毎月八日は薬師詣での日と決めて、薬師如来が祀られている堂宇を捜して詣でることに決めていますが、今月は「瓢箪から駒」のようなことがあって、薬師如来の縁日らしい縁日に初めて出会うことができました。
場所は東京・芝愛宕にある真福寺。真言宗智山派のお寺です。
落語の三題噺のようになりますが、きっかけをつくってくださったのは、私がブログをブックマークをしている丸山劫外師です。
七月……せっかく涼しい日々があったというのに、季節外れの涼しさに祟られたものか、なんとなく調子の悪い日々を過ごしていました。
パソコンに向かうことも稀で、自分のブログを更新することはもちろん、人様のブログを訪問するのも間遠になっていました。そういうときに、たまたま丸山師のブログを訪問して、師が曹洞宗宗務庁出版部から「中国禅僧祖師伝」という著書を出されたのを知りました。
早速購入、と思ったのですが、書店には並ばず、郵送してもらうか、宗務庁へ出向かないと手に入らないという本でした。
曹洞宗の宗務庁出版部は港区の芝にあります。
東京に住んでいたころと違って、千葉県民となったいまは、芝というのはちょっと遠い感じがして、ほかの用事であれば二の足を踏むところでしたが、ふと思い出すことがあったので、宗務庁へ出向くことにしました。
芝と聞くと、私はなぜか真っ先に増上寺を思い浮かべます。人によっては増上寺なんかより東京タワーであり、プリンスホテルであり、あるいはまたリンリンランランの留園なのですが、私は浄土教の信徒でもないのに増上寺なのです。
増上寺では毎週日曜に「日曜大殿説教」というお説教があります。大殿というのは増上寺の本堂のことです。
もう二十年以上も前のことになります。
品川区内にある浄土宗のお寺の住職だった某師にお話を伺う機会を得ました。どんなことであったか、内容はすっかり忘れています。
私が面識を得た直後、その某師は増上寺の教務部長に就任されました。教務部長の仕事の一つに、増上寺の山門(三解脱門)前に「今月の言葉」を掲げるという仕事があります。
教務部長に就任されたと聞いて、
「どんな言葉を選ばれるか、一度見に行きます」
と電話をすると、
「どうせなら日曜日においでになりませんか。日曜大殿説教がありますので……」
というお誘いを受けました。
そんなやりとりをしながら、忙しさにかまけて行くこと叶わず、いつの間にか二十年以上が経ってしまったというわけです。
ふとしたことでもご縁はご縁。すでに職は退かれているだろうけれども、日曜大殿説教を聴きがてら、宗務庁へ、と思いました。その後、説教があるのは日曜日なので、曹洞宗の宗務庁出版部は休み、ということに気づくのですが……。
で、今月八日は何曜日であろうか、というと-月曜日です。宗務庁は開いていますが、増上寺の催しはありません。どちらが大切か、などと比較すべきものではありませんが、増上寺は参詣するだけにして、霞が関へ向かいました。
芝にある宗務庁を訪ねるのに、なぜ程遠い霞が関なぞへ向かったのかというと、八日は薬師如来の縁日です。薬師如来をお祀りする真福寺に参詣して行くことにしたのです。
地図を見ると、真福寺は愛宕神社のすぐ近くです。
まだお寺巡りに感心を持たなかった若きころ、まして薬師詣でなど思いも及ばぬころ、虎ノ門から愛宕神社にかけての一帯は仕事でしばしば歩いています。愛宕神社には行きませんでしたが、NHKの放送博物館があることと、曲垣平九郎が馬で駆け上ったという石段があることは思い当たりますが、お寺があった、という記憶はありません。行ってみると、お寺は八階建てのビルとなっていました。
慶長十年(1605年)、徳川家康より愛宕下に一三六〇坪の土地を賜り、照海上人によって開創されました。真言宗智山派の総本山・京都智積院の東京別院でもあります。
石段を上り詰めると、法要があることを示す五色幕がかけられていました。
本尊の薬師如来と日光・月光両菩薩です。
堂内は暗かったので、我がデジカメでは上手く撮せません。真福寺のホームページから拝借しました。
門前にあった掲示板には。今月(八月)のご縁日は「八日(月)でございます」と張り出されています。
薬師如来の縁日は八日、ということを、どこで知ったのか、すでに憶えがありません。憶えがありませんが、今年一年間、毎月八日に薬師如来をお祀りしているお寺やお堂を捜して参詣をつづけてきました。ところが、今年一月八日を皮切りに先月八日まで計七回、お寺や薬師堂を巡りましたが、法要というものに出会ったことがありません。もしかしたら、縁日は別の日なのに、勘違いをしてお参りをしてきたのではないか、と首を傾げたこともありましたが、初めて裏づけを得たような気になって、なんとなくホッとしました。
参拝を終えて、愛宕神社へ上ってみることにしました。真福寺のすぐ横に坂道の参道がありますが、愛宕神社に参るといえば、曲垣平九郎が馬で駆け上がった出世の石段を上らなければならないでしょう。
参道入口を通り越して少し歩くと、やや奥まったところにその石段がありました。
真下へ行くと、仰ぎ見るような急傾斜で、八十六段もあるそうです。段数はさておくとしても、この急角度では、高所恐怖症を持つ私にはとても上れそうもありません。
近隣の散歩でたまに渡ることのある常磐線の跨線橋(段数は四十五、六段)ですら、ちょっと風の強い日だと身のすくむ思いのすることがあるのです。その倍近くあるのですから、とても上り下りすることなどできません。
すごすごと引き返し、先に見た坂道の参道にとりついて、山を半周する形で頂上に上りました。愛宕山の標高は25・7メートル。
愛宕神社は頂上にありました。徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られた神社です。後年、水戸浪士が井伊直弼を討つ桜田門外の変の前に集結した場所であり、また勝海舟と西郷隆盛が山から江戸の町を見渡し、江戸の町を戦火で焼失させてしまうのは忍びないといって、江戸城の無血開城へ進んだという場所でもあります。
イギリス人写真家・フェリーチェ・ベアトが愛宕山から撮った写真が遺されていますが、高いビルのなかった当時は見晴らしがよかったのでしょう。築地の本願寺やお台場なども映っています。
讃岐丸亀藩士・曲垣平九郎の顔ハメ看板がありました。
もう一つありました。西郷隆盛と勝海舟です。
奥に小さな滝があるようですが、見えませんでした。すぐそばに平將門の乱の折、源経基がここ(児盤水とも小判水とも)で水垢離をし、愛宕の神の加護によって乱を鎮めたと言われる伝説の池、という説明板が建てられていました。
さて……上りは尻尾を巻いてしまった石段ですが、下りはいかに? と覗いてみると……。
急峻です。やっぱり下りられそうもない。
NHK放送博物館。
帰りも女坂を下って、宗務庁と増上寺を目指します。〈つづく〉