今月の薬師詣では東京・本郷を歩きました。目的地は本郷薬師堂と真言宗豊山派・三念寺です。
出かける前、地元の慶林寺に参拝して行きます。
参道入口の河津桜はそろそろ満開です。
千代田線で行くと、最初に目指す本郷薬師堂の最寄り駅は湯島なのですが、寄って行きたいお寺があったので、湯島の一つ前・根津で降りました。
根津駅から本郷へは弥生坂を上ります。上り切ると、通りの左側に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の記念碑があります。このあたりで縄文式土器とは異なる土器が発掘されたのは、明治十七年(1884年)のこと。しかし「ここ!」ではなく、「このあたり」というのがミソ。
「はやぶさ2」が3億キロという途方もない距離を、四年四か月もかけてたどり着いた小惑星・リュウグウに、ピンポイントで着陸するという離れ業を演じてくれる時代だというのに、土器が発掘された場所は「このあたり」と認められるだけで、いまだに「ここだ!」と特定できないのだそうです。
言問通りが本郷通りと交わる交差点が本郷弥生交差点。最初の目的地が近づいています。今日、最初に訪れるのは曹洞宗喜福寺。目印は東大前にある本郷郵便局です。
出かける前に見ておいた地図では、郵便局の手前を右折するのか、通り過ぎてから右折するのか、ハッキリしませんでした。ここで初めてタブレットを出して、位置情報を見てみました。現在位置を示す青丸はありますが、地図は真っ白で、青丸がどこにあるのか、まったくわかりません。インターネット接続に障害があるようです。閉じて、バッグからプリントしておいたヤフーの地図を出しました。
スマートフォンを持つようになって以来、携帯しないようになっていた、プリントした地図です。こんなこと(通信障害)もあろうかと準備をしていたのではありません。前夜、なんとなく閃くものがあって、プリントする気になったのです。
ところが、好天の強い陽射しが災いして、大きな道路を除くと、道がどこにあるのかよくわかりません。
地図は透明ファイルに入れてあるので、取り出せばもう少しよく見えるのかもしれませんが、この日はあいにく結構強い北風。取り出すと、パタパタと煽られてしまって、見るどころではないのです。
方角は間違っていないので、おもむろに歩き出すと狭い路地があり、覗き込んでみると、なんとなくお寺……という雰囲気があったので、さまよいこんでみたら、墓所があり、まさにお寺で、曹洞宗喜福寺でした。裏口から入ることになりました。
祥雲寺七世の國傳韓達大和尚(寛永十六年・1639年寂)が開山とされていますが、創建の年代を記したものはありません。
祥雲寺は現在は池袋の立教大学近くにありますが、当時は小石川戸崎町(現在の小石川三丁目~四丁目あたり)にありました。
本堂に参拝したあと、曹洞宗のお寺であれば、歴住の墓所に参拝してお線香をあげるのを常としているのですが、ここではこんな標示があったので、参拝しないことにしました。当日でも案内を乞えばOKという標示がありますが、面倒くさがり虫が顔を覗かせました。
この日は、薬師詣での目的地以外に訪ねる寺院は同じ曹洞宗の長泉寺だけと決め、アバウトな方向を定めて、適当に歩いていたら、幸いなことに、電柱に「→長泉寺」という案内があったので、端折らずに済みました。
長泉寺。開山は先に訪れた喜福寺と同じ國僧幹遠大和尚。永禄三年(1560年)の創建。創建の地は小石川金杉、寛永十三年(1636年)、現在地に移転したと伝えられています。
先の喜福寺のような「お断わり」はなかったので、墓所に入らせてもらい、歴住の卵塔を捜して参拝しました。
長泉寺には横からお邪魔する形になったので、山門の撮影は最後になりました。
山門前の石段を降りて行くと、降り切ったところが菊坂です。近くには樋口一葉旧居跡、宮沢賢治旧居跡などがあります。しかし、そのことを知ったのは帰ってきてから。スマートフォンがサクサクと動いてくれれば、行っていただろうと思います。
菊坂はこの画像の右・本郷通りに向かって緩やかに上って行く坂です。年度末が近いので、そこらじゅうで地面を掘り返しています。
次は今日本来の目的地・本郷薬師堂です。
ここは八年前の六月と五年前の一月に訪れていますが、いずれも薬師如来の縁日とは関係のない日だったので、薬師詣ででお参りするのは初めて、ということになります。
本郷通りに面して、扁額と赤い提灯に飾られた薬師門があります。この道は100メートルほどで行き止まり。
行き止まりの手前、道が細くなるところに薬師堂があります。このあたりは真光寺(戦災に遭って世田谷に移転)の境内跡です。伝えによれば、薬師堂が建立されたのは寛文十年(1670年)。
かつてこの薬師の縁日は大層な賑わいだったようで、「新撰東京名所図会」には「本郷夜市は著名なり。連夜商人露店を張る。毎月八日・十二日・二十二日は薬師の縁日なり。縁日の夜は、殊に雑踏を極むるなり……」と記されています。
文京区教育委員会による掲示にも、「本郷薬師の縁日の夜は、植木・雑貨・骨董などの店が並び、飲食店もでて大へん賑やかであった。牛込神楽坂の毘沙門縁日と共に大変有名であった。御堂は戦災で焼失したが、昭和二十二年に改築され、さらに昭和五十三年に新築された」とありました。
樋口一葉は「一葉日記」明治二十四年十月八日の項に「日暮れて後、母君と共に薬師に参詣す」と記しています。
薬師堂前から鉤型に曲がって、50メートルほど進むと、十一面観音菩薩像があります。これも真光寺にあったものです。
十一面観音像から小路を抜けて春日通りに出ると、櫻木神社があります。八年前、本郷薬師堂に参拝したあとで訪れています。
櫻木という名の神社は千葉県野田市にもあります。あまり耳にはしない社名ですから、本社と支社のような関係かとも思いましたが、祭神はかなたが倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の四神であるのに対し、こなたは菅原道真ですから、まったく関係がありません。
本郷三丁目の交差点を左に見ながら、春日通りを横切り、本郷通りから一本西寄りの路地に入ります。
にわかにすべてを思い出すことはできませんが、雑誌編集者だった約四十年前から三十年前(年代は正確ではありません)にかけて、このあたりをよく歩いていました。
散策ではありません。周辺には医療機器メーカー、医学系出版社、個人クリニック等々が多いので、医療関係の執筆者、インタビューするのに適当な人等々を訪ねて歩いていたのです。
東京メトロの本郷三丁目駅。
私が利用していたころの呼称は東京メトロではなく、営団地下鉄です。趣きはすっかり変わっていますが、この奥へ進んで行くと、本郷通りに抜けられるという構造は変わっていないようです。
通り抜けて行く路地の左手にあった喫茶店は、人と待ち合わせをしたり、取材をしたりするのによく利用させてもらったものでした。ここを通り過ぎるときは思い出さず、庵に帰ってから思い出したので、その喫茶店が健在かどうかはわかりません。
歩いてきた路地は春日通りから300メートルほどで壱岐坂通りに行き当たります。プリントした地図では、通りの向こうに三念寺があるはずですが、寺らしき建物が見えません。もう一本先の細い小路に入ると、本郷給水所公苑と向かい合わせになったところにありました。
「東京名所図会」には「文明年中一人の修行者あり、一宇の草堂を結び、遍照院と號す、本尊は慈覺大師の真作なり、大日如来安置し恭敬す、爰に當院の薬師如来は往古恵心僧都母公病気の為に彫刻し給ふ霊像なり、上足の弟子慶裕阿闍梨此尊像を奉事す年月漸く轉じ、遠州鳳来寺にうつり、慶長年中武蔵安静の時武家某氏尊像ならびに傳記を傳来し此所に安置す、即ち堂舎を建て醫王山三念寺と號す」と記されています。
画像のように、建物は直接道路に面していて、六地蔵を除けば、寺院らしき趣きがありません。賽銭箱もなかったので、お賽銭はあげられませんでしたが、これで今日の目的は達成しました。
三念寺前の道を東(画像では右)に向かって進むと国道17号線です。横断して消防署通りと名づけられた広い通りを進むと、本郷消防署と本富士警察署前で春日通りに出ました。このあたりまできて、何十年も前の記憶がようやく今日現在に追いついてきました。とくに行きたいところもないけれど、東西南北、どちらへ行けば何があるのか、ストンと肚に落ちるようになってきたのですが、私の心も脚の疲れも、すでに帰途に就いています。
帰るのに乗る駅は湯島です。
春日通りに出たので、麟祥院に寄って行くことにしました。
庫裡。
山門をくぐると、すぐ左にあった「東洋大学発祥の地」の石碑が見当たりませんでした。かつてその石碑があった場所には新しい寺務所ができていて、石碑は本堂や庫裏の前を通り過ぎたところにありました。
ちょうど三十年前の1989年、NHKの大河ドラマ「春日局」大原麗子。
正厳院★の墓所。毛利秀元の娘で、小田原藩主・稲葉正則(春日局の孫に当たる)正室の万菊姫。毛利秀元は毛利元就の孫で初代長府藩主。
湯島の白梅を右手に眺めながら、かつての湯島切通しを下ります。
帰りは湯島駅から。
日中、千代田線の下り電車は綾瀬止まりと常磐線直通が交互にやってきます。二分の一の確率ですが、日頃の心がけがよくないのか、私の印象ではいつも綾瀬止まりばかり。
この日はどうかと思ったら、お薬師さんの功徳か、常磐線直通電車で、しかもガラガラ。ゆったり坐って帰ることができました。
本土寺参道ではまだチラホラではありましたが、雪柳(ユキヤナギ)の花がほころび始めていました。
→この日歩いたところ。