エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

新しく、大きいものは良い、とする生き方

2013-09-20 03:38:15 | エリクソンの発達臨床心理

 

 第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第4節 「国家(民族)の1つの夢」はいかがでしたでしょうか?「アメリカ人の夢(アメリカン・ドリーム)」が、それまでの民族間、宗教間の憎悪を乗り越えようとする、人類史で最も有望なヴィジョンだったのにもかかわらず、インディアンの人々と黒人を差別することを、その最初からしていた。「人間を上下2つに分けるウソ」が、いかに、ひとりびとりの無意識に深く入り込み、いかに慣性が高いか思い知らされる感じでしたね。

 今日からは、第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第5節 「『共に見る』いろんな悪夢」に入ります。

 

 

 

 

 

 アメリカ人の生き方が、その並はずれた勤勉さと温和さ、そのチームワーク、正確さ、それにマニュアル化を重んじる仕事ぶり、その独特な勇気と創意工夫した上での競争、その陽気で楽しいことと芸人魂とともに、1人の移民としてここに渡って来て、この本のあちこちで、また、以前書いた本の中で、私が記録してきた子どもたちを相手にする1人のセラピストであると同時に、子どもたちから学ぶ1研究者として、私を感心させるものでした。日常生活の儀式化が、アメリカ人の夢の将来にとって、まだまだ大事です。しかしながら、すでに仮定した対照的なテーマに加えて、私どもは「人間関係の親密さ」と「測りがたい程の大きさ」というテーマを、今や付け加えなくてはなりません。この2つのテーマは、(私どものチームでは)巨大な儀式主義に導いてきました。1つの国としての団結が進んだたけではなく、商業的・産業的な拡大に特色付けられる企業集団の発展に伴い、国内政治と市民宗教は、様々な新しい取引において、結びつき(談合)を深めました。その様々な取引は、いろんな名前の下で、国を確かにする道(国のアイデンティティ)において、基本的な要素として、“「新しいこと」と「大きいこと」は良いことだ”、とするアメリカ人の信条を、繰り返し主張しました。

 

 

 

 

 

 観光ではなくて、ホームステイなどで、アメリカ人の暮らしに実際に触れた人は、アメリカ人の暮らしぶりをちょっと想像していただきたいと思います。 そうすると、ここでエリクソンが紹介している、アメリカ人の親切で、親しみ深く、陽気で楽しい感じなど、すぐに実感できるだろうと思います。その人間らしい暮らし、ちょっとものがありすぎかもしれませんが、ウィークデイは仕事に励み、ウィークエンドはボートなどを車につないで海や湖に出かけて楽しむ生活は、実に素晴らしいと感じます。大きな家と広い庭、広い道、広い公園、商業地区のビルの1階がギャラリーとして用いるゆとり、高速道路は本当のフリーウェイ(ただ)であること、話し合う文化、人生を楽しむ文化など。食料品やガソリンなどの生活必需品が実に安いこと、など、挙げればきりがないほど。

 その暮らしには、「新しいこと」と「大きいこと」は良いことだ、とする信条があるというのも、実感できるだろうと思います。

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正義に「人間を上下2つに分けるウソ」がくっついてないか?

2013-09-19 02:57:17 | エリクソンの発達臨床心理
人類の歴史上で、最も前途有望な「アメリカ人の夢」でさえ、「人類を上下2つに分けるウソ」から自由ではなかった、というのは、「人類を上下2つに分けるウソ」が、一人一人の無意識に、いかに深く食い込んでいるかを、物語っているものと思われます。





このように、どんな政治体制でも、行き詰まることがあるものです。集団が夢見る夢の儀式的な側面が最も耳障りなものになるのは、まさに、正義と偏見が束になって、ある種の人間たちを押さえつけ、閉じ込めるのを合理化する時なのです。それがたとえ、彼らに無為な生活を強いることになっても、彼らを、奴隷部屋やインディアン特別保留地やゲットーに追いやることになっても、なのです。アメリカの市民宗教は、もちろん、リンカーンの2回目の大統領就任演説に、最高の自己評価の瞬間を見付け出しました。

市民戦争(南北戦争)によって、死、犠牲、再生、という新たなテーマが、市民宗教に加わりました。それは、リンカーンの死と再生において象徴されます。市民宗教がキッパリと始まったのは、ゲティスバーグ演説をおいて、他にありません。この演説自体が、市民宗教の聖書の中で、リンカーンの「新約聖書」の一部を為しているのです。ロバート・ローウェルが最近指摘しているところによれば、この演説で「誕生のイメージが繰り返し使われている」のは、「市民戦争での栄えある死」に貢献している、ということは、明らかです。「生まれた」、「妊娠した」、「生み出された」、「自由の新たな誕生」などなど。

このように、再生を繰り返す、というテーマが、市民戦争という国家的悪夢から、“生み出されました”。






エリクソンは、じつに冷静です。晴れてアメリカ人となった1人であるエリクソンは、「アメリカ人の夢」の価値をよくよく承知の上で、その影も鮮やかに、ハッキリと、認識していますよね。市民戦争(南北戦争)の戦死者の数は、80万人以上だったことは、アメリカの戦争史上、最悪だったはずです。ですから、エリクソンが「『再生を繰り返す』というテーマが、市民戦争という国家的悪夢から“生み出された”」という時、非常にシニカルな響きがありますよね。
私どもが注意しなくてはならないのは、いつも何度でも、正義に、「人間を上下2つに分けるウソ」がくっついてないか、ということです。
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アメリカ人の夢 光と影

2013-09-18 03:37:13 | エリクソンの発達臨床心理
アメリカ人の生き方は、特に、ヨーロッパの人々が、民族間、宗教間で、憎悪の対象としてきたものを乗り越える根本的な実験だったことは、極めて重要な事実です。今日は、そのアメリカ人の生き方を支えた、「アメリカ人の夢」がテーマです。





「アメリカ人の夢」が、このように、育んできたのは、歴史上、最も前途有望な試みです。それが政治的に抑制しようとしたのが、私どもが人類の最も危険な進化の重荷と呼んできたもの、すなわち、人類の「人類を上下2つに分けるウソ」です。しかし、この人類の好ましからざる傾向は、自分の立ち位置を「アメリカ人の夢」の様々な境い目に見つけ出しました。最初は、アメリカの独立と政治的革命の組み合わせが、独裁と奴隷を、地理的にも、歴史的にも、取り残してしまった、という強烈な感じを作り出しました。しかし、最初から、「アメリカ人の夢」は、ウソの神話的な役割をインディアンにあてがいました。インディアンの人たちは、新しく征服した「無人地帯」に、「そこにいた」のでした。さらには、黒人を差別するのは、当たり前と見なされました。黒人がアメリカの浜辺迄やって来たのは、自己決定にほかなりませんでした。インディアンの人たちと黒人にとっては、(脱出すべき)エジプトはまさに「アメリカ」でした(「私の民を(エジプトから)脱出させましょう」出エジプト記 第7章26節)。そして、もし、1つの生き方が、邪悪な意図を投影する魔女を必要とするなら、アメリカ人は、最初から、「実在の」魔女をもっていたのでした。しかも、後ほど様々な「魔女狩」もしてきたのでした。正義がまさに盲目になりがちなのはいつでも、1人の新しい、見せかけの人が、あたかも明るい前景が暗い後景を必要とするみたいに、自分より劣っている、 対になる人を必要とする時なのです。





「アメリカ人の夢」は、それまでの憎悪の対象を乗り越える、という、人類にとって、実に大事な実験でした。しかし、その実験も、「人類を上下2つに分けるウソ」から自由だったのではありません。「アメリカ人の夢」は、最初から、新たな影を持っていたのです。それは、インディアンの人々と黒人です。
私どもは、いつも何度でも、自分の影を、ハッキリ意識していたいものです。ユーモアと一緒にね!
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新世界、アメリカ人の生き方

2013-09-17 03:30:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 新大陸に渡って、男も女も、新しい倫理を創りだしていたようですね。

 今日は一歩進んで、「アメリカ人の生き方」についてです。

 

 

 

 

 それは、「生き方」と呼びうるものでした。しかも、大国に関する限り、最も控えめな言い方でした。なぜなら、次のように言わなくてはならないのですが、少なくとも、ヨーロッパから来た人にとっては、アメリカ人の生き方は、民族間、宗教間の憎悪のいろんな対象を乗り越える点で、非常に根本的な実験でした。この民族間、宗教間の憎悪のいろんな対象こそ、旧世界においては、親しいご近所同士、近しい隣国同士の間で、何度も繰り返し戦争の中で、伝統的に言葉や態度に表され、新たにされてきたのです。新世界が旧世界から独立した、最も裏付けがあり、最も世に聞こえた側面、すなわち、いかに、新しい生き方が、アメリカの建国者たちによって、体現され、代表されたのか? ということは、私はここでは長々と述べることが出来ません。彼らは「アメリカ合衆国憲法」とその中にある「権利章典」に、生命、自由、幸福の追求という必要不可欠な人権概念を取り入れたのでした。私が強調したいのは、アメリカ合衆国の政治体制を作り出した建国者たちは、彼らの計画性の中で、「チェック アンド バランス(抑制と均衡)」を確立しようとしたことぐらいです。「チェック アンド バランス」は、法律を柔軟に運用する中いろんな形で役立つのを許すだけではなく、二大政党制におけるように、大規模な、時として混乱することもある、権力の調整に現れた駆け引きをも認めることになりました。

 

 

 

 

 ここでは、新世界での、アメリカ人の生き方が、旧世界での、民族間、宗教間の憎悪の様々な対象を乗り越える根本的な実験だったことは、大事な事実です。しかし、それだけではありません。その生き方が、アメリカ合衆国憲法と権利章典に、重要な人権概念として明記されたことも、同様に重要です。しかも、その人権を現実化、体現するためには、権力を分立させた上で、チェックし、バランスをお互いに取らせることも、欠かせません!

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#新しい人 #仕事をする上での倫理と女性の役割

2013-09-16 03:46:37 | エリクソンの発達臨床心理

 アメリカ移住が、出エジプトになぞらえられ、自分の自由意思を大事にしながら、故国を捨てたことなどに対する罪責感を抱かずに、自主独立の人のなる場を得ることになったことが教えられました。

   Toys and reasons. p.153. 最後のパラグラフ。

 

 

 

 

 

 1つの文化のまさに骨組み(生地)となることが分かる日常生活の礼拝の枠組みに関して、仕事上の倫理が、あらゆる種の「新しい人」にとって、最も大事なことであることは火を見るよりも明らかです。この国において、仕事の役割を、新たな礼拝にし直すことが姿を現し、あらゆるレベルで、自分の社会的地位を上げる機会を自由に選べるすべての人は、本質的に平等であることが強調されました。子どもの頃からずっと、創意工夫のある勤勉さや陽気で楽しい自発性が磨かれました。というのも、大事なのは、物事を発展させることであり、物事を役立たせることだったからでした。歴史、地理、科学技術のすべてが、このように自発性と、ますます広がるゆとり、および、発展する繁栄と(あるいは、その両方を必ず得られると信ずる約束)を、結び付ける、1つの共通感覚(1つのことを、多くの人が共有する感じ)に報酬をもたらします。しかも、前のいくつもの世代に取って代わろうと考えると湧いてくる、どのような罪責感も、古い世代の人々から離れ、独立し、(それに加えて、古い世代の人々が熱心の奨励してくれた)新たしい領土、新たな分野に進んでいくチャンスによって、ずっと緩和されているように思われます。大海を越えて、ここにやってくることに加えて、西へと移住しようとする動きが出てきました。このように、人生を自分自身で切り開いていく生き方は、それにふさわしい(新しい)タイプの人に栄光を与えます。そのタイプの人は、広がるチャンスを無慈悲に掴み取ることができる人であり、そうであるがゆえに数あるチャンスにそれほど傾かなかったり、あまり恵まれなかったりする人に対しては、無視したり利用したりすることも、当たり前の権利として認める人でもありました。もちろん、今日、女性の役割に驚嘆せずに、建国者たちの時代のことを教えてくれる本や絵を思い出したり、思い浮かべたりすることはできません。女性たちは、自分に宛がわれた立場が、男を補い、男を飾るものであることを受け容れることができただけではなく、家庭や学校や地域社会で、命を与える者、価値を伝える者としてのエネルギーをその立場のために、いかに用いることもできたか、にも驚嘆せずにはいられません。

 

 

 

 

 自主独立の人は、チャンスを大胆に掴み取ることができる人ですし、チャンスにあまり心を傾けなかったり、恵まれない人を無視したり、利用したりする際に罪責感を感じない人でした。自主独立の人は、そのようにして自分の人生を切り開いていくのです。女性は、お飾りとしての役割だけではなくて、命と価値の源としての役割に精力をつぎ込んでいったのでした。

 男も女も新しい倫理を生み出した、と言えそうです。

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