昨二十六日はリンパの循環障害のほうの通院だったので、東京・湯島の検査センターへ行きました。
いつもなら早朝六時台に家を出なければならないのですが、昨日は私の担当医が午後一時にしかこられないというので、血液採取は十一時半から、ということになりました。
診察を終え、次回の診察の日まで四週間二十八日分の薬をもらって、お役ご免となったのは二時でした。
この日、通院のあとは吉祥寺を訪ねようと考えていました。
吉祥寺といっても、中央線にある吉祥寺ではありません。本駒込にある曹洞宗のお寺です。
三題噺のようですが、行こうと思いついたのは矢部駿河守定謙(1789年-1842年)の墓に関してブログに書いたことに始まります。矢部さんの墓があるはずの深川・浄心寺を訪ねたときのことを書いたのですが、二度も訪ねながら墓を探し当てることができませんでした。
このことをブログに載せると、「とんだりはねたり」さんという方からコメントをもらいました。「あっしも(墓を)見つけられなかった」という内容でした。
矢部さんを罪に落とし、自殺に追いやったのは鳥居甲斐守耀蔵(1796年-1873年)です。
コメントではその鳥居耀蔵の墓に触れられていました。私は鳥居の墓が吉祥寺にあることは知っていましたが、まさかその墓に参るために行こうと思い立ったのではありません。
吉祥寺と聞いて、ほんのちょっとした縁のある人がそこに眠っていると知りながら、墓参する機会のないまま、すでに何十年も経ってしまっている、ということを思い出したのです。
私が通院する循環器の検査センターから吉祥寺までは地下鉄で二駅ぶんと少々離れていますが、ともに本郷通り沿いにあります。地下鉄は利用せずに、本郷通りを歩いて吉祥寺を訪ねるついでに、界隈のお寺を巡って行くことにしました。
本郷三丁目の交差点から東大前を通過し、テクテクと歩くこと二十分余。吉祥寺はそろそろかいな、まだかいなと思いながら、ヒョイと右手を見たら、一風変わった建物が見えたので、思わず道を折れて近づいてみたら、浄土真宗大谷派・専西(せんさい)寺でした。
寺の起こりは九百年も前の承元元年(1207年)、鎌倉雪の下に結ばれた草庵だそうです。紆余曲折を経て、現在の場所に移転してきたのは享保四年(1719年)のことです。
専西寺と向かい合わせに曹洞宗・大林寺があります。いまのところ、参考にすべき資料が見当たらず、我が宗派であるのに残念ですが、由来などは不明。
大林寺からアパートと道を一本挟んで浄土真宗大谷派・眞浄寺の山門があり、長い参道の先に本堂が見えました。こちらも資料がないので、いまのところ詳細は不明です。
また道を一本挟んで曹洞宗・海藏寺の山門がありました。
本堂は参道を鍵形に曲がったところ。このお寺には富士講中興の祖・身禄業者(1670年-1733年)の墓があります。
山門前で道は直角に左に曲がり、突き当たると団子坂通りに出ます。
突き当たったところに浄土宗・清林寺がありました。
文明十五年(1483年)の創建。江戸三十三観音霊場の第八番札所。祀られているのは聖観音です。
清林寺門前から100メートル足らず、浄土宗・光源寺があります。
天正十七年(1589年)に神田に創建され、慶安元年(1648年)に現在地に移転しました。
光源寺の観音堂と大観音。
元禄十年(1697年)に造られた身丈8メートルの十一面観音がありましたが、第二次大戦で焼失。平成五年に6メートルあまりの像が再建されました。
ここでUターンして本郷通りに引き返すことにします。
本郷通りに戻って地下鉄南北線・本駒込駅入口を過ぎると、浄土宗・天榮寺があります。
創建は元和三年(1617年)、場所は現在の本郷五丁目です。現在地に移転してきたのは万治三年(1660年)のことで、移転前は神田、千住と並んで江戸三大市場の一つだった駒込土物店(つちものだな)がありました。
天榮寺門前の石碑。土物店というのは大根、人参、牛蒡など土のついた根菜類を扱うことから……。
天榮寺から130メートルで浄土宗・定泉寺。十一面観音を祀り、江戸三十三観音霊場第九番。
定泉寺から出版社のビルを挟んで60メートル。天台宗・南谷寺。
元和年間(1615年-24年)、万行という僧が伊勢国赤目山で不動明王像を授けられました。その像を護持して諸国を巡ったあと、駒込村の動坂に庵を開き、赤目不動と号したのが始まりです。
寛永年間(1624年-44年)、三代将軍家光が鷹狩の途中で庵に寄り、目黒・目白不動に対して目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたと伝えられています。
江戸の五色不動の一つです。
目赤不動尊の隣には曹洞宗・養昌寺。
養昌寺にある半井桃水(1860年-1926年)の墓。
長崎県対馬の人。明治二十一年、朝日新聞に入社。新聞小説作家として活躍した人です。樋口一葉の師であり、一葉が想いを寄せていた人でもあります。
「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説で一世を風靡しましたが、いまでは読もうとしても手に入れるのは至難です。私も読んだことはありません。
目赤不動脇の幅が1メートルもないような小径をすり抜けて仙龍寺と龍光寺という臨済宗の寺を捜します。
これより多少広い径でも車はすれ違えそうもない。それなのに一方通行の標識はないようでした。このあたりの路地はまるで蜘蛛の巣みたいです。
小径をクネクネ曲がって辿り着いた臨済宗妙心寺派・仙龍寺。どうも無住のようでした。
臨済宗東福寺派・龍光寺。
創建は寛永九年(1632年)。開基は讃岐丸亀藩主・京極高知(たかかず:1619年-62年)と豊前杵築藩主・小笠原忠知(1599年-1663年)の二大名。なぜに二人の大名が協力し合ったのか、調べが行き届かず、いまのところは不明。
古丸一昌(1873年-1916年)といっても、ピンとくる人はいないと思いますが、「♪春は名のみの 風の寒さや~」という「早春賦」の作詞者だといえば、ピンとくる人も多いかもしれません。
大分県臼杵の生まれ。東京帝大に学ぶために上京した一時期、この龍光寺に身を寄せたことがあるのだそうです。生涯を終えたのも近くで、お墓はこのお寺にあります。
顕彰碑は長野県安曇野市にもあります。なぜかというと、詩は安曇野を散策したときにつくられたからで、そちらのほうが著名なようです。
安曇野では毎年「早春賦まつりコンサート」や「早春賦音楽祭」が開催されて何かと賑やかなようですが、こちら東京ではとくに祭りやイベントはないようです。
さてさて、このあとまた蜘蛛の巣のような小径を辿って本郷通りに戻り、吉祥寺へ行くことになりますが、眠っていると思い込んでいたところのちょっとした縁のある人が眠っているのは、実際は別のお寺でした。
吉祥寺に着き、お墓を探しあぐねた末、お寺の人に訊ねてそのことを知るのですが……。
蜘蛛の巣径を辿っているころの私はそんな結末が待っていようとは知りません。〈つづく〉
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