桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2011年八月の薬師詣で・港区(2)

2011年08月09日 21時04分08秒 | 薬師詣で

 私がブックマークをさせていただいている丸山劫外師が「中国禅僧祖史伝」という著書を出版されたので、曹洞宗の宗務庁へ買いに行くついでに、寺巡りをつづけて行きます。宗務庁は芝公園近くにあります。



 曹洞宗伝叟院。大本山総持寺の東京出張所です。愛宕トンネルの東口にあります。



 曹洞宗青松寺です。道路を隔てて撮影。江戸時代は總泉寺、泉岳寺と並んで江戸府内の曹洞宗寺院を司った江戸三箇寺の一とされていました。
 文明八年(1476年)、太田道灌が現在の麹町に創建。江戸城の拡張に際して現在地に移転。
 境内には幾多の人材を輩出した「獅子窟学寮」がありましたが、明治九年、赤穂四十七士の墓がある高輪の泉岳寺学寮、駒込の吉祥寺学寮と統合され、今日の駒澤大学へと発展しました。
 こんなお寺があるとは知らず、道路の反対側に港区役所が見えたので、観光パンフレットのたぐいでも手に入れんものと道路を渡ってしまったあとに気づいたのです。
 近場に横断歩道はなく、センターラインにはとても飛び越せないような柵があったので、帰りは向こう側を通って参拝して行こうと考えたのですが、この日の東京の最高気温は33・2度という猛暑でした……帰るときには、寄ろうと思ったことをすっかり失念しておりました。



 かつての増上寺境内に遺る有章院(七代将軍・徳川家継)霊廟の二天門です。両側に立つのは金剛力士ではなく、左に広目天、右に多聞天(毘沙門天)の二天です。



 曹洞宗宗務庁出版部に着きました。



 無事「中国禅僧祖師伝」を入手しました。



 帰りは増上寺に寄って行きます。
 増上寺の入口に当たる旧大門です。
 慶長三年(1598年)、江戸城内にあった増上寺を芝に移転させる際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、寺の表門として徳川家康から譲られたものでした。
 大正十二年の関東大震災に遭って倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されたのですが、昭和二十年の空襲で焼失してしまいました。

 この門のあるあたりの地名を大門といい、都営地下鉄の大門駅がありますが、その由来になっている門です。現在の門は国道の通行整備のため、昭和十二年(1937年)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものです。



 三解脱門。三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。いまは増上寺の表門のようになっていますが、実際は中門です。
 増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり、東日本最大級を誇る門です。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和八年(1622年)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。



 三解脱
門前に掲げられた今月のことばです。




 三解脱門の左側、寺務所や浄土宗の宗務庁などがある区域の入口・旧方丈門(黒門)です。慶安年間(1648年-52年)の建立。



 鐘楼。高さ1丈(約3メートル)、重さ四千貫(約15トン)。
 最初の鐘楼堂は寛永十年(1633年)に建立されましたが、現在の鐘楼堂は戦後の再建によるものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673年)にあまりの大きさに、七回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級といわれております)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。朝と夕べに撞くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもあるといわれています。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」などと謳われ、江戸っ子鐘と親しまれていました。



 大殿と呼ばれる本堂です。前面の石段は二十五段。後ろにそびえるのは東京タワー。
 大殿右後ろに徳川家霊廟があります。徳川将軍十五代のうち、家康、家光、慶喜(谷中墓地)の三人を除く十二人は増上寺と寛永寺に六人ずつ葬られています。
 増上寺に墓所があるのは、二代秀忠、六代(家宣)、七代(家継)、九代(家重)、十二代(家慶)、十四代(家茂)と地味な人ばかり。

この日、歩いたところ。