ふと「もだしがたし」という言葉が頭に浮かびました。
どういう字を書いたのだったろうと思いましたが、外を歩いているときだったので、調べようがありません。家に帰ったら早速……と思ったものの、最近は気になる言葉や事柄があって、帰ったら調べようと思っていながら、家に帰るころには忘れてしまっている、ということが多いのです。
「もだしがたし」が出てきたのは三日前のことでした。幸いその日は忘れることなく、家に帰って辞書を引いてみました。
漢字を混じえて書けば、「黙し難し」とありました。我慢できない、あるいはじっとしていられないという意味だと理解しておりましたが、「黙」と字を当てるのですから、辞書に記された第一義は黙っていられない、という意味です。
ははぁ、そういうことだったのか、と思ったのは、先々週、手賀沼畔の將門神社を訪ねたとき、辨榮(べんねい)聖者という方の墓所のすぐ近くを通りながら、聖者が醫王寺というお寺のある、柏市鷲野谷の集落で生まれ、そこにお墓もある、ということを知らなかったので、みすみす通り過ぎてしまっていた、ということでした。
それだけだったら、とくにどうということはなかったのかもしれませんが、その五日後に天王台まで行って、帰りは南柏で降りて歩いて帰ったとき、偶然行念寺というお寺の前を通りかかりました。
境内に寺の歴史を記した石盤があり、開基は室町期の經譽愚底(きょうよ・ぐてい)上人という人で、私がときどき足を運ぶ北小金の東漸寺、常行院(これも北小金にあります)、そして鷲野谷(わしのや)・醫王寺の開基でもあると記されていました。
醫王寺にはそのうち行ってみようと思っていましたが、この石盤に出会ったときから、「そのうち」ではなく、できるだけ早く行かなければならぬ、という気になったのでした。ところが、台風がきたりして、「もだしがたい」日々を送っていたわけです。
その台風がムニャムニャと消えた昨日、まだスッキリしない天気でしたが、行くことにしました。
前回と同じように、我孫子駅から手賀沼を渡るまではバスに乗ることにしました。結構本数の多い路線なのですが、この日はあいにく三十分近く待たなければなりませんでした。
次のバスを待つ間、我孫子駅前をそぞろ歩きました。彼方に鴟尾(しび)をつけた屋根が見えたので、立ち寄ると、興陽寺という曹洞宗のお寺でした。
松戸周辺には真言宗豊山派と日蓮宗の寺院が多く、我が宗旨のお寺はあまり見かけぬと思っていましたが、結構あるものです。
室町時代末期の草創と伝えられています。本堂(上)と本堂手前にある薬師堂。
駅前に戻ってバスに乗り、先だってと同じくスポーツ広場前というバス停で降りました。周辺は近鉄が開発した手賀の杜ニュータウンという分譲地です。
分譲地を右手に見ながら坂を上って行くと、將門神社の案内標識があるところまではあっという間、という感じでありました。
前回は道がわからなかったので、バスを降りてからここに到るまで「し」の字をひっくり返した形で描きながら、延々と遠廻りをして、悠に一時間以上を要しましたが、要領を得た今回はわずか八分という近さです。
前回は廻り道をしているとわかっていたものの、散々歩かされたあとだったので、將門神社のある集落は世の喧噪から程遠い、幽玄の地(交通不便な地)と感じて、「猫町」と名づけたのですが、これだけ近いと「幽玄」というイメージは少し遠退いてしまいそうです。
しかし、この日の目的地はもう少し先にある隣の集落なので、猫町は帰りに寄ることにします。
昨日の手賀沼南岸上空。
陽射しは出ませんでしたが、ところどころに青空が見えました。ところが、夕方には小雨ながら雨になってしまいました。
途中の善龍寺(?)にいた野良殿。
猫町の猫、といいたいところですが、ここは猫町(岩井)の隣・鷲野谷の集落です。
ミオを置くとスルスルと近寄ってきましたが、不審そうに私を眺めるだけで食べようとしません。そうかといって、立ち去るわけでもない。たまたまお昼を食べたばかりだったのかもしれません。
ここはお寺らしき建物があると思って前回も覗いています。地図からすると善龍寺でしかないのですが、(?)をつけたのは門前に表示はなく、扁額にも山号(なんとか山としか読めません)が掲げてあるだけで、お寺の名の書かれたものがどこにもないのです。本堂(であろう建物)がポツンと建っているだけで、庫裡もなく、無住です。
猫町の入口から徒歩十分。善龍寺(?)から数分。目的の醫王寺に着きました。
先の經譽愚底上人が寛正二年(1461年)に開いたお寺です。まだ東漸寺はできていないころで、小金に住する前に、この地にきておられたのです。
扉が少しだけ開いていて、灯明に浮かんでいる本尊の阿弥陀如来が見えましたが、人の気配はありませんでした。
ここに向かってくるとき、参道の落ち葉でも掃いている住職がおられたなら、辨榮さんのお墓参りにきたと声をかけ、ついでに関連する話でも聞けたら、と思っていましたが、四方山話をするために庫裡を訪ねるのは気が引けました。
まあまあ、私は辨榮さんのお墓に手を合わせることができればいいのですから、と思って墓所を探すことにしました。
本堂の右手、一段高いところにあった薬師堂です。
本尊は薬師如来坐像。胎内から「長禄二戊寅(1458年)十一月吉日大仏師春慶」と墨で書かれた銘文が見つかっているそうです。
文献は遺っていませんが、この地は薬師如来が不可思議な記を顕わす地だと信じられていたようです。
同じように信じられている場所に愛知県の鳳来寺山があります。こちらは徳川広忠と於大の方が参籠して願をかけ、身ごもったのがのちの家康だといわれていますが、鷲野谷ではどのような瑞兆があったのか、いまでは知るすべがありません。
しかし、薬師堂はその名を全国に知られていたようで、江戸時代には遠路はるばる参詣にくる人も多く、門前には数軒の旅籠があったそうですが、いまはその名残は何もありません。
大体、バスを降りてから醫王寺に着くまで、野良仕事をしている人の姿を遠くに二、三人見かけただけで、集落に入ってからは誰一人として人を見かけていない。見たのは善龍寺(?)の猫殿と私が通りかかったのを訝って、バフッとひと声吠えた飼い犬殿だけでした。
薬師堂前に建つ辨榮聖者の顕彰碑。六十回忌(昭和五十四年)を記念して建てられたと碑文に刻まれています。
「→辨榮聖人のお墓」と彫られた石碑。
薬師堂の入口にありましたが、これだけではお墓がどこにあるのかよくわかりません。キョロキョロしながら薬師堂と入口の間を三度も往復してしまいました。まさか顕彰碑が墓なのではあるまいなと思って裏を覗いたりもしました。
薬師堂の裏を覗いてみると、林の中に細く薄暗い径があって、突き当たりに祠があり、その彼方遠くに墓石らしきものがあるのが見えました。径はところどころ苔むしていて、うっかりすると前夜の雨で足をとられてしまいそうです。
林を抜け出ると、そこは確かに墓所でした。かなりの広さです。
目を透かしてあたりを見渡し、ともかく古そうな墓石を捜しましたが、あまたの墓が乱立しているように見えるのみで、見つけられません。
やはり庫裡を訪ねてみなければならぬか、と引き揚げかけたとき、墓地の端っこに薬師堂の入口にあったのと同じ碑がありました。
そこまで行って見回すと、僧侶だった人の墓であることを示す卵塔(らんとう)が目に入りました。立ち並ぶ墓石の中ではいかにも古そうです。
腰を屈めて近づいてみると、竿(卵形の下の四角い部分)には「佛陀禪那辨榮上人」と彫られているのが読めました。画像の解像度が悪いこのブログに取り込むと読めなくなってしまいますが、我がカメラはピントもちゃんときていて、はっきりととらえているのです。
とうとうやって参りましたぞ、という感じがしました。しばらく目を閉じて手を合わせると、なんか爽やかな気持ちになれました。
墓所は掃除が行き届いていましたが、供花もなく、線香を手向けた跡もありませんでした。私も供花も線香も持ち合わせていません。野の花でも……と思ってあたりを見回しましたが、あるのは草だけでした。
こういうところにくるときは、まさか花を持って歩くわけにも行くまいが、ミオだけでなく、お線香の一束を鞄の中に忍ばせておくべきであると学習しました。
このあと一面の畑の間を抜け、將門神社のある猫町を通って手賀沼に出ることにしました。
猫町の將門神社鳥居と龍光院山門。下は龍光院本堂。
前にきたとき、山間の温泉場にでもあるようなバスの待合所を思い起こさせた野菜の集荷場です。相変わらず人の姿も猫殿も見かけません。
今回は本題ではなかったので、將門神社参拝は簡便に済ませました。
猫町から手賀沼へ下る道です。
両側は屋敷森。道は舗装され、拡幅されたかもしれませんが、道筋そのものは恐らく昔から変わっていないのでしょう。このままずっと森がつづいて、下り切ったところに一軒の家があるまで人家はありません。
手賀沼沿いの遊歩道を歩き、また道の駅・しょうなんまで行って、ヴィアッジオというレストランでコーヒーを飲んでひと休み。
道の駅・しょうなん前の手賀沼には白鳥がおりました。
メドべージェフはどうも気に食わんといって、シベリアから渡ってきたのにしては、季節的に少し早いのではないかと首を傾げたら、どうやら人の手で留鳥にされているようです。私が近づくと、餌をもらえるのかと近づいてくるあたり、人に慣れています。
このあと、北柏の駅に向かって、延々5キロを一時間で踏破しました。途中で雨が降り出したので、のらりくらりと歩いていられなかったのです。
→昨日歩いたところ。
昨日の日本シリーズ第2戦。ドラゴンズは大勝。溜飲を下げました。
今日、ブログを開設して777日目を迎えました。とくに意味はありません。ネット上の知人が少し前に777日目を迎えたとブログに書いていたので、私ももうじきだと思いながら、もし当日ブログに書くようなことがなければ、777日目のことだけ書こうと思っていたところ、たまたま書くことがあった、というだけのことです。