今月八日、台風の襲来で(実際は我が地方にはこなかったのに等しかったのだけれど)日延べをした形の薬師詣でです。出かける前に地元の慶林寺に参拝。
天気は朝から曇りで、カンカン照りよりはしのぎやすいと思ったのですが……。
慶林寺の参拝を終えて常磐線緩行に乗り、松戸で快速に乗り換え。南千住で降りました。
最初に訪れたのは小塚原回向院。
お寺の前の歩道が狭く、前に立ったのでは全景を写すことができなかったので、帰るときに道路の反対側から写した画像です。
彼方とこちらを分け隔てているのは旧日光道中。通称・コツ通りです。
コツ通りとは奇妙な名前ですが、いわれは小塚原刑場があったので、人骨がいっぱい出たからとも、小塚原の頭だけを取った「コツ」ともいわれています。
このことを知るまで、私は「小塚原」は「こづかっぱら」と読むもの、と思い込んでいましたが、加太こうじ著「物語江戸の事件史」には「骨ヶ原」と記されています。正しくは「こつがはら」だったのです。
ただし、私がワープロソフトとして使用しているグーグル日本語入力では、「こつがはら」でも「こづかっぱら」でもなく、「こづかはら」と入力しないと、「小塚原」と変換されません。
寛文七年(1667年)、刑死者の菩提を弔うため、本所(現・墨田区両国)回向院の住職・弟誉義観上人がこの地に常行堂を草創したのが始まりです。
回向院のすぐ隣が浄土宗の延命寺。
延命寺の首切り地蔵(高さ3・6メートル)。小塚原刑場の刑死者の菩提を弔うため、寛保元年(1741年)に造立されました。
延命寺をあとに、常磐線と日比谷線の高架下をくぐり、扇状に拡がる隅田川貨物駅の線路を一気に跨ぐ跨線橋を渡ります。
人道の階段は急ですが、自転車用通路を歩けば、距離は多少長くなっても、ゆったりしているし、エレベーターもあります。上り切ると、高所恐怖症を持つ私でも安心して渡ることのできる広さでした。
隅田川貨物駅の線路は扇子を開いたように拡がっていて、ある種、見応えがありますが、いくら広さのある橋とはいえ、線路の様子をカメラに収めるためには橋のはじっこへ行かなければなりません。よって撮影は却下。
跨線橋を降りてしばらく進むと、コツ通りが明治通りと交わる泪橋の交差点です。
ここまで荒川区、この先台東区。
昔は隅田川に注ぐ思川という堀があり、そこに架かっていたのが泪橋でした。現在の台東区のほうから小塚原の刑場に引かれてきた罪人はついに今生の別れがきたと涙を流し、見送る縁者たちは最期の別れがきたことに袖を濡らしたのです。
ここからほど近いところにある、日本堤のいろは商店街では町おこしとして、漫画「あしたのジョー」のふるさとと謳っています。ジョーこと矢吹丈が所属する「丹下拳闘クラブ」というボクシングジムがこの橋のたもとにあった、という設定になっているのです。
交差点を左折して、しばし明治通りを歩きます。あるところで右折して、最初の路地を左折すると、平賀源内の墓があるはず……でしたが、曲がる角を間違えたのか、墓はありませんでした。
曇り空で、カンカン照りよりはありがたいと思って歩いていますが、かなり蒸し暑くて、すでに汗びっしょりです。薬師詣でが目的で出かけてきているのですから、お藥師さんをお祀りしているお寺を行き過ぎていたら、なんとしても戻らなければなりませんが、平賀源内の墓はついでに訪ねるところだったので、捜す努力は放棄してそのまま進みます。
もしかしたら行き止まり? と訝るような小径の先が鉤型に曲がっていて、このまま進んで突き当たりに出くわしてしまったら、と思いながら……。
路地の先に今日の目的地・橋場不動尊がありました。
正式な名称は砂尾山橋場寺不動院。天台宗の寺院です。
「新編武蔵風土記稿」などには、このあたりを支配していた砂尾修理大夫という人が開基したと記されています。
いつごろの人かというと、「修理太夫太田道灌と此辺にて合戦ありしを砂尾石浜の戦といふ」とありますから、室町時代末期の人です。しかし、他の書には「砂尾修理太夫がこと、いかなる書に出るや所見なし。又砂尾石浜の合戦といへるも未聞事也。疑べし」とも記されています。
諸説合わせると、実際の開創は室町時代より遥かに昔の天平宝字四年(760年)。
当初は法相宗の寺院だったのを寛元年間(1243年-46年)に、砂尾修理太夫が天台宗に改めて中興、というのが辻褄も合っていて正しいようです。ただし、この砂尾修理太夫がいかなる人物かということはいまのところわかりません。
本堂は弘化二年(1845年)の建立。
本尊の不動明王(良辯僧都作)と一緒に祀られているはずの薬師如来(恵心僧都作)は「文政寺社書上」によると、砂尾修理太夫の守り本尊で、坐像であったと記載されていますが、現存する薬師如来は立像だそうです。
「十方庵遊歴雑記」には「本尊をば砂尾不動と称して一堂に安置し、又傍に薬師尊あり」と記されているので、堂内のどこかに祀られていると思うのですが、堂内は薄暗くて、よく見えませんでした。
「文政寺社書上」とは、文政八年(1825年)から同十一年にかけて、江戸幕府が江戸の町々および寺社から,それぞれの町や寺社の由来などについて書き出させた調査書で、「文政寺社町方書上」の一部。
また「十方庵遊歴雑記」とは、江戸・小日向(現・文京区)にあった廓然寺(明治になって廃寺)の住職だった十方庵敬順(1762年-1832年)が隠居後に各地を旅した先での見聞を記録したものです。
いずれも国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
本堂の右前に聳える樹齢七百年といわれる大公孫樹(イチョウ)です。
江戸時代、隅田川が交通の動脈であった時代には、隅田川を舟で行き交う人々の目印になったといわれます。
帰りは表門から。
この山門前からは我が母なる隅田川も白鬚橋もほんの少し先です。体調万全なら見に行きたいところですが、暑さにやられて、ただ歩くだけでも辟易していました。橋場不動尊参拝で今日の目的は果たしているので、帰り途にある二か所だけ巡って帰ることにします。
橋場不動尊から四分歩いて、松吟寺のお化け地蔵前に着きました。
享保六年(1721年)の建立。
お化け地蔵と名づけられたいわれは、かつて大きな笠を被っていたが、その笠がいつの間にか向きを変えていたからとか、地蔵菩薩の石像としては高さが3メートルあまりと並はずれて大きいからなど、いくつかの言い伝えがあります。
このあたりは、今年五月の薬師詣でで訪ねた総泉寺の境内地でしたが、総泉寺は関東大震災で被災し、昭和四年に板橋区へ移転してしまいました。平賀源内の墓もこのお化け地蔵も、本来なら一緒に移転したはずですが、なぜか元の地に残されたのです。
お化け地蔵の右の建物に、近寄ってみないと、見過ごしてしまうような表札があり、松吟寺とご住職の名が掲げられていました。
お寺そのものは寛永二年(1625年)、総泉寺の庵室・松吟庵として開創されたのが始まり。
松吟寺から五分で玉姫稲荷神社に着きました。
奈良時代中期の天平宝字四年(760年)、京都・伏見稲荷大社より分霊を勧請して創建。祭神は宇迦之御魂命。
それから五百七十年あまりあとの正慶二年(1333年)、新田義貞が、鎌倉の北条高時追討の折に当社で戦勝を祈願し、弘法大師直筆という稲荷大神の像を、瑠璃の玉塔に奉納したこと(玉秘め)が社号の由来となったとされていますが、そういうことなら、その前はなんという名であったのでしょうか。
もう一つ別の説があります。
それは先の砂尾修理太夫と同一人物だと思われる砂尾長者という人の娘(玉姫)が失恋して池に身を投げ、このことを悲しんで祀ったのが玉姫稲荷神社だという説です。
先ほど参拝してきた不動院の境内には、その池の名残が残っているそうですが、ざっと見た限りでは、それらしいところはありませんでした。
浅草の住人だったとき、この境内で開かれるこんこん靴市を見にきたことがあります。二十年近くも前のことなので、記憶はほとんど薄れていますが、残り物ばかりを売っている、という印象を受けたので、何も買うことなく引き揚げたという憶えがあります。
手水の水はコンコンと湧き出ていました。
拝殿前には「あしたのジョー」のパネルが置かれていました。以前はヒロイン・白木葉子のパネルも並べてあったようですが、何か不都合でもあったのか、撤去されていました。
ここから隣町・日本堤(玉姫稲荷神社の所在地は台東区清川)にある、いろは商店街の東端までは歩いて数分という距離ですが、入り口を覗けば歩いてみたくなるので、すっかり疲れ果ててしまった今日は行かないことにします。
今日、少しだけ巡った橋場、隣の東浅草にはお寺がたくさんあるので、改めてくる機会もあろうかと思います。平賀源内の墓も含めて、その機会に……。
今月四日未明に発症した持病は、二日二晩布団に突っ伏して過ごした挙げ句、去ってくれましたが、それより前、七月の二十五日ごろから私を悩ませてくれるようになった坐骨神経痛は依然として治る兆しが見えません。
ただ、痛みが出ても、しばし腰を下ろして休めれば、また歩き出すことができるので、もしかすると無理かもしれないと思われる薬師詣でに出かけてきましたが、不思議なことに、歩いている(電車に乗っている時間も含めて)およそ二時間の間、一度も痛みは出ませんでした。
日課にしている慶林寺参拝でも、私は友人知人の無事息災を祈るだけで、自分のことはお願いしないことに決めています。毎月の薬師詣ででも同様です。
「脚を引きずりながらきておるのに、自分の平安を祈らず、他人の平安を願うとは頑固なやつじゃな」とお藥師さんも呆れておられるかもしれません。しかし、その頑固さを愛でて、今日の日は神経痛が出るのを抑えて下さったのではないかと思うのです。
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