一昨日、薬師詣でをして帰ってきたら、聞き憶えのない会社名で留守電が入っていました。
明日面接、といっているので、ストックしてある求人票を見たら、確かに履歴書を送っていましたが、もう三週間近く前のことでした。備考欄をよくよく見ると、書類選考期間は二週間と書いてありました。
手許には数え切れないほど(と、までいうのはオーバーですが)のハローワークの求人票があるので、どんな会社に、いつ履歴書を送ったのか、な~んてまるっきり憶えていません。
大体若いころの職探しと違って、骨をうずめる、などと考えているわけもないので、執心が薄い。
不思議なものです。
やる気満々だった求職活動初期のころは、履歴書を送れど送れど、歯牙にもかけられぬ、という空振り三振ばかり。
あまりのことに、職探しは諦めて、雀の涙ほどの年金と、ひょっとしたら依頼があるかもしれぬシルバー人材センターからの臨時の仕事に一縷の望みを託して生きて行くべく、生活を事業仕分けして、厳しく見直そうと思い始めた矢先に、「乞うご来社」という連絡が立てつづけに入るようになったのです。
ところが、私の気分はすでに隠居モードに入ってしまったあとで、すわ、と思えど、モードは簡単には切り替わらない。
仕事が見つかるのに越したことはないのですが、気に懸かるのは前回の面接でも訊かれた健康のことでした。
「ちょっと悪い」と答えれば、「どこが?」と突っ込まれるだろうから、自分では明るい顔をつくったつもりで、「万事良好」と答えるのですが、前向きな嘘ではあっても、嘘が度重なると少し後ろめたい気分になってきます。そういう心のせめぎ合いは一応押し殺すことにして、まだラッシュアワーの余韻の残る電車に乗って面接先へと向かいました。
面接先は茅場町だったので、終わったあとは深川を歩くことに決めていました。
一昨年の四月、深川を歩いたことがありますが、首尾上々とはいかなかったので、再度訪ねるつもりでした。それが、仕事が忙しかったり、病気をしたりで、いつの間にか二年も経ってしまいました。
久しぶりに渡る永代橋と我が母なる隅田川です。隅田川を見ると、つい東京に帰りたい、と思ってしまいます。
永代橋東詰でもう桜が咲いている! と思ったら大寒桜でした。
深川寺巡りの最初は法乗院閻魔堂です。清澄通りと葛西橋通りの交差点にあります。真言宗豊山派の寺院。
寛永六年(1629年)、富吉町(現在の江東区永代一丁目と佐賀一丁目あたり)に創建されたのが始まり。
閻魔像そのものは戦災で焼けて、現在の像は平成元年に再建されたもの。高さは3・5メートルもあって、ハイテク閻魔と呼ばれているそうな。
どこがハイテクかというと、お賽銭を入れると、照明が灯り、スポットライトが回って、四十種類あるというありがたいお言葉が流れてくるのだそうです。賽銭箱は願いの筋により、入れる場所が違っていて、二十近くもあるらしい。
どーれ、と思ったのですが、 残念ながら御開帳は一日と十六日でした。
閻魔堂の北隣には浄土宗の心行寺。
元和二年(1616年)、八丁堀に創建。寛永十年(1633年)に現在地に移転。岩国藩主で、錦帯橋を架けた人として名高い吉川広嘉の正室・養源院が開基。深川七福神の一つ・福禄寿が祀られています。
江戸深川資料館入口までしばらく清澄通りを北上します。
閻魔堂から二本目の路地を入ったところにあったお寺です。画像は本堂ではなく、檀徒用の会館ですが、これがお寺かと思えば、かなりアヴァンギャルドです。我が宗派・曹洞宗の増林寺。
清澄通りにはこんなレトロな建物も遺っています。この建物の後ろは清澄庭園。庭園に沿って200メートルほど、ほとんどは建て替えられていますが、こういう様式を守った建物がつづいています。
深川江戸資料館手前に、常夜燈に縄暖簾という粋な造作が見えました。巾着とか風呂敷を売る小間物屋ふう土産物店かと思ったら、答えは公衆トイレ。
浄土宗霊巖寺。関東十八檀林の一つ。松平定信廟があることで著名な寺院です。
寛永元年(1624年)、霊巖雄譽上人が隅田川河口を埋め立てて(霊岸島)築いたのが草創です。明暦の大火(1657年)後、現在地へ移転。このあたりの地名を白河というのは松平定信が白河藩主であったからです。
霊巖寺の地蔵菩薩。像の高さは2・73メートル。江戸六地蔵の一つとして享保二年(1717年)ごろに建立されました。このあと訪れる永代寺にも六地蔵の一つがありましたが、消滅してしまったため、現在都内に遺されているのは五体です。
霊巖寺前にある正覺院の本堂。
寛永六年(1629年)、霊巖寺開山の霊巖上人が霊巖寺の塔頭寺院として開山。明暦の大火後、霊巖寺とともに当地へ移転しました。寺域が狭いので、カメラを引くことができません。
かつては霊巖寺の参道であったのであろう道を挟んで、正覺院と向かい合わせに長専院出世不動。右手に長専院の本堂がありますが、関東大震災までは別々のお寺だったそうです。
深川江戸資料館。初めて入ったときからすでに十三年。前回きたときも通過、今回も通過。
深川江戸資料館前にある深川飯の深川宿。
ちょうど昼時でありましたが、深川を歩くのに備えて握り飯を用意していました。前にきたときは昼飯前でありましたが、まだ昼時ではなかった。
結局、私とは縁がないのか、いまに到るも深川飯を口にしていません。
江戸前の漁師が考案した味と御上とはそぐわないような気もしますが、深川飯は農水省が「郷土料理100選」に選定しています。
もう一つ……。素人の私がつくるものとは大違い、なのは当然でありましょうが、要は浅蜊(アサリ)の味噌汁のぶっかけ飯です。その丼に漬物、吸い物、甘味をプラスしただけで、2000円近い値段というのは、観光地価格だからでしょうか。食べもしない者が文句をつける筋合いではないが……。
深川江戸資料館近くの歩道にはさまざまな絵タイルが埋め込まれていました。なにゆえに桔梗の花なのかはわかりませんが、うれしかったのでカメラに……。
済生院雙樹寺。浄土宗の寺院。詳細は未詳です。
攝心院(上)と潮江院(下)。道を挟んで向き合っています。ともに浄土宗の寺院ですが、画像上の潮江院が元は霊巖寺の塔頭であったということ以外、こちらも詳細は未詳。
前回の深川訪問で目的の一つと定めながら、歩いているうちに遠ざかってしまったので、寄ることがなかった雲光院です。
雲光院とは徳川家康の側室であった阿茶局こと須和(1555年-1637年)の法名です。
二十五歳のとき、家康の側室となりました。子をなさなかったのにもかかわらず、家康の信頼が篤く、戦場にも出向いているほどです。大坂冬の陣では本多忠純とともに和議の交渉に当たり、豊臣秀頼母子から誓紙をとるという活躍をしています。
家康の没後、側室は全員落飾しましたが、阿茶だけは家康の遺命があって、髪を下ろすことが許されなかったそうです。
秀忠の娘・和子が入内するときは母親代わりとして上洛。後水尾天皇から従一位の位を賜り、神尾一位、あるいは一位の尼と呼ばれるようになりました。神尾とは家康の側室となる前、神尾孫兵衛(死別)と結婚していたことがあるからです。
阿茶局の墓です。
墓石の古さだけでなく、独特の形をしているので、すぐ見つけることができました。
春日局より二十四歳も年上ですが、死んだのは六年早いだけです。お参りしながら、ふと二人の仲はどうだったのだろうかと思いました。
このあと、深川訪問の第一の目的である矢部駿河守定謙の墓(淨心寺)を訪ねます。〈つづく〉