中庵が大酒呑みだったらしいことは前に書きましたが、豊後であれば、呑んでいたのは焼酎ではなかったかと思います。千代香(じょか)で燗をつけて呑んだか、常温か。
千代香を使うのは宿敵薩摩ふうの呑み方ですから、そういう呑み方はしなかったはず。となると、常温で呑んだのでしょうか。
常温ならカボス(臭橙または香母酢)を搾って呑んでいたかもしれない、と考えましたが、カボスの由来をひもとくと、栽培され始めたのはどうやら江戸時代中期かららしい。
大分県の臼杵に住む医師が京から持ち帰って植えたのが最初とも、三百年前に日田地方に自生(最初は某が植えたのでしょうが)しているのが見つかったのが最初とも……。
いずれにしても、いまから五百年前という中庵の時代にはなかったと考えざるを得ませんが、一縷の望みは起源が江戸時代中期だったとしても、はっきりそれと断定できる史料はない、ということです。
すると、中庵の時代にはカボスはなかったと断定できるものでもない、ということになります。かなり強引ではありますが……我田引水しないと、ワタクシの空想は発展しないので……。
カボスは豊後以外の土地では育たないといわれていました。
現代でも全生産量の98%は大分産というのですから、カボスの好む土壌には何か特殊なものがあるのでしょう。
中庵が立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)を訪ねたとき、手土産代わりにそのカボスを持って行ったと想像しましょう。
男まさりの誾千代も中庵の前ではなぜか女性らしく振る舞っています。酒の席か、料理で澄まし汁が出たときに、中庵が懐から取り出したカボスを搾り落として見せた。
「姫、これは豊後の特産でな。不思議なことに、豊後の地以外では育たぬそうじゃ……」と得意げに説明してみせます。
誾千代の勝ち気が表に出て、「ならば妾(わらわ)が育ててみましょうぞ」と答える。
誾千代の居城立花山城があったのは現在の福岡市ですから、筑前の国です。カボスは育つはずがなかったのですが、どういうわけか、誾千代の掌(たなごころ)に守られて育った。
文禄の役 ― 。
中庵は数千の兵を率いて名護屋から朝鮮に向かいます。出発に当たって、嫡男・義乗に家督を譲り、家訓を遺していますから、万が一ということを考えたでしょう。すると、誾千代に対面できるのも、最後になるかもしれぬと思った……かもしれない。
豊後から名護屋までの途次、最後の別れを交わすために、誾千代を訪ねた。中庵を出迎えた誾千代はなぜか得意満面の表情を浮かべています。
中庵はカボスの一件など忘れていましたが、誾千代が手ずから持ってきた小さな鉢にはカボスの小さな幹が育っていたのです。
中庵は朝鮮で失態を犯し、日本に送り返されたあとは、罪人同様の処遇を受けます。ぎん千代に会うことはなかったでしょう。誾千代が隠居してしまったことも知らなかったかもしれない。
そして、誾千代の死 ― 。
それは中庵が最初に流された出羽湊から常陸の国・宍戸へ移送されて、半年ぐらいたったころです。
ある日、中庵は誾千代の侍女がしたためたと思われる書状を手にします。
出羽に流されていると思って出されたので、中庵の手に渡るまで数か月を経ていました。
そこには誾千代が死んだことを知らせる文面とともに、数粒のカボスの種が入っていた……。
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