つの大切な、しかし、一見矛盾していることです。つまり、「一人の人の宗教的信念、礼拝、付き合いは、まったく個人的な出来事であると考えられているけれども、アメリカ人の大多数が共有している宗教的な方向付け(好み オリエンテーション)と共通する要素も、同時に、併せ持っています。そして、実際に、旧世界から新世界までの理想的なあの使節、すなわち、トックヴィルは、市民宗教の形式的側面ばかりではなく、なじみ深い側面にも、すでに気付いていました。彼は次のように記しています。「アメリカ人たちは、新世界に、1つの民主的で、自分たちの代表を選ぶ宗教と呼ぶ以上に、うまく言い表すことができない、1つのキリスト教を携えてきたのです。」1人の本当のネイティヴ・アメリカの作家として、メルヴィルが言っています。「政治的救済者が、アメリカ合衆国にやってきた」と。

 

 

 

 

 

 

 アメリカの市民宗教というのは、実に面白いです。世俗なのに、宗教でもある。それは、いつも何度でも、世界に対する1つの見方を一新し続けている、といいます。その宗教の中にあっては、1人の人の宗教的信念などは、大多数のアメリカ人と共通するものになる、とも言います。この一見矛盾に見えることが、1つになるのが、ヌミノースの特色であり、儀式化の特色でもあります。そして、何よりも大事だと、私が考えるのは、新しいヴィジョンの中で(神の御許で、政治的救済者の元で)、自分自身を選び直すこと、です。

 今日はそのことをエリクソンは、改めて教えてくれているように思います。

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心の時空を秩序づける力 : 市民宗教~体制順応主義

2013-09-11 03:00:02 | エリクソンの発達臨床心理

 

 世界に対する1つの見方には、3つの条件があることが分かりました。しかし、それはいずれも、最深欲求という人間にとって根源的な欲求に関わるものでした。

 

 

 

 

 

 明らかにならなければならないのは、このように込み入った現象を議論する際に、私が貢献できるのは、ここで最初に申し上げた判断基準を説明することくらいだ、ということです。つまり、どのようなものでも、世界に対する1つの見方には、個人の自我が時空を秩序づけたいという、子どもの頃や青年期を通して生じる、大部分は無意識裏の欲求に、うまく訴えかける魅力がある、という証拠です。他方で、「アメリカの夢」のいくつかの主題を指摘する時に、この集団のヴィジョンが、ある種の夢を手にしているとともに、悪夢に傾きやすいある傾向もあるあり方を、強調したことは、不適当だったかもしれません。これは、この本の最初のところで引用した代表的なニュース解説者たちが問うていたように感じることです。それゆえ、その答えも、私どもがすでに生きてきた時期の視点に、あるのかもしれません。

 私は、ロバート・ベラーの「信念、象徴、儀式の組み合わせに表現され、私がアメリカ人の市民宗教と呼ぶものの、公的な宗教の次元」に関する素晴しい論文から、いくつかの初めのリードを引用しましょう。ベラーはこの言葉をルソーの『社会契約論』から借りています。そこでは、その公的な宗教的次元は、次の諸要素からできていると定義されます。すなわち、「神の存在、あの世、徳の報酬に悪徳の罰、それから、宗教的不寛容の排除」です。彼は、アメリカ大統領の就任式に集中して、次のように言います。「(大統領の就任式は、)この宗教において、大切な行事です。大統領の就任式は、他の行事の中でも、最高の政治的権威を宗教的に正当化することを再確認するものです。」

 

 

 

 

 

 この議論は、政治のことを「政(まつりごと)」と呼びならわす日本人の方が、シックリ来る義論でしょう。ベラーは、アメリカの市民宗教では、しかし、その公的な宗教の次元は、「神の存在、あの世、徳の報酬に悪徳の罰、それから、宗教的不寛容の排除」の諸要素からできていると定義されます。これは、日本の宗教とは真逆でしょう。すなわち、日本の宗教、それは、私は「体制順応主義(コンフォーミズム)」と呼んでいますが、「超越的神の不在、『この世』と隔絶した『あの世』の不在、徳は特になく、あるのは、損得の得、それから、不寛容(村八分)の徹底」でしょう。しかし、政治的リーダーが、政治的に祭り上げられるだけではなく、宗教的にも祭り上げられたいのは、日本も同じです。それは、靖国、歴史(教科書)の改ざん、軍事力の公的復活などと関連します。

 この日本の宗教も、日本人の自我が、心の時空を秩序づけたい、という無意識裏の欲求に応えようとするものであることは、間違いありません。問題なのは、それが、最深欲求に応ずるのではなくて日本人の多くが行っている、体制順応主義のまつわる、心の取引[裏取引](その表れである、様々な日常的な「裏取引」)に強烈に、無意識裏に、引っ張られていることです。

 

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