埼玉県三郷の寺院巡りをしてきました。
吉川駅で降り、南口に出ました。
先月、吉川の寺社巡りをしたときと同じメートー観光の路線バスに乗ります。ミニバスです。
前回は「道庭(どうにわ)公園」という吉川市内の停留所で降りましたが、今回は道庭公園を越え、さらに吉川と三郷の市境も越えて、「円明院北」という停留所まで乗ります。乗車時間は九分。
最初に訪れたのは圓明院(えんみょういん)。永正年間(1504年-21年)の創建。
真言宗豊山派の寺院で、本尊は薬師如来ですが、有名なのは陣にある木造不動明王立像です。興教大師の作といわれています。檜材の一木造り玉眼で、像高は87・5センチメートル。
三郷にも三郷七福神があります。その一つ・弁財天を祀る圓明院の弁天堂。
圓明院を出て八分で彦名関跡に差しかかりました。
近くを流れる中川は江戸時代に入って現在の利根川が整備されるまでは利根川でした。行き交う船から通行料を徴収する関があったのです。
圓明院から十分で曹洞宗慈眼寺に着きました。
本堂前には鎧兜に身を固めた一対の武将の石像に守られた、随分エキセントリックで、しかもかなり大きな墓がありました。
妙な墓を建てる人があるものだ、と思いながら眺めると、廣徳寺殿傳照玄心大居士と彫られていて、右の少し低い塔には高城下野守奥方之墓とあったので、後ろに廻ってみると、右側面に「従五位下野守小金城主 高城胤吉公 永禄八年二月十二日殁」とあって、北小金・小金城の城主であった高城胤吉の墓だとわかりました。
しかし胤吉の墓なら、私の地元の廣徳寺にあり、その夫人は月菴珪林尼で、墓は私が時に応じて参拝に赴く慶林寺にあります。ということは、墓ではなく、供養塔なのなのかもしれないが、なにゆえ北小金とは無縁と思えるこの地に供養塔があるのだろうと訝りながら、供養塔と一緒に建てられている當山暦祖年譜を見ると、開山は「雪庭樹柏大和尚 弘治二年三月廿九日」と彫られていました。
庵に帰ったあと、以前廣徳寺で撮影してきた歴住碑の画像を見ると、雪庭樹柏大和尚は確かに廣徳寺の第三世で、慈眼寺開山と彫られてありました。
これも帰ったあとに調べたことですが、「慈眼寺略縁起」によると、創建は弘治二年(1556年)。開基は下総国中金杉村の領主であった高城守胤が雪庭樹伯和尚を開祖とし、高城一族の菩提寺として創建した、と記されていますが、高城家の系図に守胤という人物はおらず、弘治二年当時の当主は胤吉なので、恐らく胤吉の創建になるというのが正しいのでしょう。
慈眼寺から次の玉蔵院までは七分。
玉蔵院の手前で東京外環と国道298号線が並走する高架下をくぐります。
真言宗豊山派玉蔵院。創建は慶長十一年(1606年)。
玉蔵院から十分で密蔵院。密蔵院も真言宗豊山派の寺院です。慶長七年(1602年)の創建。
このあたりでハタと気づくことがありました。このへんの住居表示は三郷市「彦野」というのです。
吉川の寺社巡りをしたときに詣でているので、今回は割愛しましたが、吉川の寺社巡りで、最初に詣でた安養院があるのは三郷市「彦糸」です。
今日最初に詣でた圓明院は一字違いの同「彦成」にあります。次に「彦名」関跡という標識を見ました。二つ目の慈眼寺があるのは「彦川戸」。玉蔵院があるのは天神ですが、つづく密蔵院は「彦野」、次に行く延命院は「彦倉」と、彦、彦、彦……の連続です。
さらにその先、次回のブログに回す予定の東光院(上口)、善照寺(同)、迎摂院(番匠免)と彦の字はつかないので、私には得体が知れないながらも、「彦」シリーズは終わったのかと思いきや、さらに先の円能寺は「彦沢」、密乗院が「彦江」と「彦」が復活します。
「彦」の疑問を抱えたまま、密蔵院から五分歩いて、彦倉の延命院に着きました。延命院というより彦倉虚空蔵尊といったほうが通りがいいようですが、ここも真言宗豊山派の寺院です。
虚空蔵堂は瓦の修復工事中でした。祀られている虚空蔵尊は文明十八年(1486年)に古利根川が洪水の折、奥利根の上流から流着して、当地に来臨。この地に滞留されたとされています。弘法大師の作といわれているそうです。
境内にある鰻供養塔です。
鰻は虚空蔵の使者や化身である、という理由から、虚空蔵を祀っている地域、および虚空蔵が守り本尊である、丑年寅年生まれの人はこれを食べない、という伝承は日本全国で数十か所もあるといわれています。それらの地域の特徴として、洪水が多発した地域である、ということが共通しているようです。
彦倉虚空蔵尊を祀るこの地区(三郷市彦倉)でも、言い伝えによって現在でも鰻を食べない人がいるそうです。
延命院本堂。
創立は室町時代と推定されています。
〈つづく〉
→この日、歩いたところ(吉川駅南口→円明院北はバスを利用)。
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